――つまり寿一とオレは心を共有しているんだ。
こういうのってどう言うのかな。一心別体?
荒北に胸倉を掴まれていた新開がそう言うと荒北は更にその眼つきを鋭くした。
「ハァ? てめェ何言ってんだ」
「言った通りの意味だけど」
やれやれと新開はポケットから固形食を取り出して口に咥える。すぐさま口の中の水分が奪われる。新開はいつでもエネルギーを補給できるように常に食料を携帯していた。ここ寮の談話室でも例外ではない。
「あれだけ夕飯食っといてよく食えるなァ」
荒北が呆れたように言った。
「別腹だよ」
新開は荒北の腕の力が緩んだのをいい事に荒北から逃れた。手早く口に食料を詰め込む。
「それより、靖友こそどういうつもりだ」
食堂で夕飯を食べた後、新開は自室で本を読んでいた。夢中で読み進めていたが、ふと喉の渇きを覚えた。新開は談話室の自販機でジュースを買う為に小銭を持って部屋を出た。
談話室に着くとそこには誰もいなかった。みな、既に部屋に戻ったのだろう。新開はそう思って自販機に小銭を流し込んだ。
さて、どれにしようか。
点灯したボタンを眺めていると
「おい」
背後から聞き慣れた声がした。
「なんだ靖友もジュースを買いに
――」
新開の言葉は最後まで発せられる事はなかった。振り返った新開の胸倉を荒北が勢いよく掴んだからだ。殺気のこもった眼差しで荒北はこう言った。
「新開。てめェ、福ちゃんとはどういう関係ェ?」
只ならぬ空気である事を察した新開は正直に本当の事を言おうと決心した。中学からの友人。そんな台詞では納得してはくれなそうな荒北の顔だ。
だから、新開は自らが確信していてまだ福富にさえ言っていない事実を荒北に告げた。
「あのなァ、いっしん……? 」
「一心別体」
「んなことはどうでもいい。心を共有なんてあるわけねェだろ」
噛み付くように荒北は言った。その姿は飢えた野獣の異名に相応しく獰猛だ。
その剣幕に内心新開は深く頷く。
福富寿一という人物に出会わなかったならば、おそらく自分も信じられなかっただろう。
「最初はオレも寿一とは気が合うなって事くらいに考えてた」
新開が機嫌が良い時は福富も機嫌が良かった。逆に虫の居所が悪い時は決まって福富もイライラしていた。そのせいで二人は仲が良かったが、よく喧嘩もした。互いの感情が相乗効果によって倍増されてしまうのだ。
新開は福富以外とは滅多に喧嘩にならない。おそらく福富もそうだろう。
「んなのただの偶然だろォ」
「オレが確信を持ったのは高二の時だ」
物騒な荒北の視線を受け止めながら新開は続ける。
「あの頃、オレはウサ吉の母親を轢いたショックで自転車が乗れなかった」
「知ってる」
荒北は力なく呟いた。少しだけ眼力が薄れる。
「だけど、それが福ちゃんに何の関係があるんだよ」
「寿一がインハイで起こした事件の事は知ってるな?」
そう言うと荒北は狼狽えたように視線を床に落とした。それが答えだった。
福富が高二のインターハイで起こした事は表向きには事故として処理されている。が、真相は違う。
荒北の反応から、荒北も新開と同じように本人から直接本当のことを聞いているようだ。
新開は意識的にゆっくりと荒北に告げた。
「オレのせいなんだ」
「ハァ?」
荒北が顔を上げる。
「落ち込んでいたオレの心が寿一の精神に影響したんだ」
「おい」
「だから寿一はあんな事を」
「おい新開」
呼びかける荒北を無視して新開は感傷に浸る。
「オレにも責任がある。だから、オレも寿一が謝りに行った数日後に総北へ謝りに行った」
「ちょっと待てェッ」
荒北が声を荒げる。顔面に青筋が浮き上がっている。
「部外者だろうがァ」
「部外者じゃない。オレのせいなんだ。総北の人たちも理解してくれたよ」
その時の事を思い出すように新開は遠い目をした。
マジで頭が痛くなってきた、そう呟いて荒北はこめかみに手を当てる。
「金城はなんて言ったんだ?」
ぶっきらぼうな問いに新開は快活に答える。
「『よくわからないが新開は悪くない。その饅頭は受け取れない』って」
「わかってねェじゃねェかっ。ていうか、おめェも饅頭かよっ」
「美味かったな、あの饅頭」
「しかも食ったのかヨ」
「受け取れないて言うから迅くんとね」
新開は片目を瞑ってみせたが、荒北はがっくりと肩を落としいた。
「本当に何しに行ったんだ、おめェは」
「だから、謝罪に」
「なってねェよ」
荒北があまりに怒鳴りるので、流石の新開も少々ムッとした。
「そんなことないぜ。あちらさん『福富との関係は詮索しないが、ウチの部員にはあまり近づかないでくれないか』って言ってたぜ」
「妙な誤解をされてんじゃねェかっ」
「え? ライバルとして認められたってことじゃねェのか」
「当たり前だァ。なんだその斜め上の発想は」
荒北は新開の肩を掴むと激しく揺らす。
「どーすんだよ。福ちゃんに妙な噂が立ったらァ」
「靖友は心配症だな」
ぐわんぐわんと視界を揺らされながら新開は苦笑する。とりあえず気持ちが悪くなってきたので、荒北を落ち着かせようと荒北の腕に手を置く。
「な、これで寿一とオレの心が繋がっているってわかっただろう?」
「どこでそう思うんだよ。このボケナスが」
更に激しく揺らされた。
「ちょ、靖友」
「
――荒北」
本当に不味いと思ったところで救いの声が聞こえた。福富だ。
「寿一、助けて」
「福ちゃん」
荒北が動きを止める。Tシャツに短パンという簡素な格好をした福富は真っ直ぐに荒北たちのところへ来た。
「どうしたんだ、急に部屋を飛び出したりして。探したぞ」
「だって、福ちゃんが」
荒北が俯く。
「オレが?」
「
――何でもねェ」
舌打ちをすると荒北は新開を突き放した。
「何でもなくはないだろう」
「ッセ」
今度は福富が荒北に詰め寄っている。
これはどういうことだろう。
新開は首を傾げた。なんとなく福富に加勢した方が良い気がした。
「言え、荒北」
「そうだ。言っちまえ、靖友」
「てめェは黙ってろ」
荒北は新開を一瞥するとそう切り捨てた。あまりにも理不尽である。
抗議しようとした新開だったが、それは荒北の深い深いため息に遮られた。
「福ちゃんが」
荒北は再びそう呟くと意を決したように福富の顔を見た。
「福ちゃんが “新開は特別な存在だ”なんて言うからァ」
「それは本当だ」
「オレも寿一のこと特別だって思ってるぜ」
福富と新開。二つの声が見事に揃った。
照れるぜ。新開は福富を見て鼻を掻いた。
それを荒北は愕然とした表情で見つめると、福富のがっしりとした肩を両手で掴んだ。
顔がすっかり青ざめている。
「福ちゃん、オレたち付き合ってるんだよねェ?」
「荒北。新開には秘密だと言っただろう」
焦ったように福富が言う。新開の口から「え」と声が漏れた。
「寿一。オレに内緒ってどういうことだよ」
金槌で殴られたような衝撃が頭を襲う。
「違うんだ、新開」
福富が顔だけを新開に向けて釈明する。
「違うってどういう事だよ。オレとの事は遊びだったのかよ」
「それも違う。落ち着け荒北」
縋りつく荒北を今後は必死に宥める福富。
何がなんだか。
新開はとりあえずコインを入れたままで放置していたままの自販機に近づいて、荒北の為にペプシを買った。
「どういう事だか、きっちり説明してもらうぜェ」
ペプシを飲んで少し落ち着いた荒北が据わった目をして言った。三人はまだ談話室にいた。
「どういうことも何もさっき説明したぜ」
「アァッ?」
新開の一言に荒北は声を荒げる。まるで野生の狼だ。
「待て。新開、オレが言う」
腕を組んでいた福富が静かに言った。
「荒北。つまり、オレたちの心臓はひとつなんだ」
あぁ、やっぱり寿一もそう思っていたんだ。思わず新開の表情がほころぶ。
福富の言う通りだ。新開と福富は正に心臓を共有している。
「福ちゃんもそういう事を言う」
「仕方がないだろう」
恨めしそうな荒北に福富はため息つく。
「何故だか新開とは妙に気が合うんだ」
「そういう事だ。わっるいね、靖友」
指の先で荒北を射抜くと荒北はあからさまに嫌そうな顔をした。
「オレは信じねェ」
「荒北」
福富が慰めるように荒北の肩に手を置いた。その姿に新開はある事をやっと思い出した。
「そういえば、二人が付き合っているって本当かい?」
「なっ
――」
「本当だ。残念だったな、新開。福ちゃんとオレはおめェ以上に特別な関係なんだよ」
顔を赤くした福富とは対照的に荒北は勝ち誇ったように言った。まったく面白い奴だ。
その荒北の顔を新開はまじまじと見つめた。
「な、なんだよ」
新開に無言で見つめられ荒北は困惑する。
「悪りぃ」
しばらくして新開は両手を合わせる。
「オレ、靖友のことそういう目で見れねェ」
「こっちだって御免だ。バカチャンがっ」
切れる荒北に新開は首を振る。
「だって寿一が靖友の事を好きならオレも好きにならなきゃおかしい」
「んなわけあるか」
荒北が怒鳴る。
「まったく、どうしたんですか。うるさいですね」
そこへ呆れたような声を響いた。
「もう消灯の時間ですよ、し、新開さんっ」
箱根学園二年スプリンターの泉田だった。
「よう」
新開は片手を上げると、泉田は畏まって近づいてきた。
「お疲れ様です。どうされたんですか、皆様おそろいで」
「おう、泉田。このバカリンターに言ってやってくれ」
荒北が忌々しげに言う。
「ひっどいな」
新開は肩を竦めて泉田へと説明する。
「要はオレとの寿一は泉田と……アンディとフランクみたいな関係なんだ。でも荒北はそれを認めない」
「ひどいですね。信じられません」
「だろ」
だんだんだん。苛立ったように荒北が床を踏み鳴らす。
「所詮、泉田もバカリンターだよなァ」
「よせ、荒北。近所迷惑だぞ」
荒北を諌める福富を横目で眺めながら、新開は泉田に尋ねた。
「どうすればいいと思う?」
「そうですね」
泉田は生真面目に顎に手を置いて考える。
「つまりこういう事ですよね。新開さんと福富さんの仲を荒北さんに認めさせたい」
「そうだ。オレたちの心臓はひとつだ」
「アァそうだろうよ。人間に心臓はひとつずつだ」
荒北が歯茎を剥き出しにして吠える。それを見た泉田は冷静に言った。
「荒北さんはこういう人ですから、ここは新開さんが大人になるべきかと」
「オレが?」
「そうです。隣人から愛されたいのならばまず隣人を愛さなければいけません」
「なるほど」
試してみる価値はあるかもしれない。
そもそも福富も荒北が好きだからこそ付き合っているのだろうし。気付いていないだけで、自分も荒北の事が好きなのかもしれない。
「靖友」
新開は荒北に呼びかけた。
「なんだよ」
ヤンキーそのものの態度だ。それに怯むことなく新開は爽やかに笑いかける。
「ちょっとオレの事を “新ちゃん”て呼んでみてくれ」
「ぜッてー嫌だ」
即、断られた。
「どうしてだ。靖友の事を好きになるかもしれないぜ」
「意味わかんねェよ、バカチャンが」
「寿一と同じように接してくれれば、靖友に惚れるかもしれねェ」
「ねェよっ」
臨戦体勢を崩さない荒北に福富が声をかける。この世で一番の荒北の弱点だ。
「荒北。一回だけで良い」
荒北はそっぽを向いて応えない。
「荒北」
再度の要請に荒北はようやく福富を見た。
チッと舌打ちすると「一回だけだぞ」と新開に告げる。
妙な緊張が談話室に漂う。
荒北は新開を睨む。その目はレースで前方の敵を捉えた時よりも鋭い。
「し、新ちゃんっ」
やけくそ気味に荒北が言った。声が上ずっていたの仕方がないのかもしれない。
そして、沈黙が落ちた。
新開は緩やかに耳から入った声を脳へと流す。頭の中でエコーのかかったそれを反芻する。そしてある結論に辿り着いた。
「すまねェ。やっぱり無理だ。鳥肌が止まらねェ」
「てめェ」
拳を振り上げる荒北。福富がそれを羽交い締めして必死で止める。
「どうすれば良いんだ」
悩む新開。そこにまた別の人間が現れた。
「何をやってるんだ? 夜更かしは健康に悪いぞ」
東堂だ。風呂へ行った後のせいかトレードマークのカチューシャはしていない。
「尽八」
新開は駆け寄って事情を説明する。
東堂は一通り頷きながら聞き終わると新開へと向き直った。
「ふむ。隼人には悪いがそれは直した方が良いと思う」
「なんで
――」
「東堂、わかってんじゃねェか」
荒北が初めて嬉しそうな顔をする。
「はっきり言ってお前たちのそれは思い込みの産物だ。無害なら問題ないが総北にまで迷惑が及んでいるのであれば放っておくわけにもいかん」
どうやら総北に謝りに言った件を話したが間違いだったらしい。
一見したくらいではわからないが、明らかに東堂は怒っていた。
「しかし、治すと言ってもどうやって」
泉田の疑問に東堂は懐の中に手を入れた。そこから赤いお守りを取り出す。
「これを左右に揺らすからフクと隼人はそれを見ろ」
「まさか催眠術?」
「そうだ」
あっさりと東堂は頷いた。
「尽八、催眠術なんてできたのか」
「わからん。だが、お前たちは単純だからこれで十分だ」
何気に酷い事を言われているような気がするのは気のせいだろうか。
ともあれ福富と新開は並んで座り、揺れるお守りを見つめた。
だんだんと赤がぼやけていき、境界線があやふやになる。遠くで波のような音が聴こえる。東堂が何か言っているようだがわからない。全てが曖昧だ。
その心地の良さに負けて新開はゆっくりと意識を手放した。
パンッ。
耳元で両手を叩く音がして、新開は目を開いた。
目の前には東堂が立っていて「これでもう大丈夫だ」と得意げに言った。
新開はぼんやりとしたまま隣を見た。金髪の男が目を擦っている。
「寿一」
気怠い喪失感を感じる。それでも新開は呼ばずにはいられなかった。
福富がこちらを見る。気の抜けた顔しているせいかいつもより幼く見えた。中学の頃を思い出す。
「オレたちはもう別々か」
しみじみと新開は呟いた。
「わからない」
無邪気な福富に新開は微笑んだ。
心を共有しているなんて。
他人から見たら確かにただの思いこみ。妄想だ。
でも、自分たちは確かに繋がっていたのだと思う。本当につい最近まで。
福富と心のズレを感じるようになったのはいつからだろう。
僅かなズレは荒北が福富の前に現れてから生まれていたのだと思う。
そう。催眠術などなくても、心臓はとっくに分かれていた。
福富は気付いていなかったようだが。
新開は詰めていた息を吐く。
頭ではわかってはいた。
いつまでも子供のままではいられない。
新開と福富は別の人間でずっと一緒にはいられないのだ。
いずれ互いに大事な人と出会い、それぞれの道を歩いていく。
ほんの少し先に福富がそいつに出会ってしまった。それだけのこと。
だが、離れいく心が寂しくて。荒北に詰め寄られた時に、咄嗟にからかってしまった。
思いの外、荒北の反応が面白くてつい悪ノリしてしまった。
こんなはずではなかった。まだまだ自分も子どもということか。新開は頭を掻いた。
東堂と荒北と泉田が話している。それを横目で見ながら新開は問いかけた。
「そういえば、寿一」
前々から疑問にも不満にも思っていたことだ。
「何で靖友と付き合ったのオレには黙っていたんだ?」
尋ねると福富は数秒固まり、その後急激に顔を赤くした。
「言わなければ駄目か?」
「当然」
きっぱりと言うと福富は俯く。
「新開も」
小声で福富は言った。
「オレが?」
驚いて新開は自分の顔を指さす。福富は下を向いたまま頷いた。
「お前も荒北を好きになってしまうのではないかと思ったから」
言いながら耳まで赤く染める親友に新開は笑う。
――あぁ、オレも恋がしたい。
【心臓はひとつだ!】