その夜。ベッドに横になるとすかさず新開の声が響いた。
『……おやすみ、寿一』
何か言いたげな新開を無視して福富は応える。
『あぁ』
ふっと新開の気配が消える。福富はため息をはいた。
新開に無駄な心配をかけない為にこうしてベッドに入っているが、眠る気は皆無だ。結局、獏を呼び出すには満月であることが条件だったため、今日は行えない。
福富は眠気を吹き飛ばすように薄暗い天井を睨む。
敵の目的は何だ。そもそも何故、新開なんだろうか。
単に福富の精神を弱らせたいのならば相手は誰でも良いはずだ。もしくは、新開に限らず色んな人間を使った方が効果的ではないか。自分の考えに吐き気を覚えながら、福富は考える。
それでも、敵は新開だけに拘っている。そこではっとする。もしかして。
敵の目的は新開か。
新開はおそらく鬼の中でも上位の力を持つ存在だ。本人が望もうと望まざるともその力を利用したい輩は大勢いる。そういった連中にとって、鬼を封じている福富は邪魔だ。
敵は二人の間にある信頼を崩そうとしているのかもしれない。
愚かだと思う。この程度の事で、福富が新開を見捨てる事はない。これは絶対だ。
しかし。と福富は緩みかけた口を引き締める。
敵は案外は近くにいるのかもしれない。既に新開と接触している可能性もある。明日、新開に訊かなければならない。
それにしても。福富はため息をつく。
「とんだ変態に目をつけられたものだ」
『まったく心外ですね』
涼し気な声がこだまのように部屋に響く。驚いた福富は上半身を起こした。
「何者だ」
『人のせいにして。あれはあなたが欲求不満だからではないですか?』
福富の問いを無視して、呆れたように声の主は言った。
『ほら、今だって』
「何を言って
――ッ」
急激に身体の熱が上がり、福富は息を荒げる。何故。早鐘のように鳴る心臓を抑える。
視界に白い靄がかかる。まるであの夢の続きのようだ。
『そう。これは夢です』
打って変わって優しく声は囁く。
『何も怖いことなどありません』
さぁ、呼んで下さい。と声は言った。
「よ……ぶ?」
誰を。敏感になった身体は布が触れるだけでも震えてしまう。
『彼を』
姿の見えない声が笑ったような気がした。
『彼しかあなたを救えない』
「あッ」
脳裏に今までの夢で会った新開の姿が流れてくる。欲しい。欲しい欲しい欲しい。
無意識に左手が黒い手袋を掴む。
――やめろっ。
心の中で叫ぶが止まらない。
「新開ッ」
手袋の抜き去る。風が吹き荒れて、部屋のカーテンが揺れる。
そして、ベッドが福富以外の重さに沈む気配がした。
「寿一」
困惑した顔をした新開が福富の向かい合って座っている。
新開は福富の顔を一瞬だけ見て、すぐに視線を落とした。
「どうしちまったんだ、それにこの部屋」
「新開」
名を呼ぶとぎくりと新開は顔を上げた。
福富はパジャマのボタンに手をかける。
ダメだ。そう思っているのに止められない。
ひとつ、ひとつ震える手がボタンを外していく。
「、寿一」
新開が見ている。ドクドクと胸が高鳴る。食い入るような視線に煽られる。
全てのボタンを外し終えて、福富は艶っぽく息を吐いた。
「新開」
新開の喉が動いたのがわかった。
「新開」
もう一度、名を呼べば操り人形のように新開はふらふら手を伸ばし。
福富を強く抱きしめた。
「
――ッ寿一」
身体が歓喜に震える。
その時、コトン。と床に何かが落ちる音がした。福富はちらりと視線を走らせる。
先ほど新開の巻き起こした風のせいで動いたのだろうか。古ぼけた本が机から床へ落ちていた。
――わざわざ山奥の寺から送ってもらったんだ。大事にしてくれ。
爽やかに本を差し出す男の姿が浮かぶ。
「金城」
それは獏について書かれた本だった。
あぁ。つぅっと涙が滑り落ちる。
ダメだ。こんなこと、ダメだ。
だが、意思に反して身体は溶けてしまって。新開から与えられる熱を待ち望んでいる。
新開の唇が首筋に触れた。柔らかい感触に眩暈がする。
そして、何もわからなくなった。
トン。と首の裏を叩くと福富は呆気無く気を失った。崩れ落ちる身体を肩で支えて、新開は大きく息を吐いた。危なかった。横を向くと、福富の靭やかな胸筋が目に入った。なんとなく居たたまれずに、開いているボタンを閉め直す。普段ならば気にしないのだが。
「何故です」
聞き覚えのある声が部屋の中央から聞こえた。
そちらを見ずに新開は穴にボタンを通すことに集中する。
「何故、やめたのですか。その人間は逆らわなかったでしょう」
僕の術のお陰で。誇らしげに声は言った。
「確実に彼はあなたのものになったはずです」
どうして。鋭い声が新開に投げかけられる。
「あなたはこの人間を愛しているのでしょう」
新開は一瞬だけ息を止めて、しかしすぐに微笑んだ。
「泉田」
柔らかい声で名を呼ぶ。まさか、彼が夢魔で新開の知らぬところで福富にちょっかいを出していたなど、それこそ夢にも思わなかった。自らの迂闊さを新開は悔やむ。
「オレはな、花が好きなんだ」
「は?」
唐突に語り始めた新開に泉田は目を丸くする。
「地獄にゃ花なんてなかったんだ。こっちで初めて見た時は、驚いた」
わけも分からず人間界に放り出されて、まず目についたのが大きな桜の樹だった。美しく咲き乱れる薄いピンクに新開は息を呑んだ。地獄ではこんな綺麗な色、見たことがない。そして、金髪の少年と出会った。
「でも、泉田。オレは」
新開はあの頃よりも大きくなった元少年を見た。頬に残る涙の跡を指で優しく拭ってやる。
「切り取られて綺麗に飾られた花よりも、
野に無造作に咲くあいつらの方が好きなんだ」
ずっとずっと。
わかるか。と新開が問えば、泉田は俯く。
「わかりません」
ですが。泉田は長い睫毛を伏せた。
「僕がお役に立てなかった事はわかります」
そこで新開は初めて泉田を見た。沈黙がしばし降りた。
それに耐えかねたように先に泉田が動く。
「ご迷惑をおかけしました」
泉田は頭を下げると、新開に背を向けた。
いつもはしっかりと伸びている背筋が、今は小さく丸くなっているように見えた。
「泉田」
気付いたら、名を読んでいた。その背を見ていたら、そうせずにはいられなかった。
泉田が振り返る。
「また、走ろうぜ」
告げられた言葉に彼は眉を下げて、泣き出しそうな笑顔で応えた。
「はい」
さて、問題はこっちだ。
泉田の妖気が完全に消え去った後、新開は腕の中の男に目を向けた。その寝顔が穏やかな事にほっと胸を撫で下ろす。
そして、その表情を再び引き締める。手のひらに妖力を集中させて、福富の頭に手を伸ばす。髪を撫でると、ブリーチで痛んだ毛が引っ掛かる。それでも構わず、ゆっくりと手を動かす。
妖力の使い道は攻撃だけとは限らない。鬼のイメージとは合わないだろうが、傷を癒やすことだってできる。他にもこうして。人間の記憶を消すこともできる。
新開は心の中で独りごちる。
人の記憶を勝手に消したど聞いたら、福富は眉をしかめるだろう。その顔がリアルに想像できて笑ってしまう。
新開は今回の件に関わる記憶を全て消すつもりだった。覚えていても何も良い事がない記憶など、消してしまった方が良い。
よほど心に強く焼き付いているような事がなければ、今回もうまくいくはずだ。
新開は以前、同様の術を行った時の事を思い出す。
「お前は良い鬼か」
桜の樹を眺めていると後ろから声がした。振り返ると“ニンゲン”が立っていた。地獄で聞いた姿よりも小さくて細い。子どものニンゲンか。ちゃんと見ようとしたが、きらきらと金髪が太陽を反射して新開は目を細めた。
「お前は良い鬼か」
少年は繰り返す。太い眉をききりとさせて彼は新開の頭上の角を見ていた。
「良い鬼って?」
鬼は鬼だ。地獄では鬼以外の鬼は、当たり前だがいない。
「命を奪わない鬼」
本で読んだ。
当然のように少年は言った。少しも迷いなく答える姿が落ち着いていて格好良かった。
「いいな、それ」
新開は頷く。今までの新開はただの鬼だった。良い鬼なったら、地獄にいる弟に自慢できるかもしれない。
「オレ、良い鬼になる」
「今までは違ったのか」
問われて新開はぐしゃぐしゃと頭を掻く。
「わっかんねー」
だからさ。と新開は少年に手を差し出した。
「お前が教えてくれよ」
「ム?」
少年は差し出された手を凝視する。太い眉の角度が少し上がった気がする。
「良い鬼になる方法をオレに教えて欲しい」
少し丁寧に言い換える。オレ、新開隼人と言い添えるのを忘れない。
「本気で言っているのか」
子どもとは思えない鋭い目が新開に突き刺さる。
「あぁ」
負けじと新開はその視線を真っ向から受け止める。
しばし睨み合ってると、少年が口を開いた。
「福富寿一だ」
「え」
少年の手が新開の手をしっかりと握る。その強さに「痛い」と言うと「オレは強い」と返された。
面白い奴。笑う新開の視線の先で、薄桃色も花びらが青空に舞っていた。
良い鬼とは。命を奪わない。悪い妖怪をやっつける。
それが福富が教えてくれた条件だった。本当かと問えば、本で読んだと返されるので新開は福富を信じるほかなかった。
福富と一緒に新開は“良い鬼”になるために修行を開始した。と言っても、主な内容は妖怪退治だったが。
その霊力の高さからか福富は悪い妖怪たちによく目を付けられていた。でも、それだけではないと新開は思っている。彼の真っ直ぐで純粋な魂が髪と同様にきらきらと輝いて妖怪たちを惹きつけてしまうのだ。
ともあれ、福富と新開はずっと一緒にいた。出会った時は少し大きめだった福富の学ランが窮屈そうに着られるようになるまで。
ある日、福富の部屋にいた時のことだ。福富が突然「箱根学園に行く」と宣言した。きょとんとする新開に福富は丁寧に日本の教育制度について説明してくれた。最も、新開は途中で見せられた箱学のパンフレット見て「寿一、ブレザー似合うかな」などと考えていた。
とりあえず、高校というものに通う為に遠くに福富が行かなければならない事は理解した。
「なぁ、箱根ってここより寒いか?」
「同じ県内だからそんなに変わらないと思うが」
「良かった」
首を傾げる福富に新開は指で作った銃を差し向ける。
「酷いな。オレの事を置いていくつもりか」
ばきゅん。撃ち抜けば、福富が目を見開く。
「箱根でも天下を取ろうぜ」
二人の活躍によって秦野では悪さをする妖怪は見なくなっていた。
「あぁ」
福富が力強く頷く。その顔が嬉しそうに僅かに動いたのを見て、新開も相好を崩す。
その時、遠くから福富の母親が息子の名を呼ぶ声が聞こえた。福富は返事をし、すぐに戻ると新開に告げて部屋を出て行った。
暇になった新開は福富の部屋の本棚を覗く。ほとんどロードに関する書籍で埋め尽くされていたが、普通の本もちらほら混ざっていた。新開は下の奥の方にあった本を引っ張りだしてみる。何故、その本を選んだのか。答えは簡単だ。背表紙に鬼の絵が描かれていたからだ。
表紙にもその鬼が描かれていて、隣で人間に子どもがにこにこ笑っていた。パラパラとページを捲って、新開は噴き出した。出てくる言葉に見覚えがある。
『良い鬼』『命を奪わない』『悪い妖怪をやっつける』
なるほど。福富の言っていた本とはこの事だったのか。更に捲ると福富の言っていなかった条件が出てくる。
『友達を大切にする』
寿一の奴、忘れてたな。これは戻ってきたら文句を言わなければならない。
新開はもっと福富をからかえるネタはないかと、紙を捲る速度を上げる。
そして、あの言葉が新開の目に飛び込んできた。
『鬼の記憶を持った人間は不幸になる』
呼吸が、手と共に止まる。目が釘付けになって何度も何度も上から下へ字を追う。
バクバクと心臓が激しく鼓動していた。
――これはどういう意味だ。
次のページを開こうとした瞬間。
「待たせたな」
背後から聞こえた声に新開は飛び跳ねた。福富が戻ってきたのだ。
「お帰り」
不審な目で見てくる福富を笑顔で迎えながら、新開は後手でそっと本を隠した。
その後、平穏に時は過ぎた。モノマネ妖怪今井のせいで福富の推薦が危うくなったりもしたが、無事に福富は箱根学園へと進学できることなった。そして、福富が中学を卒業した日。新開は次元の裂け目を見つけた。
そもそも、新開が人間界にやってきてしまったのは地獄で次元の裂け目に落ちてしまったせいだ。真夜中の公園で不気味に口を開ける裂け目を眺めて新開は考える。これに飛び込めば、地獄へ帰れるかもしれない。
だけど。新開は裂け目へと進む足を止めた。
――寿一と、離れたくない。
天下を取ろうって約束した。あの時の福富の顔を思い出す。
――寿一だって、急にオレがいなくなったら困るだろうし。
言い訳が心の中で渦を作る。それに巻かれて新開は全てに目を瞑ろうとした。だが。
その渦巻きに異物が入り込む。
『不幸になる』『持った人間は』『鬼の記憶を』
うそだ。そんな事、真実であるはずがない。
新開は。叫んだ。しかし、ズキズキと胸は痛み続ける。
でも、万が一本当だったら。
新開しか気付かない福冨の笑顔が瞼に浮かんだ。
できない。寿一を不幸にすることなど。オレには。
新開は地面を強く蹴った。飛ぶように福富の家へと駆けて行った。
福富の家に着くと新開は迷わず福富の部屋の窓に直行した。よくあの窓は鍵を閉め忘れている。
案の定、鍵は空いていた。新開は静かに窓を開けてそっと部屋へと侵入した。
そして、ベッドに近づき覗きこんだ。
「寿一」
穏やかに眠る福富の顔に新開は堪らず呟いた。
「オレ、地獄に帰る」
今までありがとう。そう言って新開は福富の額に静かに手を置いた。
もしかしたら、福富は全部知っていたのかもしれない。良い鬼の最後の条件も。鬼といると不幸になる話も。
言わなかったのは新開を傷つけると思ったから。ありそうな話だ。
「今度はオレが寿一を守る」
これが『友達を大切にする』って事だろ。と軽口を叩きながら手に妖気をこめる。自分に関わる記憶を消す為に。
あの文はデタラメかもしれないが、真実であるかもしれないのだ。
福富の不幸を新開は望まない。
新開の手から放たれる淡い光が福富の顔を照らす。それを眺めながら、色々なことを思い出す。ロードバイクで二人で遠くまで走ったこと。妖怪の罠にかかって、危なかった時のこと。反対にやさしい幽霊に助けてもらったこと。二人で雪合戦で遊んだこと。おやつの食べ方で喧嘩したこと。初めて会った日のこと。
ぽた。上から水滴が落ちてきてシーツの上に落ちた。雨でも降り始めたのかと新開は焦って上を向く。しかし、そこには無機質な天井があるばかりだ。そうだ、ここは室内だったと新開は納得する。
では、この水滴はどこからきた。
疑問に思いつつ、再び福富へと視線を戻すとまた水滴が落ちてきた。
ぽたぽたぽた。今度は連続して。新開は黙って自分の目に触れた。指先が濡れる。
「
――寿一」
新開は眠る親友へと話しかける。彼の瞼は伏せたままだが、構わない。
「オレ、泣けたよ。寿一」
以前、新開は涙について福富に質問した事があった。新開は今まで泣いた事がなかった。だから、尋ねた。自分も泣く日が来るのかと。
その問いに福富は腕を組み難しい顔をした。
『オレが知っている話では、仲間のことを思って泣いた鬼がいたらしい』
『心優しい鬼だったというから、新開も良い鬼になれば泣けるのではないか』
――オレ。
新開は心を震わせる。
その時、福富の額を照らしていた光が消える。新開は素早く身を翻した。もうここに用はない。
「元気で」
それだけ言うと新開は窓から飛び出した。
夜空をめちゃくちゃに駆ける。視界がぐるぐる回って、星が瞬く度にその位置を変えた。
――なれたかな。
大きな満月が眠る人間たちの家を、騒ぐ妖怪たちを柔く照らしている。
分け隔てないその優しさも新開は好きだった。
――良い鬼に、なれたよな。
月を横切る。ちらりと視線を向けて見たが、福富が教えてくれたうさぎの模様はついぞわからなかった。
公園に戻った新開は裂け目に飛び込もうとして、一度足を止めた。視線の先には咲き始めた桜の樹がある。
「悪いな」
ぽきりと花の付いた枝を折ると、新開は今度こそ禍々しい裂け目へと落ちていった。
こうして、弟の待つ懐かしい地獄へと帰ったのだった。
あの桜の枝は地獄の空気に耐えきれず、すぐに枯れてしまった。
成長した福富の寝顔を眺めながら、新開は目を細める。
もう一度、会えるとは思わなかった。
あの世と地獄とを繋ぐ綻びはそう頻繁に現れるものではない。
偶然とは恐ろしい。地獄で弟と食い物の奪い合いをしていたら、崖から足を踏み外した。その先に次元の歪みが生じているなど誰が想像できる。舞い戻ってきたこの世は、以前と変わらぬ顔で呆然とする新開を出迎えてくれた。
あの時、すぐに福富の元へ向かうべきだった。
新開は奥歯を噛む。
この世へやってきた新開はしばらく降り立った山の中で、ぼんやりと過ごしていた。頭の中には常に福富の事を考えていたが、今更合わす顔などなかった。
ある日、そこへ人間たちがやってきた。山菜を採りに来たらしい。その様子を影で見守っていると、槍を持った醜い猿のような妖怪がやってきて人々を襲い始めた。新開はすぐに駆け出して、人間たちの盾となった。上手く避難するよう誘導して。そこまでは良かった。
人間たちがいなくなった森で妖怪と戦った。思っていたよりも奴は強かった。なかなか倒せない事に新開は徐々に苛つき始めていた。こうした時に昔は福富がたしなめてくれいたのだが、その場にはそんな役割をしてくれる人物はいなかった。
そして、妖怪の槍が新開を傷つけた時にぷつんと何かがキレた。
そこからは記憶がはっきりとしていない。気付いた時は、敵の死体と血まみれのうさぎが横たわっていた。
絶望が心を覆った。
その光景を見て、新開はうさぎの死を悼むより早く。無残な骸と化した敵に歓喜した自分。
追い打ちをかけるように、福富の声が頭に鳴り響く。
『良い鬼とは』『命を奪わない』
――オレは。
新開は蹲った。確かに掴んでいた光が指の隙間からすり抜けていき、深い深い闇へと落ちていくようだった。
「ム、」
福富の眉間に皺が寄る。何か悪い夢でも見ているのだろうか。
新開はその皺が取れるように人差し指で優しく撫でる。
こうしてまた触れ合えるなんて。
これがどんなにすごい奇跡か誰も福富さえも知らないに違いない。
もうないと思った。これ以上望む事などないと。
それなのに、いつの間にか望んでしまっている。己の欲深さに新開は苦笑する。
今回の件でもわかる通り新開が傍にいることで厄介事を引き寄せてしまっている。
それに、暴走した自分がいつ福富を傷つけないとも限らない。
実際、金城と戦った時に新開は福富を本気で攻撃していた。
自分たちの立ち位置はまるで一本のロープの上に立っているようなものだ。
だから。
福富の寝顔が安らかになる。新開は安堵の息をついた。
もし、また地獄に帰れる日が来たならばまた同じ事を繰り返す。
福富の記憶を消して、この世から消える。福富の幸せに新開は必要ない。
「でもな、寿一」
新開は微笑んだ。
――オレはその日が来なければいいと思っている。
ずっと傍にいたいなど“悪い鬼”には不相応な願いだろうか。
新開は眠る福富の額に唇を落とした。
◆
久しぶりにすっきりと頭が冴える朝だ。まるで今日の空のようだ。
福富は学校まで乗ってきた自転車を駐輪場に停めながら、雲ひとつない青空を眺める。
冬の寒さもようやく息を潜め、春を感じさせる暖かさ。正にロード日和だ。
思わず口の端を上がる。すると、頭の中で大きな欠伸の音が響いた。
『……新開』
爽やかな気分に水を差されて、福富は少し不機嫌になる。
『あ、寿一。おはよぅ』
眠そうな目を擦りながら新開が挨拶する。と言っても、後半で再び頭が垂れてきている。
寝不足か? 福富は首を傾げる。確か、昨夜は新開は福富より先に寝ていたはずだ。
もしかして。ひとつの可能性に思い当たる。
近頃、福富はずっと不眠症に悩まされていたが、それが新開に移ってしまっただろうか。
福富は肩に下げている鞄に視線を向ける。この中に金城から借りた獏に纏わる本がある。これを使って
――。
そこまで考えて違和感を感じた。
不眠症で獏の本? 何故、金城はそんなものを渡したのだろうか。
「
――ッ」
こめかみが僅かに痛む。指でそこを軽く叩いた。
目を閉じて再び開くと一人の生徒がこちらにやって来るのが見えた。転校生だろうか。見た覚えがない。
男子にしては長い睫毛で、制服で隠されているがよく鍛えられていることが伺える。彼がもしロードのやるにならば、クライマーよりもスプリンターの方が向いているだろう。福富の癖の一つだ。まずロードに置き換えて考えるを実行していると、さっきまで眠そうにしていた新開が騒ぎ始めた。
『寿一っ。ちょっと出してくれ』
『どうしてんだ』
『知り合いなんだっ』
新開の言葉に福富はもう一度男子生徒を観察する。なるほど、微かに妖気が感じられる。こいつは妖怪だ。
福富は手袋を静かに抜いた。
強風が巻き起こり、近くの木々を揺らした。
福富の隣で白い着物がふんわりと舞う。
「新開さん」
男子生徒は突然現れた新開に驚く事なく自然に新開に笑いかけた。
「どうした、泉田」
逆に新開の方が驚いているようだ。
「恩返しがまだ終わっていません」
泉田と呼ばれた生徒は静かにそう言うと自分の胸を力強く叩いた。
「前回は失敗しましたが、必ずお役に立ってみせます」
その為にこの学園に入学しました。と泉田は続ける。
「それに」
顔を赤くした泉田が掌を握り締める。
「叶うのなら、あなたからもっと色んな事を学びたい」
「泉田」
「反対しても無駄です。もう決めたんです」
アンディとフランクに相談して。
泉田はそう胸を張るが何者なのだろうか。その外国人たちは。
新開は知っているのかと横目で伺えば、困惑した顔で首に手を置いている。いつも飄々としている男が珍しい。福富の心に悪戯心が生まれる。
「いいんじゃないか、新開」
「寿一」
新開が目を見開いてこちらを向く。
「この学校には既に妖怪の生徒も教師いるからな」
今更、一人増えたところで問題はないだろう。
「いや、そりゃそうだけど」
歯切れの悪く言うと、新開はため息をついた。
「まぁ、寿一がいいんならいいさ」
アブっ。泉田が喜びの声を上げる。
福富はこっそり肘で新開の脇腹を突付いた。
「お前も変な奴に好かれるな」
「あぁ……そうだな」
なんだつまらない。炭酸の抜けたペプシのような返事に福富はがっかりする。
折角いつもの仕返しをしてやったのだが。
しかし、福富にはまだとっておきが残っていた。それを聞いたらいくら新開でも驚くだろう。
「ところで泉田、アンディとフランクって誰? 使い魔?」
「それはですね」
楽しそうに新開たちが話している。福富はぼんやりとその様子を眺めていた。
そこへ暖かい風が吹いて、新開の柔らかい髪が揺れる。
あの時もこんな春を感じさせる風が吹いていたな。福富は懐かしむ。
――なぁ、初めて会った日を覚えているか。
心の中で新開に問いかける。
答えなどわかっている。山で再び会った時、お前はオレを他人のような目で見ていた。鬼にとっては人間界で過ごした三年間など、一瞬で瑣末なことなのだろう。
それでも、訊いてみたい。失望する恐怖に耐えて。
なぁ新開。
オレたちはお前が知っているよりずっと前に出会っているんだ。
あの日、二人で眺めた桜の樹を。お前は少しでも覚えているだろうか。
「あっ福ちゃん」
「荒北、あまり仕事をサボるな。田所が嘆いていたぞ」
「ッゼ。金城。お前こそ、どうしたのこんなところで。珍しいじゃナァイ」
「……たまたまだ」
遠くから騒がしい声が聞こえる。
泉田の事をどう説明したものか。福富は頭を悩ませる。
このまま関係ない振りをして去ってしまうおうか。こっそりと明後日の方を向いた。
そこで思いがけないものに出会い、目を奪われる。
気の早い桜もあったものだ。
顔が綻ぶ。
薄紅色の花びらが青空とよく似合っていた。
【この世はわからないことばかり】