滲みわたる











「剣心、稽古つけてよ」







とあるうららかな昼下がり。
いつもの胴着を身につけ竹刀片手に薫は言った。
視線の先には井戸の側で呑気に灰桶を作っていた男。




「いや拙者、竹刀はどうも苦手で――――――…」




草木の灰を集めながら、彼はいつぞやも使った言葉を再び使う。
灰桶にそれらを移す途中、足を石にとられて、もわっと一部の灰が飛散した。
げほげほと噎せる彼。こんなのでも、実は幕末最強の剣客だったのだと知る人は少ない。
薫はその数少ない一人だからこそ、腰に付けた刀を飾りのように持て余す彼に剣の稽古を頼んでいるのだ。




「でも、いつも弥彦には稽古つけてるじゃない」




口を尖らせて言うが、聞いていないのか、剣心はなおも灰に噎せている。


げほげほごほげほ。





「もう! 灰桶なら私が作るから!」






痺れを切らした薫が身を乗り出して剣心から灰桶を奪う。
勢いまかせに灰が少し飛び散るが、そんなにたいした量ではなく、まして薫が噎せるような事態にはならなかった。
灰汁を作るといっても後は水を入れるだけ。すぐに終わるわ、と考えていた彼女は知らない。

灰桶を奪った瞬間に自らの甘い香りが隣の彼に届いたことに。

そして彼が目を細めたことに。




「水、汲むね」

「あ、ああ…」



妙に歯切れの悪い剣心に心の中で疑問符を打ちつつ、薫は井戸に桶を落とす。

剣心の思いなど知る事なく。

ぼちゃんと音と波紋をたてて桶が水に沈む。
深い底にある清らかなそれが、ゆっくりと汲み上げられる。
そんな薫の手元を見ながら、一方の剣心としてはこの状況をどうやって回避しようか悩むばかりだった。


薫に稽古をつけてあげるという選択肢を選びたくない。


なにせ……巷で有名な剣術小町、神谷薫。
白磁のような肌に意志を持った強い眼差し。
瞳を縁取る睫毛は頬に陰を落とし、眉毛は凛々しく、唇は花の如く色付いていて。

……正直、見とれてしまう。
真っ直ぐに向かってくる薫に、見とれてしまうなんて、一介の剣客としても情けない。
彼女の剣の相手には相応しくない。
それだけではなく、彼女に傷を付けてしまうかもしれないという事も嫌だし、大元の、剣を向けることもしたくないのだ。
剣心はそう思うだけに、薫の申し入れを受けたくなかった。
身勝手だとは承知の上。
しかしどうやって断るべきか。



「薫殿、拙者が水を汲むでござるよ」



水を汲むのは何気に力がいる。取り敢えず剣心は手伝おうとして、桶を繋いだ縄を持つ。
だが、時が悪かったらしい。
既に薫が随分と引き上げていた桶に新たな力が入ったお陰で、
桶が一気に引き上げられ――――――つまり、薫に水が掛かった。




「きゃっ!?」
「薫殿!」




咄嗟に庇うも遅く、冷たい雫が二人に降り注ぐ。


剣心の身体はびしょ濡れで、薫の身体もびしょ濡れだ。






「……すまぬ、薫ど―――っ!!」






いきなり硬直する剣心。


その目の前には、雫を滴らせて艶めく黒髪と、水のせいで張り付いた着物で身体の曲線をあらわにした肢体。
突然の事態にきょとんとした表情に、思わず開いたみずみずしい唇。


剣心の頭に煩いくらいの警鐘が鳴り響く。


まずいと思い咄嗟に身体を引こうとして、背にした井戸の石積みに足をぶつけた。



「け、剣心大丈夫!?」



薫は無防備に崩れる彼に駆け寄る。


「ごめんね庇ってもらっちゃってっ! もしかして今桶で身体打っちゃったとか??」


手を延ばせば掴める距離。ああ、無垢って怖い。
もちろんそんな思いも知らない彼女。警鐘がうるさい。





「着替えたほうが良いわ。とりあえず中に……」

「――――――薫殿」

「なあに?」

「胸、大きいでござるな」

「はぁっ!?」





突拍子もない剣心の発言に薫は素っ頓狂な声をあげて―――ようやく剣心を動揺させた事実に気付く。
一気に色付く彼女。



「剣心の助平っ!!」



そう。そうやって自分をひっぱたいてひとまず逃げればいい。


薫自身から距離を置いてもらおうという卑怯な思惑が働いていた。

しかし剣心が待っていても体に痛みはこず、
叫んだ後にあろうことか彼女は躊躇なく彼の手を掴む。



「馬鹿なこと言ってないで着替えるのっ!!!」



剣心も、と言わんばかりにがっちり腕を片手でつかまれる。
もう一方の片手は先ほどの胸への発言を意識してか、体の前に壁のように配置している。


剣心としては、苦笑いするしかない。



「…そうでござるな。薫殿が冷えてはいけぬ」




すくっと立ち上がる。
ちらりと見ると、灰桶の中にまで少しだが水が到達していたようだった。
それをそのままに、剣心は体の向きを変える。


そんな中唐突に背中に声。


「着替え終わったら、今度こそ剣の稽古相手になってよね」


おろ。折角話題が逸れたと思ったのに。



それは、些細な気まぐれか。罪悪感か。必要性を感じたからか。
少しはいいだろうと。



普段は言わない言葉が口からするりと抜け落ちた。








「……生涯をかけて守りたいと思う女性に剣など、竹刀であっても向けれぬよ」


「えっ」


軽く薫は目を見開く。
それを気配で感じながら、剣心は前へ一歩踏み出した。







「剣心、今の………」
「さて。手ぬぐいはどこでござったかな」
「け、剣心………っ」 













つくづく己はこすいな、と思いながらも剣心はそれ以上何も言わない。

















あとがき++++++


一万HIT記念公開の短文その1のリメイク。
灰桶と井戸水に隠喩を使っているつもりなのですが、何をさしているか上手く伝わるだろうか。
別に伝わらなければそれはそれでいいのですが。私にしては珍しく剣心の心情メイン。
こすい想いがリメイク前よりも10%程UPした気がする…。


以下↓UP時のコメント

稽古着をきた薫ちゃんだったら、汗で着物がへばりついて
晒しの下の胸の曲線が少しくらい見えることは割と日常だと思う。
それと、自分のプロポーションに対して何も思っていない無垢さを持っていると思う。
剣心は薫ちゃんの一挙一動に翻弄されるといい。
明治の風俗という本を発見、明治十年のデータで洗剤の主流が灰汁だということで利用。
京都はソーダも使っていたらしい…当時の石鹸は匂いが凄く、また洗浄力が他のに比べて
弱かったのであまり好まれていなかったそうな。





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(2008.10.23 再UP.)