――オオカミの遠吠えが聞こえる。
「荒北、おまえ彼女とかいんのかよぉぉ」
 赤い顔をした先輩の無遠慮な一言に荒北は細い目が更に細くなることを感じた。
 大学の先輩の方々との飲み会。
 断ろうとしたが、金城に宥められて渋々の参加だった。
 視線を感じてそちらに目をやれば、当の金城は少し離れた席でこちらを心配そうにちらりと見ている。
 バカにすんなって思った。そこまで子供じゃない。
「まぁ」
 簡潔に素っ気なく荒北は返す。その冷ややかさを察して欲しかったが、酔っ払いに通じるはずもなく先輩はヒューと口笛を吹いた。
「どんな子?」
 舌打ちが寸前まで出かけた。喉の奥にそれをぐっとしまいこむ。
 こんな時は恋人である福富のことを考えることが一番良い。今どこで何をしているのだろうか。リンゴでも食べているのだろうか。
 まかり間違っても自分のように無駄な時間を過ごしていないだろう。
「なぁ教えろよ」
 肘で荒北の腕を突こうとするのを荒北は軽やかにかわす。
 この酔っ払い。
 荒北が睨むと先輩はへらへらと笑った。
「そこそこ可愛い?」
「そこそこ?」
 自分の中でブチンと何かが切れる音がした。
 荒北はダンッと勢いよくジョッキをテーブルの上に叩きつけるように置いた。視界の隅で慌てて腰を浮かす金城の姿が見えたがどうだっていい。
 すぅっと息を吸い込む。
「聞き捨てなんねェな」
 言った途端、そうこなくっちゃと先輩の目が好奇心に輝いた。
「てことは、可愛いのか?」
「当然」
 とにかくかわいい。無口で妙なとこで不器用でそこがまたかわいい。たまに見せ笑顔とか照れた顔とかさ、オレしか知らないと思うとすげー愛しいと言うか。あ、鉄仮面のくせにリンゴが好きというギャップもあったナ。後は、自転車が一番で、自分にも他人にも厳しいけど、そこに救われた人間もいる。少なくとも一人は。本当、わかりにくいけど優しくて。そんなとこがオレは。
「荒北、わかった。酔いを醒ませ」
 金城が言いながら荒北の腕を掴む。
荒北はハッと我に返る。しかし、時既に遅し。周囲はニヤニヤと笑みを浮かべる者たちばかりだった。
「帰る」と荒北が宣言する前に先輩が大きく手を叩いた。
「それでもうヤッたのか?」
 ハァ?
 荒北はゆっくりとその先輩の方に顔を向けた。隣にいる金城の顔が引きつる。
「まだなのか。意外に奥手なんだな。アラキタ君は」
 先輩は茶色の長い髪を掻き上げた。
「しかし、今時珍しいな。あれ、みたいだ」
――天然記念物。いや、絶滅危惧種か?
 投げかけられた言葉を理解した瞬間、荒北の思考は瞬時に統一された。
 コロス。
「そうだな。水だな。水を飲もうな」
 立ち上がろうとする荒北を金城が必死に制止する。
「殺す」
「ほら、水が来たぞ。飲もうな。な?」
 無理矢理にコップを押しつけようとする金城を荒北は睨む。
「邪魔すんなヨ」
「気持ちはわかるが、実力でやり返した方がいい」
 思ったより冷静に返されて荒北はため息をついた。興ざめだ。
 無言でコップを受け取って飲み干す。
 生ぬるくて不味かった。
◇
「て、ことがあってよ」
 荒北はベッドに座る恋人に語りかけていた。
 久しぶりの逢瀬にくだらない話をしたくなかったが、金城が福富にそれとなくバラしたらしい。問われて仕方なく説明していたところだ。
「オレと福ちゃんの関係はンなもんじゃねェ」
 もっとプラトニックで精神的な結びつきだ。もちろん、彼に触れたいという健全な成人男性の欲求はある。
 しかし、そんなものは必須ではない。福富が望まないのならば必要ないと思う。そんな安っぽい関係ではない。
「そうか」
 自転車雑誌を読んでいた福富が呟いた。
 おそらく福富も荒北と同様に憤慨していることだろう。荒北は不快な話をしてしまったことを後悔した。
 ところでさっきから何の記事を読んでいるの、と話題を変えようとした時だった。福富がパタンと雑誌を閉じ、上目遣いで荒北を見た。
「それならば、してみるか?」
 えええええええええええええええええ。
 反射的に後じさる。その間も福富は目を逸らさずに荒北を見つめている。
 福富の睫毛の長さやくちびるの形が目に入る。その度に心臓がドキドキとうるさい。
 頭の中で銃声が鳴り響く。
 何度も何度も。
 荒北は福富の手を握りしめた。頬が熱い。よく見れば福富の顔も赤くなっている。
「福ちゃん」
 たまらなくなって抱きしめた。鼻腔を満たす香りに気持ちは最高潮だ。
「荒北」
 福富が恥ずかしそうに囁く。
「これからどうすればいいんだ?」
「……わかんねェ」
 いつかはとは考えていたが、こんな急展開を誰が予想できたか。
 間抜けな自分を心で罵っているとコツンと額に何か当たった。視線を上げるとすぐ近くに福富の顔があった。
「福ちゃん」
「また今度でいい」
 たまらず荒北はそのくちびるにキスをした。今日はここまで。でも、いつかきっと。
◇
 部室を開くと最悪なことにあの先輩しかいなかった。
 舌打ちすると彼は朗らかに笑った。
「彼女とはうまくいってる?」
「はい」と荒北は面倒そうに答えた後、ニヤリと笑って見せた。
「天然記念物は、近いうちに絶滅しますよ」
「え?」
 ぽかんとする先輩の横を荒北は颯爽と通り過ぎる。
 頭の中で鳴り響いた銃声は何を殺したのか。何を失ったのか。
 子供の頃に図鑑で見たニホンオオカミのイラストを思い出す。その静謐な瞳は責めるように荒北を見つめていた。
【絶滅寸前】