近頃、おかしな夢をみる。
バスに乗った瞬間、心臓が止まるかと思った。
この光景を福富は知っていた。後ろの席で仲良く喋る女生徒たち、草臥れた風に立つサラリーマン、眠っている老婆。知っている。それだけではない。混み合う車内にいる乗客全てその配置そっくりそのまま憶えがある。これから乗ってくる乗客も。
視覚だけではない。車内に漂う匂いさえも脳に訴えかけてくる。これは既に体験した事だと。
「どうした?」
立ち止まって動かなくなった福富の背を後ろに乗った金城が軽く叩いた。
福富ははっとすると急いで歩き始めた。その際に運転手がじろりとこちらを見た。その顔も記憶にある通り年季を感じさせる厳しい顔つきだった。
それなり混んでいる車内に空いている席などあるはずもなく、福富たちは並んで立った。その位置でさえ寸分の狂いもなく一致している。ぞっとした。
何か違う所はないのか。車内を見回す福富に隣にいた男が揶揄うように言った。
「どうしたキョロキョロして」
「金城」
福富の気も知らず、恋人は気楽そうに笑っている。無性に腹が立った。
「お前は予知夢を信じるか」
脅かすつもりで言えば金城は首を傾げた。
「いや」
「オレがみていると言ったらどうだ」
福富の言葉に興味をそそられたのか緑の瞳に熱が篭る。
「どういう意味だ」
「最近、同じ夢ばかりみるんだ」
決まって福富はバスに乗る。今乗っているバスだ。そして大体が金城と一緒にいる。大体というのは違う時もあるということだ。そこで福富は金城と何か会話をする。内容は憶えていない。毎回違っている気もするし、同じ気もする。そんな短い夢だった。
福富が話し終えると金城は顎に手を当てた。
「予知夢にしては平凡な内容だな」
「そこが怖いんだ」
福富は金城を睨んだ。
「夢の続きでは事故に巻き込まれているのかもしれない。憶えていないだけで」
「なるほど。で、それが今なのか?」
「あぁ」
福富が辺りを油断なく見ながら頷く。相違点はまだ見つからない。椅子に座った女性が化粧ポーチを鞄から取り出したタイミングまでぴったしだ。
福富の返答に金城は少し考えるととんでもないことを言った。
「ただ気のせいじゃないか」
「なんだと」
思わず語気を荒らげて金城を見れば、意外にも金城はは理性的な顔をしていた。
「オレたちはこのバスに何回も乗っているだろう。夢に出てきても不思議じゃない」
確かに駅と金城のアパートの近くを行き来するバスには二人が付き合い始めてから数え切れないくらい乗っている。金城は福富が静岡に来るといいと言っているのにも関わらず毎回駅まで送り迎えに来る。その為、乗る時はいつも金城と一緒だ。
「だが、乗客まで夢と同じなんだ」
福富の反論に金城は首を振った。
「それが気のせいだと言っている」
そんなはずはない。気のせいでここまで記憶が重なる事などありえない。
しかし、それを夢をみていない金城に言ってもわからないだろう。福富は目の前の席で眠っている老婆を指し示した。
「いいだろう。証明してやる。このお婆さんは次の駅で降りる」
ほう。金城がおかしそうに唇の端を上げた。
「外れたらどうする」
「お前こそ考えておけ」
「その時は、とっておきのプレゼントをやるさ」
金城はそう言うととびきり爽やかに微笑んだ。
そう言っている間にもバスは走り続け、すぐに次の駅に到着した。
バスが停車したにも関わらず老婆は未だに目を瞑ったままだ。
「オレの勝ちだな」
金城が得意げに福富の肩を小突く。
いや、まだだ。福富の記憶をなぞるようにぱちりと老婆が目を開く。
あらぁイヤだ。彼女はそう言うと杖をついてゆっくりとバスを降りていった。
今度は福富が得意になる番だ。
「これで信じる気になったか」
「多少は」
強情な奴だ。福富が唸る。
「言っておくが、お前のその帽子も夢に出てきているんだぞ」
二人でアパートを出るとき『最近、買ったんだ』と蛇の刺繍が施されたそれを金城が被ってきた時には息もできないくらい驚いた。それだというのに、当の金城は涼しい顔だ。
「それでその夢が予知夢だとしてどうするつもりだ」
「なに」
金城の問いに目を見張る。
「降りるのか」
そう金城が言った途端にドアが閉まった。嫌なタイミングだ。金城も苦笑する。
「どうする。次の駅で降りるか」
オレは構わないが。そう言いたげな金城の言葉を福富は途中で止めた。
「荒北も待っているだろうし、そういうわけにもいかないだろう」
「このまま乗っていたら事故に巻き込まれるかもしれないぞ」
信じていないくせ。口に出さずに睨むと金城は参ったというように両手を上げた。
「信じているさ」
「夢の中でオレたちがどの駅で降りたかもわからない。つまりだ。次の駅で降りても確実に安全とは言えない」
福富の夢は大抵目の前の席が空いたあたりで終わる。ここから先は未知の領域だ。何が起こるかわからない。それが常ならば当たり前のことなのだが。
「怖いか」
少しだけ身体を固くした福富に金城が囁いた。それと同時に右手に金城の手が重ねられる。
「手でも握ってやろうか」
「おい」
こんな人目があるところで。そう咎めるように言えば金城は悪びれもせずに応えた。
「この混雑だ。誰も見てやいないサ」
「だが」
尚も言い募ろうとする福富に金城は澄んだ瞳を向けた。
「嫌か」
金城の手から力が抜ける。
卑怯だ。
離れていこうとする金城の手を今度は福富が掴んだ。しっかりとした厚みのある手を放さまいと握り締める。
「嫌なわけがないだろうっ」
一気に熱が顔をまで昇っていく。あぁ本当にこの男は。
金城を見ればあちらも照れたように顔を赤くしていた。
「金城」
「福富」
互いの名を呼んで二人はしばし見つめあった。
しかし、それも長くは続かなかった。
「あの〜」
のんびりとした声が聞こえた。振り返ると老人が立っていた。彼は震える指先で、金城と福富の繋いだ手、の向こう側の空席を指すとこう言った。
「そこ座っていいかね」
「ど、どうぞ」
二人は赤い顔を更に赤く染めて慌てて手を離したのだった。
果たして福富の夢は本当に予知夢だったのだろうか。
無事にバスを降りて静岡駅に到着した二人は荒北と合流した。そして、三人でご飯を食べ、今しがた新幹線に乗る福富を見送ったところだ。
「なぁ」
金城は福富のいなくなった方角を見ている荒北に話しかけた。
「繰り返し同じ夢をみるってどういうことだと思う」
「アァ? なんだよ。唐突に」
荒北は悪態をつきながらも両手を組む。どうやら考えてくれているらしい。
「何か心配事でもあるんじゃナァイ」
例えば、受験生の中には試験に落ちる夢を何度もみる者もいるらしい。
「やはりそう思うか」
「なに? 福ちゃん?」
荒北の鼻がひくりと動く。
「あぁ。オレとバスを乗る夢を何度もみるらしい」
「それってやっぱりィ」
――不安、なのだろうか。
春から福富は大学を休学して海外のチームに行くことになっている。金城と福富の距離は今以上に離れることになる。
「金城。てめェ、福ちゃん不安にさせんなヨ」
「そのつもりはなかったんだが」
「きっと福ちゃんも寂しいんだろうなァ」
しみじみと荒北が呟いた。その言葉に違和感を感じる。
寂しい? 福富が?
海外のチームに行くと自分に報告した福富の顔を思い出す。『夢への第一歩だ』と嬉しそうだった。寂しいどころか金城の事など頭になかったように思う。
実際、頭にないのだろう。彼は一度手に入れた者は手の内より出ていかないだろうと思っている節がある。きっと東京と静岡だろうが、海外と静岡だろうが彼にとって変化はないのだ。
「違うな」
夢に出るほどの寂しさや不安を福富が感じているとは思えない。
「じゃ、なんだよ」
福富は予知夢だと言った。だがその夢は常に同一のものではなかったらしい。決まっているのは混雑したバスに乗ること。二人で立っていること。相手の男がニット帽を被っていること。会話すること。目の前の席が空くこと。
それら舞台装置が共通していて後の部分は毎回違うとのことだ。福富自身も曖昧な記憶らしく憶えていないらしい。
それは予知夢と言えるのだろうか。並行世界の未来か。それとも。
「実験? シミュレーション?」
理解するよりも先に言葉が衝いて出た。
「ハァ?」
「共通条件下に変化を加え、検証する。これは実験だ」
「話が見えねェんだけど」
呆れたように荒北がぼやく。
「つまりだ。今日の出来事がうまくいくように条件を変えて試していたんだ」
それを福富は夢でみてしまったんだ。
「だからァ。さっきから話が飛躍し過ぎてんだけどォ」
「何もなかったのは当然だ。何も起こらない条件に設定していたんだ」
「誰がァ?」
どうやら突っ込むのは諦めたようだ。荒北が投げやりに言った。
「まさか神様ァ?」
そんな大仰なものでもないだろう。
首を振る金城に荒北はへいへいと言い、違う質問を投げかけてきた。
「それじゃそのボタンが外れてるのもかヨ」
荒北が金城の胸元を指した。シャツのボタンがひとついつの間にか取れていた。
「条件のひとつかもしれないな」
「バタフライエフェクトだ」と言うと荒北もバタフライエフェクトォと馬鹿にしたように繰り返した。
そして深い深いため息をつきながら面倒くさそうに言った。
「じゃ、聞くけどよ。一体何の為にィ?」
金城は黙って微笑んだ。
いくら友人といえど
――オレと福富の為に。などと言うのは憚られた。
もちろん、これが真実であるはずがないことは承知している。
だが、嬉しいではないか。
もしも、暖かい眼差しで自分たちを見守っていてくれる名も知らない“誰かたち”がいるとしたら。
「まぁ、とりあえず福ちゃんのこと頼むぜ」
それだけが言いたかったのだろう。荒北が金城の肩を叩いた。
「あぁ」
金城は深く頷く。あのバスの中でひとつ決めた事があった。
「とびきりのプレゼントを贈るサ」
日差しを背中に受け止めてながら金城はバス停に掲示された時刻表を眺めていた。
到着が遅れている。道が混んでいるのだろうか。市内を循環して走るこのバスもいつも同じになんてことはあり得ない。
背中が暖かいこの分ではすぐに春がやってきそうだ。
今年はどんな春になるのだろうか。巡る季節も出会う度に違っている。。
豪雪の冬もあれば、暖かい冬もある。悔しさに泣いた夏もあれば、歓喜で泣いた夏もある。始まりの春もあれば、別れの春も。
同じ季節は二度とやってこない。同じ時も。
それがわかっていても、人間は輪のように繰り返される永遠を心の何処かで望んでいる。
金城はアパートに準備してある揃いのリングを思い出す。
異性愛の儀式に倣うのはおかしいかもしれない。だが、他に方法を知らない。
いつの日か後悔するかもしれない。若さゆえの過ちと嘆く日がくるかもしれない。
それでもこの狂おしいほどの刹那を永遠としてしまいたい。
叶わないと知っていても。
ふと金城は振り向いた。恋人がこちらに向かって歩いてくる姿が見える。
最初になんて声をかけようか。
『バスが遅れているんだ』か? それとも『遅かったな』か。
『
――愛している』はきっとまだ、早い。
どれが正解が誰かが教えてくれれば良いのだが。
弾む心のまま金城は考え、そして決めた。
「
――。」
口を開く金城の背後でバスが到着する音がした。
【輪】