湖の水は予想よりもずっと冷たかった。
新開は痛みに耐えながら目を開く。
光の届かない湖の中は暗くよくは見えない。
どこだ。どこにいる。
新開は焦りながら更に奥深くへ、水を蹴って進む。冷たさに体温が奪われて、次第に動きが緩慢になっていく。それでも、新開はウサ吉を求めて彷徨った。
底知れぬ深い青が新開を飲み込む。限りない静寂と平穏がそこにはあった。
息が苦しい。浮上しなければと思うも身体が動かない。
新開は自分があの青の一部になっていくのを感じた。そうなることを自分はずっと望んでいたのかもしれない。
孤独で穏やかな安らぎに包まれる。
死。判然と理解する。これがきっと死なのだ。
意識が薄れていく。新開は緩く口を開いた。残った酸素が泡となって飛び出していく。
恐れはなかった。
ただ大きな何かに身を委ねれば良い。母の腹の中で眠る胎児のように。
新開は緩やかに目を閉じようとした。
その腕を誰かが掴む。引き上げようと引っ張る。
新開は腕を振って抵抗する。もう眠りたい。まだ眠っていたい。
だが、その腕の主は新開の腕を離さない。それどころか指が食い込むほど腕を握る。
ぐっと強く引き寄せられる。そして、そのまま湖面へと浮上していく。
青が遠ざかる。何故だか、胸が張り裂けそうになった。
飛沫を上げて頭を湖上へと突き出す。息苦しさを思い出し肺が猛烈に酸素を欲した。咳き込むように呼吸を繰り返しながら新開は自分を引き上げた男を見た。
水に濡れた金髪が月明かりを受けて輝いている。
「寿一」
呆然と新開はその名を呼んだ。
どうして。
その問いに福富は応えない。彼は無言で湖から上がった。水を含んだ制服を重りのように身につけながら。
新開も続いて湖より上がる。服がべったりと張り付いて気持ちが悪い。
「なぁ、寿一。どうしてここに
――」
「ふざけるな」
福富が新開の胸ぐらを掴む。怒気を含んだ声にビリビリと空気が震撼する。新開は驚いて福富を見つめる。彼は真っ直ぐに新開を睨んでいた。
「死にたいだと。言ったはずだ。箱学の次の四番はお前だ」
低い声が新開の鼓膜を震わす。
許さない。
福富が言い放つ。
「勝手に死ぬことは許さない」
その姿は傲慢な王者そのものだった。王冠を掲げて主張する。民の生も死も全て王のものだ。
新開は脳の一部が熱くなっていくのを感じた。
何故、そんな事を言われなければならない。
生きるも死ぬも新開の自由だ。
「離せよ」
思ったよりもずっと冷たい声が自分の口から出た。新開は自覚する。自分は今、怒っている。
「寿一には関係ない」
「なんだと」
「オレにはわかんねェよッ」
新開は福富の胸ぐらを掴み返した。険しい顔をした福富に怒鳴る。
「なんであんな事をして寿一が自転車に乗れるのか全然わかんねェ」
言い終えた瞬間、左頬に衝撃が走った。口に中で血の味がする。
「いってェな」
目は血走られせて新開は笑う。何故笑っているのか自分でもわからない。緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。新開は右手を固めて福富の頬を殴り返す。確かな手応えがした。
「やってくれるな」
新開と同じく片頬を赤く腫らした福富が微かに笑う。その顔を見て新開は福富も自分と同じ気持ちなのだと気付いた。
「来いよ、寿一」
福富から間合いを取り、新開は煽るように手を動かす。痺れるような興奮が頭の中を駆け巡る。
痛みも怒りも今は関係ない。何も考えず身体を動かしたい。
向かってくる福富に子どもの頃のように新開は手を振り回した。
「あー腹が減った」
それからしばらくして新開は草の上に大の字で寝転んでいた。
顔が腹が足が痛い。明日、おそらくあちこちが腫れることに違いない。それに、久しぶりに全力動いたから筋肉痛にもなるだろう。
隣で腰を下ろしている新開と同じような惨状の福富が複雑そうな顔で新開を見ている。
「どうした?」
「荒北に喧嘩禁止と言っていたんだ」
「その顔は言い訳できねェな」
言うと福富はため息は吐いた。その様子がおかしかった。不思議だ。ついさっきまで自分たちは殴り合っていた。
「そういえば、寿一はどうしてここに?」
「ウサ吉が」
「そうだ。ウサ吉」
新開は慌てて身を起こした。血の気が引いていく。どうして忘れていたんだ。
「落ち着け、新開。ウサ吉はそこにいる」
福富が無造作に置かれたケージを指さす。その中にウサ吉はいた。眠いのか丸まって目を瞑っている。
「ウサ吉ー」
安堵のあまり全身の力が抜ける。
「良かった。どこに行ってたんだ」
「ウサ吉がバス停からここまで案内してくれたんだ」
福富がバスから降りて例の道を歩いているとウサ吉が現れたらしい。うさぎは先導するように福富を振り返りながらここまで導いてくれた。
「そういれば、ウサ吉は寿一の匂い知ってるもんな」
「ウサ吉は賢い」
「あぁ。でも、本当に良かった。オレはてっきり湖に落ちたんじゃないかと思って」
とんだ早とちりだ。新開は照れ隠しに頭を掻く。
「それで湖に飛び込んだのか?」
「そうだ」
頷くと福富はしばし考えて込む。
「寿一?」
「死のうとしたわけではないのか?」
「え」
思ってもみなかった問いに新開は言葉を詰まらせた。
「お前は“死にたい”と手紙に書いていたと聞いたぞ」
「そ、それは」
やっと新開は自分の本来の目的を思い出した。どう言い繕うか考えている間に福富が続ける。
「オレは今日、千葉に、いや、総北に行った」
穏やかに揺らぐ湖面を見つめながら福富はこれまでの経緯を話してくれた。
部活を休んで総北へ行ったこと。改めて金城に謝罪したこと。二人で走ったこと。
ぽつりぽつりと福富は語る。
帰りの電車で荒北から連絡がきた。“新開がいなくなった”
「どうして靖友はオレの部屋に?」
「何か用事があったのだろう。ともかく荒北はお前に部屋に入り、机の上のメモを見た」
死にたいと綴られたメモだ。
「荒北はオレと東堂にすぐに連絡した」
なにやってんだ、あのバカチャンは。苛立った荒北はその際にゴミ箱をつい蹴ってしまった。散らばるゴミの中には新開が書き損じて捨てた書き置きがあった。
「荒北から新開はウサ吉を連れて失踪したかもしれないと聞いたときにお前はこの辺りにいるのではと思った」
新開がウサ吉の母親を轢いたのはこの辺りだ。
「幸い。乗っていた電車からはそう遠くない場所だった」
福富は荒北に事を大きくしないようにと伝え、電車を乗り換えた。駅に着き、売店のおばさんに尋ねるとうさぎを連れた男の子がやってきたと教えてくれた。どこへ行ったかも。
「後はさっき話した通りだ。オレはウサ吉の後を追ってここまできた」
そして、ちょうど辿り着いた瞬間に新開が湖に飛び込む姿が目に入った。
「オレはお前が死ぬつもりなのだと思った」
生ぬるい風が二人の間を吹き抜ける。濡れた髪が揺れる。新開は息を吐いた。
「最初から死ぬつもりなんてないさ」
嘘ではない。だが、考える。あの瞬間。水の底に沈んだ時、確かに自分は死に魅入られていたのかもしれない。
「あの置き手紙も理由があるんだ。いつか、話すよ」
例の記者の話を福富にするのは、はばかれた。
「新開」
「本当だ。死にたいなんて思っていない」
そう言って新開は空を見上げる。濃灰色の空に星が瞬いている。
「自転車に乗れないオレなんて価値がねェかもしれないけど」
「そんなことは
――」
「寿一。オレ、自転車で走れねェんだ」
福富の言葉を遮って新開は続ける。見放されてもいい。自分の真実を福富に知って欲しかった。
「インハイを辞退した後、オレは夜に寮を抜けだして自転車に乗ってた」
来年の四番だと言ってくれた福富の期待に応えたかった。新開はその想いを支えにに再び自転車と向き合った。怖くなかったと言ったら嘘になる。
「知っている」
表情を変えずに福富は言った。
「駐輪場に置いてあるお前の自転車の位置が時々変わっていたからな」
なんだ、バレていたのか。新開は軽く舌を出した。
「じゃ、話は早い。オレは必死で練習した」
何度、地面に転がり倒れたかわからない。練習していればあの黒い影がいつかは現れなくなるのでないか。そう思って歯を食いしばって耐えた。
「でも、無駄だった」
影は消えない。それを無視して進むことも新開にはできない。精神と肉体だけが削られていく。いつしか新開は自転車に乗れなくなっていた。
「走れねェんだ。オレ」
声が震えそうになるのを抑えながら新開は福富が下す審判を待った。福富を失望させるのは二度目だ。きっと彼はもう自分などいらないと言うだろう。
福富と最初に走った日を思い返す。あの時、彼の隣でずっと走っていたいと思ったことを今更のように思い出した。
「新開」
ゆっくりと福富が発音した。
「さっき、オレがあんなことを仕出かしておいて何故自転車に乗れるのかと訊いたな」
「あ、れは」
「オレは自転車に乗ることしかできない人間だ」
それ以外の生き方も楽しみも知らずに生きてきた。
「お前とは違ってな」
福富はどこか遠い目をして言った。
「取り返しのつかない罪を犯したと思っても自転車を降りるという選択肢は浮かばなかった」
罪を償う機会を奪われた福富にできることはただペダルを踏むことだけ。誰にも負けない強さを得て二度と同じ過ちを繰り返さない。それだけだ。
「だが、お前にうさぎ小屋で詰め寄られた時に気付いた」
身体に鞭を打つように練習に励んでもそれは福富のひとりよがりに過ぎない。結局、それは罪から目を背けているだけだ。だから、福富は今日ひとり総北へと赴いた。自らの罪を見つめる為に。
それがどれほどツライ事か新開にはよくわかった。
「……寿一」
「総北に、金城に謝った。もちろん、それで終わりだとは思っていない」
むしろ始まりとすら言える。福富はこの日、自分の罪を受け入れて一生背負っていく覚悟を決めた。自転車で走る続ける為に。
「ロードを辞めようとは?」
福富の答えを知りつつもあえて新開は尋ねた。そして、その予想は外れなかった。
「ない。オレには自転車しかない」
潔いまでに福富は答えた。その姿に新開の胸に熱いものが流れる。
この彼の言い分を誰かが傲慢だと非難するのかもしれない。彼の覚悟を知らぬ者がしたり顔で罪を裁こうとするかもしれない。でも、福富はきっとロードを辞めない。それが彼の覚悟だ。
「それはお前も同じはずだ」
不意に福富は新開に顔を向けた。その真剣な眼差しに新開はたじろぐ。
「でも、オレは
――」
自転車に乗れもしない。
「新開。お前が進もうと思えば自転車は進む」
言い澱む新開に福富は迫る。新開は心臓から一気に血流が頭に流れるのを感じた。
「思ってるさ。自転車で走りてェって。進みたいって」
毎日、毎日。元の自分に戻れる事を願わなかった日はない。
「いや、お前はこう思っている。“自転車に乗らない事が自分のできる償いだ”」
そう言って福富は鋭い目で新開を睨んだ。
「お前がロードを辞めてもウサ吉の母親は生き返らない」
「てめェ」
新開は福富の胸ぐらを掴んだ。だが、福富は少しも怯まない。
「新開。お前が、オレたちが自転車に乗ってもオレたちのやってしまった事はなくならない」
ロードレースを続ける事を許されたとしても犯した罪は精算されるわけではない。それすら飲み込んで福富は新開に自転車に乗れと言っている。
「お前はそれが許せないのだろう」
全て忘れたような顔をして自転車に乗ることが。
「黙れよ」
福富の言葉に新開は叫ぶ。抑えつけてきた感情が出口を求めて流れ出る。。
「わかってんだ。寿一の言う通りだって。オレが自転車を辞めてもどうにもならねェって」
でも、そんな風に割り切ることなんてできない。あの日、新開は確かに一つの命を奪った。
「オレ、自分が怖ェんだ。あの時、轢いてすぐにウサ吉の母親を放っておかなければ助かったかもしれねェのに」
そんなこと考えもしなかった。目先の勝利しか見えていなかった。
「オレ、邪魔だって。ウサ吉の母親のことを」
新開は俯く。当時の事を思い出す。酷い頭痛がした。その新開の頭に福富の手がそっと添えられる。
「新開、お前は優し過ぎる」
「違う」
「違わない。お前はウサ吉を助ける為に迷わずに湖に飛び込んだ」
「違う」
「昔、怪我した鳥を一生懸命世話していた」
――その鳥は死んだよ、寿一。
福富が囁く言葉に違う違うと新開は首を振る。
うさぎ小屋でインハイの落車事件の真相を聞いた日からすり替わった悪夢。
黄色が赤く赤く染まる夢。
「オレは勝利の為なら寿一だって」
夢を見た。気が付くと新開はいい気分で自転車を走らせている。ふと前方にひしゃげたジャイアントを見つける。カラカラと哀れに前輪を鳴らすその自転車の傍らに人が倒れている。輝きを失った絵の具の黄色みたいな金髪を真っ赤に血で染めて。
その映像は一瞬で終わる。ロードに乗ったまま通り過ぎるからだ。ぞっとする。
夢の中で新開は福富を見ても決してペダルを踏む足を緩めない。
「寿一だって見捨てるんだ」
言った瞬間、鳥肌が立った。なんておぞましい。
「だから、」
「
――それがどうした」
新開の頭に乗せられていた手が滑り降りるように肩へと下ろされ、その手が新開の肩をきつく握る。
「もしオレが駄目になったらお前がゴールの狙うのは当然だ」
「言ったはずだ、新開」福富の鋭い目が新開を捉える。
「何があってもペダルを止めるな」
「でも」
「お前は走れ」
喩え、オレが死んでも。
最後の言葉は幻聴だったかもしれない。
けれど、新開は息を飲んだ。
――オレ。
喉の奥がつっかえたように上手く言葉が出ない。
「走っても、いいのかな」
声が震える。ずっと誰かに訊きたくて。でも訊けなかった。尋ねてはいけないのだと思っていた。
「新開」
福富の両手が新開の肩を掴む。真っ直ぐに新開の瞳を見て彼は言った。
「戻って来い。オレにはお前が必要だ」
新開は目を瞬かせた。
耳から吹き込まれた熱が脳を伝って目より流れ出る。
「乗りたい」
心の奥底から叫んだ。静かな湖畔に新開の声が響く。
「自転車に乗りてェ」
崩れかける新開の身体を福富は抱きしめた。その暖かさに新開は安らいだ。
新開は福富の厚い背中に手を回す。彼の肩越しに空を仰ぐ。
大きな丸い月が水の膜を通して歪んで見えた。あの場所に今もうさぎはいるのだろうか。
――すまねェ。
新開はウサ吉の母親に語りかける。
予感がする。自分はきっとまた自転車で走る。直線の鬼として。
今、この瞬間。新開は選んだ。
福富と共に走り続ける事を。犯した罪を抱いて。
自分勝手な罰を享受するのは今日で終わりだ。
それが正しいのか間違っているのか新開にはわからない。
自分には自転車に乗る資格などないのかもしれない。
だけど。
寄り添う体温から鼓動が聞こえる。生きている、と新開は思った。
それだけで心が震え、嬉しさで息ができなくなる。
生きている。生きているんだ。
新開は目の前の身体をきつく抱きしめる。
誰に罵られても構わない。
今は触れ合うこの熱だけが、新開にとっての真実だった。