荒福。大学生。
懐かしい匂いがする。
荒北は目を閉じたまま鼻を動かした。
――これはみそ汁?
誘わるように目を開ける。
カーテンの隙間からは明るい陽の光が差し込んでいる。もうすっかり朝のようだ。
荒北はベッドに横たえた身体をゆっくりと起こした。
隣を見る。そこには既に昨夜愛し合った恋人の姿はなく皺の寄ったシーツが見えるのみだ。
荒北はそれを指でイタズラに辿る。
「福ちゃん」
小さく呟けば愛おしさが余計にこみ上げてくる。
自分の下で震える身体や赤く染まった顔。
“靖友”と囁くその口。
離れた時間を埋めるように求め合った夜の記憶を思い出して荒北は顔を手で覆った。
東京と静岡は近いようで遠い。
福富と離れても大丈夫だと思っていた。自分は女ではない。寂しいとかツライとか無縁な感情だと思っていた。
それがどうだろう。
――会いたくって仕方がないなんて。
そして、今は東京へ帰したくない自分がいる。
「信じらんねェよな」
荒北は笑って立ち上がる。
帰らないでくれなんて格好悪いことなど言えるはずがない。
荒北にできることは笑って福富を見送ることだけだ。
「うわッ。うまそう」
机の上に並んだ料理に荒北は感嘆の声をあげた。
焼いた鮭と玉子焼き。大学へと進学してから荒北の朝食に並んだことのないメニューだ。
「簡単なものばかりだ」
キッチンに立っている福富が素っ気なく言った。
「それよりもご飯をよそっておくから、顔を洗ってこい」
「ヘイヘイ」
荒北は返事をすると幾分か軽い足取りで洗面所へと向かった。
荒北が顔を洗って戻ってくると、机の上には二人分のご飯と味噌汁が既に準備されていた。
「やっぱりみそ汁か」
「何がやっぱりなんだ」
先に座っていた福富が首を傾げる。それに匂いがしていたと応えながら荒北も席に座る。
それを合図に福富が手を合わせた。慌てて荒北も合わせる。
「いただきます」
そう言って二人は箸を手に取った。
荒北はまず温かい湯気のたったご飯に手をつける。ツヤのある白米を豪快に口へ入れる。
「うめェ」
「そうか」
福富が表情を崩さずに頷く。続いて荒北は玉子焼きに手を伸ばす。
荒北の家には玉子焼き器なんてものはない。フライパンで作られたそれは見た目は少々不格好だったが、味はこの上なく美味しかった。
「うめェよ、これ」
「そうか。それは良かった」
福富はそう言うと手に持っていた茶碗を置いた。
「荒北。お前、少しは自炊したらどうだろうか」
「無理だよ。福ちゃん、オレ米も炊けないんだぜ」
荒北は鮭の身をほぐしつつ、首を振った。炊飯器を壊しかけたことは記憶に新しい。
「お前ならやればできる」
福富はそう言うが、人間向き不向きというものもある。
「ヘイヘイ」
荒北はやる気のない返答をしながら、味噌汁に口をつけた。
出汁のきいた味噌の味が口のいっぱいに広がる。身体と心が温まっていく。
「うんめェ」
「ロードをやる上に身体は大事だ。その為にある程度は食事から栄養を
――」
「もう毎日福ちゃんのみそ汁が食いてェ」
荒北がそう呟いた瞬間、ピタリと福富の小言が止まった。
あれ? と思って福富を見れば目を大きく見開いてこちらを見ている。その頬が心なしか色づき始めている。
「福ちゃん?」
荒北が呼びかけると福富は驚いたように肩を震わし、視線を床へと向けた。
「その、いや、なんでもない」
「ハァ?」
「なんでもない。なんでもないんだ」
不思議に思う荒北を置いて福富は自分に言い聞かせるように何度もその言葉を繰り返した。顔を真っ赤にしながら。
それから荒北がいくら理由を訊こうとも福富は決して教えてはくれなかった。
――なんだったんだろうなァ。あれ。
その後、福富に見送られて大学へとやってきた荒北は講義を受けながら朝食の出来事を考えていた。
普段、鉄仮面な福富があれほど顔色を変えることは珍しい。
何か言っただろうか。
荒北は自分の言動を思い返す。
確かあの時はみそ汁を飲んでいて。それがすっごく美味しかったから。
“毎日、福ちゃんのみそ汁が食いてェな”
そう言った。
そこで荒北は微かな違和感を覚えた。
毎日。みそ汁。
それらの単語が組み合わさった時、別の意味をなさなかったか。
「あぁーーーーーッ」
頭の中でパズルのピースがぴたりとハマった時、荒北は頭を抱え、そのまま机へと突っ伏した。
とても顔を上げられる状態ではない。
顔中が暑くて仕方がない。きっと今荒北の顔面は人に見せられないくらい真っ赤だ。
「チクショー」
荒北は今おそらく新幹線に乗っている相手に悪態をつく。
「言えよなァ」
結局、荒北はその講義が終わるまでずっと顔を伏せていた。
その姿を金城に見られて体調を心配されるのはまた別のお話。
【無自覚プロポーズ】