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■罪と罰

精悍な肉体と対照的に薄い色素。
薄い栗色の髪に、済んだ肌。瞳の青が知的そうに光る。

静かな瞳。
私は、彼を知っている。
体の一部一部が覚えている。

初めて会った時。世界中を旅している、と言ってはにかんだ笑顔が、今でも忘れられない。
ああ、世の中にはこんな笑顔ができる人もいるのだと知った。
私の過去はあまり思い出したくない。
彼と対照的に泥水を啜ったような生き方をしていた私の作り笑いは、彼にどう映っていたのだろう。
今となって走る由もないが、もし聞けるのならば聞いてみたいと思っていた。

彼は私を「綺麗だ」といつも言ってくれていた。
それは私の外見だけでしょう、というと彼はいつも首をふって答えてくれた。
「僕なんかよりも、君のほうがずっとずっと綺麗だ」
嘘でもうれしかった。
金ずるに去られては困ると反対する両親を捨てて、私は彼と旅をするようになった。
誰かと寄り添うことの温かさを初めて知った。

彼の足手まといにならないように、基本的な護身術と簡単な魔法くらいは覚えておきたいと思った。
誰かの役に立ちたいと思ったのは、生まれて初めてのことで――
そんな自分の変化が、自分でも信じられなくて。
誰かを受け入れるのも、初めて幸せだと思った。

誰かを愛すれば、つながりたいと思う。
はじめは彼を汚すようで、堪らなく怖かった。
刷り込まれた浅ましい本能が、吐き気さえ起こすこともあった。
恋人同士が求めあって何が悪いのか何度も彼に諭されて、段々自分の中の女を許せるようになってきた。
それは言い訳だったかもしれない。
でも、こんな自分でも彼に求められ、彼も悦んでくれるのなら、それでいい。
愛してる。



夢――か。

キキーモラは、ベットから半身を起すと目覚まし時計に手をのばして、タイマーを解除した。
時間は目覚ましがなる時刻の3分前。
もうずいぶん長い間同じ時間に寝起きをしていて、
すっかり生活リズムが出来上がっているキキーモラには時計も必要ないのかもしれなかったが、
もとから用心深い性格や「必要なくてもリズムを変えるってことがなんだか気に入らない」ということもあって
目覚まし時計をかける習慣もそのままである。
いつもなら目もすっきりとしているはずなのだが、昨日は少し眠るのが遅くなってしまったせいか
体の疲れを次の日に持ち込んでしまっているようだった。
それで普段見ない夢なんか見たのだろう、頭も少しぼんやりとしている。
最近のサタン城は、なんだかバタバタしている。
主であるサタンがようやく妃にしたいと思える人間が見つかったのが原因らしい。
アルルという元気だけが取り柄のような女の子で、強力な魔力を秘めているらしいけど。
はっきりいって普段はへなちょこで、本当に大丈夫なのかな、と勝手に思っていたりする。
そのライバル、ルルーという女性がサタンにべったりくっついて城に居座ったり、
あれこれ騒動が起きるたびに新しい部下が増えていたりと、城もなかなかの盛況ぶりなのだ。
アルルを妃にするためにいろいろやっちゃうよ計画。
それで最近は激務が続いていた。だからといって、仕事に手を抜くわけにもいかない。
冷水で顔をさっぱりさせると、いつものメイド服に袖を通す。
真っ白いエプロンをきゅっと締めて、前髪をカチューシャで掻き揚げる。
朝のモップ掛けに向かうために、袖をきっちりひじまでまくりあげた。
「今日もお掃除、頑張らなくちゃ!」

「あら、今日も頑張ってるわね」
廊下で、朝食をサタンのために運んでいるルルーに声をかけられる。
「ありがとうございます」
答えながらも、握るモップの手を休めることはしない。
もくもくと笑顔で掃除するキキーモラを見て、
ルルーも「私もサタン様に喜ばれるようなこと、しなきゃねぇ……」と呟く。
その姿が常に強気な彼女と違い、珍しく気落ちしているようだったので
「どうかしたんですか?」と思わず掃除の手を止めて話を聞いてみた。
「あら、心配かけちゃったかしら?……んー、なんていうかね、またサタン様、計画に失敗しちゃって。
 私も失敗して落ち込むサタン様を励ましたい気持ちと、でもやっぱり成功してほしくない気持ちと、ね。
 でも、わたくしがサタン様には一番だってことをよっく知っていただくチャンスだわ!」
最後はいつものように高笑いでしめくくるルルーだが、キキーモラにはそれが強がりであることが見て取れた。
けれど下手な慰めは傷をえぐり、何の解決にもならない。
そして何よりも人の心というものは、当人同士以外の他人にはいかんともしがたいものなのだ。
「そうですよ、とりあえず今はおいしいごはんを冷めないうちにサタン様に届けて、
 おいしく召し上がってもらったほうがいいと思います」
「そうね。ありがとう。今日も一日がんばりましょう」
ルルーもさっぱりとした口調で、じゃあ、といって廊下を過ぎていく。
恋心、か。
私にもあんな時期があったな。

今は遠い昔となってしまったけど。

遠い昔。それはいつごろの話だっけ――
くらり、と目の前がゆがんだ気がした。
いけないいけない。もう少し、あと廊下一本モップかけをしたら私も朝食の時間だ。
余計なことは考えないで、仕事に集中しないと。
本当に疲れがたまっているのかもしれない。こんな、こんなことを考えている余裕は――

ふと、鼻にかすかに異臭が飛び込んでくる。
誰かが生ゴミでも放置したのだろうか?
「ごまかすなよ。お前はこの匂いを知っている」
どこからか、懐かしいような、それでいてはじめて聞いたような声が響く。
誰、と周りを見渡しても周りには誰もいない。
「閉じ込めていた時間と記憶、目をそらしていた自分」
先ほどの目眩が、再度自分を襲う。モップをぎゅっと握りしめて、足に力を入れる。
「だから今まで見えなかった。さあ、いまなら見えるだろう?」
薄れゆく視界の眼に飛び込んできたのは、私。
黒く、汚れにみちて醜くかったあの頃の――

きゃあ、と後ろ、通り過ぎて行った場所の向こうで悲鳴が上がった。
トレイや皿がひっくり返った音に、腐った肉の匂い。

蠅を共に、崩れた体からぽたぽたとうじが落ちる。
濁った目がこちらを見て、私を見つけた瞬間瞼を大きく見開いて―― 一つ、落ちた。
太い腕が私に向ってのばされる。どろっとした体液を滴らせながら。
ごぼごぼと喉から声にならない声が漏れていた。

悲鳴に振り返ったその眼に入ってきたそれがなんだかを理解した瞬間、私の意識は途切れた。
それは昔、遠い昔のこと。腐臭にまみれた呪い付きと汚れた女の物語。


私はあなたを知っている。


「いじょうぶ……大丈夫?!」
次に目を覚ました時、私は自分の部屋のベットに寝かされていた。
「倒れたのよ、廊下で。気分はどう?」
ルルーが介抱してくれたらしく、おでこに濡れたタオルが乗せられていた。
「あ……ごめんなさい、もう大丈夫よ」
体を起こすと、タオルを取った。
キキーモラの体を起こした動きは普段とあまり大差なさそうで、ルルーは少しほっとした顔でほほ笑む。
相手に気を使わせない自然な動作でルルーがそのタオルを受け取って机に置いておいた桶に入れる。
「なんだか、うなされていたみたいだったから。でも今は大丈夫そうね。
 あなたものすごく綺麗好きだものね、ゾンビなんか見たら失神するのも無理ないわ」
「……ゾンビ」
茫洋としたキキーモラの答えに、ルルーは少し興奮しながら状況を話す。
「あなた、ゾンビ見て倒れちゃったのよ。あの廊下でね。
 あれ、普通のゾンビとは少し違って、何なのか不可思議なところが多々あるらしくて。
 それで気になって他のゾンビと違って墓地じゃなくてサタン城の地下室に住まわせていたらしいの。
 で、サタンさまがこの間のドタバタに使えないか連れていって、戻す時に鍵を閉め忘れたらしくて。
 ああ嫌だ、私もあの匂い思い出しちゃったわ……」
ルルーは口元にハンカチを当ててうえ、と軽くえずいた。
「もう二度と城内で歩き回らないように、厳重に鍵をかけて確認するようにするとサタン様もおっしゃっていたわ。
 だからもう、安心していいからね。今日は休みなさい、とのことですわよ。
 それにしても、倒れるほどびっくりするなんて。
 あなた長い間城にいたのよね?ゾンビのこと、知らなかったのかしら?」
知らなかったのか、というセリフにピリッと部屋の中の空気が固くなる。
「ええ、私は雇われるときに汚いものは苦手だ、と言ったら、サタン様はなら、地下室の掃除はしなくていい
 絶対に入ることのないように、と言われていただけで、全然知らなかったわ」
固い表情で言うキキーモラを見て、ルルーはこれ以上はまずい話題だと悟ったようで、それ以上の追及はしなかった。
「そうなの……。じゃあ、あなたも私がいたままじゃ休めないでしょうしそろそろ戻るわ――」
「あ、まって」
「え?」
自分が話題を拒否するような態度で出てしまったくせに、ルルーをひきとめてしまった。
「あの、不可思議って……なんなのかしら」
「さあ?あまり聞かなかったわ。私もゾンビはさすがに苦手だから。でも、どうして?」
やはり怪訝な顔をして答えるルルーに、あわてて取り繕うような答えを返す。
「い、いやっ、興味があったとしてもなんであんなのを城に住まわせてたのかしら、なんて、あは、はは」
「ああ、いくらなんでも住まわせることないわよねー、まったく、さすがにゾンビと同居はやめてほしいわー」
ルルーも空気を和らげようと、少しオーバーなリアクションで肩をすくめる。
「――同居」

お前はこの匂いを知っている――
長い間この城に――

先ほど聞こえた言葉は自身の声か、それともただの幻聴か。
最後に見えたあの幻は。
長い間。長い間――私は、どれほど――?
考えようとするとこめかみのあたりがひどく痛んだ。目が回るのを感じて、目を閉じて頭を抱える。
その様子を見て、ルルーはまた余計な事を言ってしまい気分を害させたかと倒れそうなキキーモラの背を支え、
ゆっくりとベットに寝かせながら言った。
「あ、ご、ごめんなさい、あなた、それほど汚いのがダメなのね……?
 サタン様には私のほうからもなんとかならないのか言ってみるから、とにかく今は休んで」
ルルーの声が遠くに聞こえる。
汚いのが嫌い。あの人を汚した呪いが憎い、汚れだ、汚れがあの人を――
キキーモラの視界は、再度そこで暗転した。


サタンの自室。
ノックもせずに入ってきた相手がキキーモラとはと、サタンは少々面食らった。
「キキーモラ、体はもういいのか?ついさっきルルーからかなり具合が悪そうだと報告を受けたばかりなのだが」
倒れた後で元気がなく、音が聞こえない程度にしかノックできなかったのか?とも思ったが、
別に具合が悪そうではなく、しかし普段の彼女とは違う雰囲気にサタンは不思議そうな表情で彼女を見つめた。
「キキーモラじゃない」
「む?」
キキーモラによく似た姿形。だが、よく見るとメイド服も色が違うし受ける印象は彼女とはずいぶん違う。
どこか物腰が乱暴そうで、黒いメイド服姿からはきつい印象を受ける。
そして顔つきが厳しい。よくいえばきりっと、悪く言えば少し意地悪そうに見えた。
「名前を付けてくれると助かる。なんせ産まれたばっかりなんでね」
その一言で、サタンは本当に目の前の人間がキキーモラではない、キキーモラによく似た何かなのだとわかった。
「ふむ。何者なのかは自分でもわからないのか?」
「あれの矛盾を抱えた気持ち、目をそらし続けたものを突き付けられて切り離そうとした結果出来た屑、それが自分」
屑、きっぱりと言い切る少女を見て、サタンは少し当惑して苦笑いを浮かべた。
つまり、目の前の少女はキキーモラのトラウマか封じ込めていた感情が発露した結果、
産まれ出でたもう一人のキキーモラ、と解釈した。
それを屑、とは元は自分のことなのにずいぶんあんまりな言い方だ。
「屑、とはひどい言い草だな。つまりはキキーモラの一部なのだろう?それとも違うのか?」
「ふん。事実なんだからしょうがないだろ?」
言葉遣いも普段のキキーモラとは違って、かなり荒っぽい。
「まあいい。ドッペルゲンガーみたいなものなのだろうが、少し違うようだしな。
 服が黒いからブラックキキーモラ。とりあえずはそう呼ぶことにしよう」
けたけたと、今しがた名付けられた黒いキキーモラ……ブラックキキーモラは、笑った。
「お似合いの名前をどうも、魔王サマ」
自嘲的に言い捨てると、ブラックキキーモラの体が透明になってすっと消えていく。
初対面(と言っていいのかはわからないが)の人物から一方的にかなり不躾な会話をされても、
まんざらではない表情で笑みを浮かべるサタン。
どうやら純粋にこの出来事が、新たな騒動になりそうだとわくわくしているようだった。
「思わぬところから思わぬものが……また、面白いことが起きそうだな」
キキーモラがあそこまで汚れたものを嫌う理由。おそらくそれは、ブラックキキーモラが産まれた理由。
そして、あのゾンビの出自――
ふらふらとうろつき、襲いかかってくるものには反抗するが、それ以外の者には興味を示したことがなかった。
しかし、今日は廊下に出て何かを探すようにさ迷い歩き、その時キキーモラに反応を示したらしい。
まさか二人が知り合いだとまでは、サタンも思っていない。だが何か、手がかりがあるのは間違いない……
不謹慎だが、それでもうずうずとするこの気持ちは、何物にも代えられない。
サタンは、机から地下室のカギを取り出すと、指にひっかけて一回転させる。
「どれ、彼女が何か過去を喚起させたとしたなら、情報を引き出すには今が好機だな。
 本腰入れてあのゾンビの記憶を探ってみるとするか――」
珍しく、常に従順なルルーにまで怒られた後だが、
それでもサタンは湧き上がる好奇心をおさえきれず、騒動への幕を開けるのであった。


地下室の扉は、頑丈な錠前で閉ざされている。

錆びついた錠に鍵を差し込んで回すと、がちっと鍵が開く音が廊下に響く。
重いだけで邪魔な錠前はそのまま床に落とすと、重厚な扉を両手でゆっくりとあける。
ハエが開け放たれた隙間から洩れる廊下の明かりにひかれて、何匹かサタンの顔を横切って行った。
岩をくりぬかれただけの地下室に、ぬぼっと立ち竦んでいるゾンビがいる。
ゆっくりとこちらを振り向くが、空虚な眼はサタンをとらえつつも、何の感情も籠められていなかった。
「さて……体を無理やり回復させ、少しでも記憶を引きずり出してみるとするか」
ぼうっと突っ立っているゾンビの頭をつかむと、動かぬよう手にわずかな力を込める。
「少々苦しいが、我慢しろ」
サタンは、そのまま高度な回復魔法をゾンビの頭から直で込める。
「うがあああああああああああああああああああああっ!!!!!!!があああああああああ!!!」
アンデッドの弱点は、回復魔法だ。当然、目の前のゾンビは苦痛の声をあげ、暴れる。
が、このゾンビの特異なところは、それでも肉体は生きていた頃の体へ戻っていこうとすることだった。
完全に人までは戻らないが、形を保てるところまでは強力な魔法をかけ続ければなんとか戻る。
「腐りきった頭を回復させても記憶そのものを取り出すのは難しいか……断片を探ることはできそうだな」
苦しみから解放されようと、頭をつかむサタンの手を振り払おうと、腕を振り回すゾンビ。
かまわず、平然とした顔で魔力をゾンビに注ぎ込むサタン。
ゾンビの攻撃は、目に見えない魔力の壁が皮一枚の距離ですべて弾き飛ばしている。
「生きたい、愛してる、愛してる、……よくある、恋愛話か?
 体にかけられた呪い、うつしたくない、苦しめたくない、殺してほしい、
 ――これ以上君が苦しまないよう 本当は、君と一緒に……居たかった
 会いたい、暗い、愛してる、愛してる、愛してる――」
腐りゆく肉がぼとぼととおち、新しい皮膚と肉が戻っていく。人の原型を取り戻していくゾンビ。
だが、その新しい皮膚ができていくそばから腐液が染み出し、じわじわとただれていく。
その工程を繰り返すが、魔王の魔力のほうが勝るのか、わずかにだが人らしく体は戻っていく。
「つまりは何らかの事情があって呪いに掛かり、ゾンビになっていった、と。
 だが強靭な肉体と精神、生きたいと願う気持ちと、思い人の存在と手当が進行を阻んで
 呪いがかなり中途半端な過程で留まってしまっているということなのだろうな」
掴んだ手を放すと、どさっと人の形をしたそれが崩れ落ちた。
腐食は数分前よりもずっと軽度に、ゾンビというよりあちこちやけどをした人間に見えるほどまでに戻っていたが
ゆっくりと、ゆっくりとだが目に見えて腐りゆく皮膚とすさまじいにおいが、
悲しくも彼がもう人間ではないものだというには十分な説得力がありすぎた。
「体の内から特異な、光の力が感じられる……おそらくは、それがこの哀れなできそこないを作り出した主の原因だな」
そういえば、キキーモラも光の魔法を得意としていた。
「このゾンビが、同じ女でもルルーではなくキキーモラに反応したのは、力の傾向か」
足元に転がる死体。
生前はさぞかし能力のある人間だったんだろう。
はじめは、ゾンビにしてもえらくタフで、使いどころがありそうだと拾ったに過ぎなかったが……
サタンの眼に、歓喜の光がともる。
知的好奇心を呼び起こしてくれる物とトラブルは、長く生き過ぎたこの男にはたまらなく甘美なものであった。
たとえ、それが醜く汚れた忌まわしいものであっても。
魔王は笑う。心の底からの喜びに。
太くたくましい腕が、ずたぼろになりながらも誰かを探し求めるように床に転がっていた。


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