おまけ
コンビニサンクス
僕が生まれて初めてコンビニに入店したのは、八歳の時だった。
S学園の小学部、社会科の授業の郊外調査で立ち寄ったのだ。
筆記具片手にぞろぞろ入店する小学生の群れに、投げかけられる「いらっしゃいませー」の声。
店内調査を終え、ぞろぞろ退店する僕らに、またもや投げかけられる声。「ありがとうございましたー」。
これほど無意味なお礼の言葉が、ほかにあるだろうか?
客も店員も誰一人感謝の気持ちなど抱いていない、上っ面だけの空しいお礼の言葉。
僕はそれ以来、二度とコンビニに立ち寄っていない。
真実の感謝を求めて十年余り。
僕は今、唯根透史という少年と一緒に暮らしている。
彼の噂を初めて耳にしたときから、彼の感謝の言葉を引き出すのは、相当難易度が高いだろうと踏んでいた。
コンビニに例えるなら、シャッターが下りている上に、窓も入口も板で打ち付けられ、それらを攻略しても、12桁の暗号パスワードを解かないとガラスドアは開かない――そんな頑なさ。
電気工学に精通してシャッターを上げ、大工のまねごとをして板を外し、怪盗めいて頭脳をめぐらしパスワードを入力し開錠する。
ここまで苦労を重ねて入店した僕に、投げかけられる店員の「ありがとう」は、特別のとっておきでなければならないはずだ。
しかし、いまいち透史くんの感謝の言葉は、僕の満足を満たすにふさわしくないのだ。
君ね、僕のファスナーを引き下げながら感謝の言葉を連呼していただろう?
おずおず取り出しながら、やっぱりお礼を言っていただろう?
熱いほど体温を保持している僕の男性器を、「俺の為に熱くしてくれてありがとうございます」と口に運んだだろう?
なのに、なんでなんだろうね?
事後のうがいの回数が、いつもより多いのは。
その日、僕は思い付きを提案した。
「今週いっぱい、マンションで二人っきりで過ごそう。一切、外に出ないってことで」
「え……」
さあっと青みがかかる透史くんの顔。君は僕のとっておきの提案に、感謝するより先に顔色を変えるのかい。
「お、俺……食事の買い物とか、その……」
「ネットスーパーで買い物できるし、何なら一週間、出前とデリバリーだけで過ごしてもいいんじゃない」
「そ、外に出ないって……俺、アルバイトが……」
そうだ、透史くんは少年院を出て、僕と一緒に暮らしながら、週に五回のアルバイトに励んでいるのだった。
バイト料を生活費として、毎月僕に渡すけど、僕は封筒の中身を開けて確認したことすらない。どうせはした金だしね。クロゼットの奥に適当に突っ込んでいる。この前、衣服の整頓をしたとき、そういえば開けてない封筒がいくつか紛れていたなぁとは思ったけど、そのままゴミ袋に突っ込んじゃった。ははっ。
「外に出ないんだから、当然、アルバイトも行かないよ」
「…………じゃあ……その、欠勤の連絡を…………で、電話を……」
すがるように透史くんはおねだりしてくる。
彼に携帯やスマホは持たせていない。友達もいないし、家族にも連絡をとらない彼には、そんなもの必要ないからね。
家電話もないから、僕のスマホを借りるしかないわけだが。
「あのね、透史くん。外に出ないってことは、外部の人間との接触も、一切とらないってことだよ」
「……」瞬きを忘れたように強張り、透史くんは唇を震わせた。「……あの、でも、保護司さんが、俺の為に……見つけてくれたバイトだから……せめて、保護司さんに……」
少年院を出た少年に、世間の風は厳しい。
現在住んでいるマンションは、事件を起こした地域からは離れているけれども、同じ県内でもある。さらに今は、過去の新聞記事や、個人の前科など調べやすい環境にある。バイトの面接で渡された履歴書の、個人名をググるくらいはどこの経営者もやっているだろう。
かくして院を出た少年は、働いて糧を得ようにも、門前払いを食らう事になる。
そこを橋渡しするのが保護司の役割だ。
理解あるオーナーだったり、更生教育に力を入れている経営者を、前科ある少年にあっせんする。
ただし、住んでいる地域にそういう経営者がいるかどうかは、運も絡む。透史くんは相当苦労したみたいだ。何度も履歴書を突っ返されては、保護司と綿密に話し合い、やっと見つけたバイト先。
無遅刻無欠席で、熱心に通っていたようだけどね、透史くん。
どうせ君の得た報酬なんてはした金なのに。マンション家賃の足しにもならないくらいなのに。
生活費も家賃もすべて出している僕への感謝が……やっぱり足りないようだよね、透史くん。
「そうか、そうだよね。じゃあ保護司さんには連絡を取ろうか」
ぱっと透史くんの顔が輝く。
「スマホを貸す前に、ちょっと台本を書いておくから」
「……台本?」
透史くんの顔が怪訝を帯びる。僕が書いた台本に目を通すと、すうっと血の気が引いていく。
台本の内容は『くそったれなバイトなんてやってられるか、辞めてやる。二度と手前の世話にならねぇ』的な内容を、さらに過激な罵詈雑言で飾って、攻撃力を二倍にも三倍にも増大させたものだ。
呆然と台本を見つめる透史くんの耳元に、保護司を呼び出し中のスマホを近づけてやる。
「ちゃんと台本通りに言えるよねえ、透史くん?」
「……お、俺……保護司さんに……お世話になった保護司さんに……こんな……」
「なんだって君は、スマホを用意し、台本を書いてやった僕に感謝の気持ちがないんだい」
「……」
「上品を地で行くこの僕が、苦心して汚い言葉を引きずり出して台本を作ってやったのに」
「……」
「透史くん、君は…」
「……あ、ありがとう……ありがとう、ございますっ、俺のために、ありがとうございますっ!」
同時に、電話に保護司が出た。勢いこんだ透史くんは、ヤケクソのように台本通りのセリフを発する。
電話の向こうの保護司は最初の頃は何か言っていたが、やがて絶句し、通話を切った。
……ああ、いい気持ちだ。
週に一度はマンションに顔を見せてきた保護司も、もう二度と訪れることはあるまい。
誰にも邪魔されない、二人っきりの暮らし。
感謝の気持ちを存分に、生活態度や日常に反映してくれていいのに。
なぜか、透史くんは、洗濯機がゴウンゴウン回るのをうつろに眺めるだけだ。
本当に、洗濯機の窓から洗濯物が回るのを、ぼーっと見つめているだけ。
……何それ。僕の下着と透史くんの下着が絡まるのを見物するのが、君の感謝の表明な訳?
「何してるの」
「…………え……。あっ……」
はっと夢から醒めたような、戸惑った顔。
「その……俺……」
「見てなくても全自動だから勝手に洗うけど」
「………………あ、その…………洗剤をちゃんと入れたかどうか、確認しようと……」
だから全自動だって。洗剤も柔軟剤も、機械にセットしてあるから自動で適量投入されるって。
せっかく二人で過ごせる時間が増えたというのに。
増えた時間を、透史くんは、壁を見つめているだけだ。
膝を抱えた体育座りで、部屋の隅、ぼうっといつまでも壁を見つめ続ける。
……何それ、学芸会の岩の役の練習なの。
耳を澄ますと、ときおりぶつぶつ一人喋っている声が聞こえることもある。
「何してるの」
「…………え……?」
「壁を見てたよね」
「お、俺……壁を、見て……た?」
「一人で何か喋っていたし」
てんで心当たりがないとばかりに、透史くんは瞬く。
覚えていないのか。
「せっかくの二人で過ごせる時間を、無駄にしている君に、気づかせてあげたこと、感謝してほしいね」
「あ……っ、すみません……ありがとう…………ござい、ます……」
「どうして君は二人で過ごす有意義な時間の、提案もしないのかい」
「す、すみません……俺……有意義な……過ごし方をしたい……です。また……欲しい、です……」
「何が欲しいって」
「お、俺に……っ、しゃぶらせて、欲しい……です……っ」
多少、手間はかかったが、一週間の濃密な二人の時間は、適宜、動き出した。
そして、一週間が終わろうとする頃。
洗面所に仕掛けたカメラとレコーダーが、朗報をもたらした。
事後、透史くんのうがいする回数が、減ったのだ。
……僕は、一応の結果に満足した。
うがいを終え、部屋に戻った透史くんは、また部屋の隅でうずくまりぶつぶつしているけど。
さて、ここで残念なお知らせだ、透史くん。
ツンデレはデレたらオワコンとはよくいうけど、君との暮らしもこれで終わりだね。
だって、どんなに貴重で珍しい「ありがとう」を聞かせてくれるコンビニだって、一回聞けば充分だよね。
シャッターを開けて、板をはがして、暗号パスワードを入力する手間、二度目をやりたいとは思わないよね。
ここまで面倒を見てきた感謝を、透史くんには全身全霊でしてもらわなくちゃいけない。
とっくに僕は、彼に引き取ってもらうものを決めていた。
体育座りで壁に向かう彼の耳元にささやく。
「透史くん。君は、僕の家に火をつけたんだ」
「……………………え?」
「君は僕の家に放火し、僕の両親を殺した。その理由は、僕との交際を反対されたからだ」
「……………………………俺は……そんな…………こと」
透史くんは耳を疑っている様子で、僕を焦点の合わない瞳で見つめる。僕は、肩をぐっと押し、彼を壁に向かせた。
「ほら、言ってご覧。自分が火をつけましたって」
「…………俺が……火を……つけました……」
「そんな腑に落ちない口調じゃダメだよ、透史くん。自分が放火したと心の底から信じられるまで、何度も繰り返すんだ」
「……俺が、火を……つけました」
「もっと大きな声で、自分を信じる口調で」
「俺が、火をつけました……」
「まだまだもっと繰り返して」
調教されるオウムのように、透史くんは壁に向かって繰り返した。たぶん、翌朝まで馬鹿真面目に言い続けたんじゃないかな。
僕は途中で風呂に行って、そのまま忘れてベッドルームで快眠したから知らないけどね。
彼が放火の事実を認めたようなので、次は、交際を反対された件を信じ込ませた。
こっちも同じ反復練習だけどね。昨日ほどは時間は要らなかった。一万回ほど壁に喋っただけで済んだだろう。
練習の成果は、ご覧の通りだ。
「透史くん、君は、僕の両親に僕との交際を反対されたことで、逆上したんだ」
「…………はい、逆上しました」
「逆上してどうしたんだい」
「……家に、火をつけました」
「火をつければどうなるか、想像しなかったのかい」
「……想像、しました。でも、交際を反対する、あんな奴ら、死んでしまえと思いました」
「殺意があったんだ」
「…………」
「そこまでして、僕と交際したかった」
「……………………はい」
「君に両親を焼死させられた僕は、君を哀れんで、面倒をみてやった」
「……ありがとう、ござい……ます……。途方もなく、心が広いです。慈愛の人です……」
「僕の厚意に心を打たれ、君は、決心したんだね」
「はい…………俺は、警察に自首します」
翌朝、マンションを出て警察署に向かう彼の背中を、僕はバルコニーから見送る。
上り口に、透史くんの足サイズのサンダルがあるのを見つけ、僕はそれをゴミ箱に突っ込んだ。
身の回りの品はまとめた。家具や家電は業者任せだ。
マンションを引き払う手続きも、昨日の内に済んでいる。
次の住み家は決まっていないが、しばらくホテル暮らしでもいい。急ぐ必要はないからね。
自首とはいえ、二人を焼死させた事件の犯人にされれば、今度こそ一年やそこらでは出てこれないだろう。
彼が出てくる少し前にでも、県外の、二度と彼が探し当てられない土地に、僕は新たな住み家を見つければいい。
僕のために、放火の罪をひっかぶってくれた透史くん。
僕は君に感謝の気持ちを送ろうか。
一生に一度、あるかないかの、僕の感謝の気持ちだ。
サンクス、透史くん。
そして、バイバイ。