ぽた、ぽた。
雨音がする。
曇天の下、薄ぼけた地に蹲っている女性。
白百合のような肌につたうのは雨。
濡れ鼠のまま、どれくらいそこにいるだろう。
そこはまるで不可侵の領域。
誰も近づけはしない。近づいてはいけない。
ぽた、ぽた。
しかし何故か蹲った女性の下にしか落ちない雨も存在している。
うっ……ぇっ、ふ………
嗚咽の音がする。雨が降る。そう、紅い雨が――――――――――――
雨があがるまで
「おろ?」
晴天の下、澄んだ空気の中で洗濯に精を出している男性。
耳に聞こえてくるのは、元気な声。
稽古場から聞こえてくる賑やかな『日常』だ。
ついつい頬が緩む。
緋色の自分の着物を鳴らしながら笑う。
ぱん、ぱん。
「今日も元気でござるなぁ……」
呆れた苦笑ではなく、幸せに満ちた微笑み。
弥彦、脇が甘いっ!
知るか!! このブス!!
なぁんですってぇ―――!!
神谷道場は今日は休みだが、この瞬間だけはきっと、何処の道場よりも賑やかなのではないか。
そんな錯覚を起こさせるくらい、激しい竹刀の音が響く。
もうすぐ師範代にもなれるかという弥彦に対する薫の稽古が日夜繰り返されているのだ。
最近、特に師範となった薫の熱意がすごく、弥彦の意思も強い為、密度の濃い攻防が拝める。
そんな中、日本一の剣客、とも謳われた男はどこ吹く風、剣より洗濯に取り掛かっていた。
なんとも奇妙な光景である。
「おろ。この着物、確かに長い間愛用していたが……そろそろ本格的に駄目になってきたでござるな」
緋色の着物は長年の愛用物だ。最近、新しい着物も卸したから、
彼の定番である緋色の着物の変わりはまだまだある。しかし、この古い着物の寿命はそろそろのようだ。
「ところどころ擦り切れておるし……まぁ、拙者も酷使しているでござるからな。しかし、よく持ちこたえた物でござるな」
擦り切れる程度じゃない切り傷が沢山。その度に繕い物の跡が増えていった。
改めてみれば、繕い跡だらけだ。それなのに今の今まであまり気にならなかったのは縫い手の技量ゆえか。
薫殿は繕い物が上手でござるから。
本来なら、着物を解いて手巾にでも雑巾にでも風呂敷にでもするところなのだが、
にっこり笑ってそれを物干し竿にかける。
「おや、雲が出てきたでござるな。雨雲ではなさそうだが……」
天気を読むのには長けている。剣心が天候の行方を気にかけたその時。
「剣心、剣心ー?」
この道場の主にして、女師範、神谷薫が道着姿のまま、道場から出てきていた。
汗ばんだ身体を手ぬぐいで拭きながら、きょろきょろと剣心の姿を捜す。
「ここにいるでござるよ。薫殿。何か用でござるか?」
彼が声をかけると薫は少し目を開いて、それから太陽のように笑う。
「洗濯していたのね。いつも御苦労様。一段落つきそう?」
「ああ。もう終わるところでござるよ」
「剣路は?」
「玄斎殿の所に遊びに行っているでござるよ。あの御人も、剣路を孫のように可愛がってくださるから」
「あら、そうなの……今度いつものお礼に菓子詰めでも持っていこうかしら? ところで剣心」
「頼み事でござるか?」
間発入れず言う言葉に「うっ」と薫が怯む。
「相変わらず鋭いのね。……弥彦が足を挫いちゃってね、これから赤べこの手伝いらしいんだけど行けそうにないの。
私は手当をするから、悪いけど剣心、妙さん達にこのこと伝えて貰えないかしら?」
「承ったでござるよ薫殿。弥彦に、癖にならぬように、と」
「わかったわ。ありがとうね剣心。ついでに帰りにお味噌買ってきてね」
「おろ」
お味噌 = 重いモノ
仕方ないとはいえ、とほほ、とこぼす剣心のいる縁側から遠ざかるように、薫は日陰の、家の中へと入っていく。
薬箱を取りにいくのだろう。陽だまりにいる剣心は、溜息をついてから、自分を鼓舞する。
「さて、仕事を片付けるとするかな」
「緋村さん!」
肩にかけた木の棒に味噌樽をかけ、呑気に味噌屋から出た剣心を呼び掛けたのは、優しげな顔立ちの男性だった。
「おや、浦村署長殿ではござらぬか。ごきげんよう」
馴染みの警官に、剣心は微笑む。
ひょろりとした外見に似合わず芯のしっかりしたその男は、
彼の暗い過去を知った上で怯えもせず色々と優遇してくれてる稀有な警官だ。
迷いもなくこちらに向かって歩いてくる。
「びっくりしましたよ。今、丁度緋村さん宅へ行く所だったもので―――」
「おや、それは丁度いい所に」
にっこりと笑って応対する。
しかし、胸では笑うような出来事ではないのだろうなと思う。
署長という身分の者が昼間から一人で警察署から神谷道場へ続く一番の道を歩いていたことと、
彼が一直線に歩いてきた時点で悪い予感もしていた。
そして不幸なことに、悪い予感というものはよく当たるのだ。
「して、用とは、内で話したほうがよいでござるか?」
「――あ、はい。ありがとうございます……」
やはり。
恐縮する署長を余所に、剣心は出てきたばかりの味噌屋に再び入り後で取りに来るからと味噌樽を置いて、
警官の後に続く。雰囲気からして神谷道場で好んでする話でもないことがわかったためだ。
あまり、心配をかけたくもないしな……
雲行きの悪い天候を見、降り出す前に家に帰って洗濯物を取り込めるかな、などと詮無いことを考えた。
「あー、まだそんなに歩いちゃ駄目よ弥彦!」
「もう大丈夫だって言ってんだろ!」
道場から縁側まで歩こうとしていた少年は、呼び止められて不機嫌そうに言葉を返した。
その向こうには、水をはった盥と手巾を手にした女性がいる。
「折角井戸から水を汲んできたんだから。ほら。足見せて。思いっきり挫いてたじゃない」
汲みたての水が、揺れて、たぷんと鳴る。
その労力と優しさを受けて、弥彦は拗ねたように座りなおす。
剣心と薫の下で養われて数年。出会った頃は…今もだが、この「師匠」とは言い争いばっかりしている。
でも、そんな時間が嫌いではない。忘れていた優しさを、ぬくもりを与えてくれる彼女には、
けして言うことはないけれど感謝している。
薫の手は熱を持った弥彦の足首に触れる。ひやりとして気持ちいい。
知らず、無意識に呟く。
「……………あれから、もうすぐ4年、か」
「何か言った?」
「!! 別に。なんでもない!」
「何よぅ。可愛くないわねっ! 知ってたけどっ」
「可愛くてたまるか!! ったくお前はほんとかわんねーなあ!!」
「はぁ!? 一体どういう意味よっ!!」
「剣心と結婚して剣路産んでもガサツでキョーボーで人妻らしくねぇって言ってんだ!!!
大人しいどころかお転婆がまったくなおらねぇし! 元気すぎて手に余るくらいだ。
あれだな。剣路が料理下手だったらぜってえ薫の血だぜ!!」
「なっ!!! 剣心に料理教えてもらって、最近ちょっと上手くなってきてるのよ!?
弥彦!! あんた今夜うちでご飯食べて行きなさいよ。目にもの見せてやるんだから!!!」
「やなこった。………おい、なんで怒りながら笑ってんだよ?」
「え? あ…………ふふ。ちょっと感慨深くなって。それよりじっとしてなさい」
水に濡らした手巾を足首にしばる。
「今日は極力安静にするのよ。明日もみっちりしごいてあげるんだから。師範代への道は厳しいのよ」
「望むところ! 絶対師範代になってやる」
「その意気よ。由太郎君とどっちが早く師範代になれるかしら?」
「俺に決まってんだろ!!」
師範代になるには、現師範である神谷薫の承認がいる。
師範代は、門下生や後進の者に稽古をつけたりできる者の称号。ただの門下生との格差や大きい。
だからこそ、日々の稽古も熱いものになるのだが。
弥彦の強い眼差しに、薫は思わず顔をそむけた。
空の雲は、降りそうで降らない。そんな微妙な天気。
そんな中、剣心が干した緋色の着物が揺れている。
顔をあげてそれを見て、弥彦に向きなおった。
「まだ、大丈夫そうだけど、降りそうよね。早めに帰ったほうがいいかもよ」
「えっ、会津に?」
その夜、剣心は意を決して薫にそう告げた。
先程、署長と話し、会津藩で起こっているいざこざの鎮圧に向かって欲しいと頼まれたのだ。
「どのくらいかかるの?」
「――わからぬ。会津は先の戦争で幕府側の筆頭だった地……恐らく、拙者の思っているよりも事態は重そうでござる」
時折、こんな風に警察に頼まれて事件を解決する事があった。
まだまだ剣心の助けを必要とする人も多い。そして彼はその声に迷いなく手を差し伸べる人。
だから、薫の言うことも…………決まっていた。
「手紙、届けてくれる?」
「……」
「恵さん、元気かしらね。剣心」
顔をあげた剣心に薫はにっこりと笑う。
全てを容認した上の、包容力ある笑顔と眼差し。
「行くんでしょう? ……………会津に」
「薫殿…………」
次の瞬間、薫は剣心の腕の中にいた。
「すまない…………すぐ、戻るから………」
「ん……」
道場に、薫とまだ幼い剣路を残して行く。
そんな自分を剣心は責めずにはいられない。
口をついで出た言葉にもそんな思いがにじみ出る。
薫はそれに気づいて、ゆっくりと含めるように囁く。
「剣心、私は幸せなのよ」
だって、貴方を支えることが私の望み。
それに、いつだって、貴方がここに帰ってきてくれるなら。
剣路だっているもの。寂しくないわ。
ああ、でも剣路は泣いちゃうかも。あの子ああ見えて剣心の事も好きなのよ?
だからお願い。無事でいてね。早く帰ってきてね。
あ、それとお願いがもう一つあるのよ。
「なんでござるか?」
「わ、我儘なんだけど……出発、早いんでしょ?
その前にお願い、1日だけ、出発前に時間取れたりしないかしら…?」
署長が剣心に頼む、という事だけでも事態の深刻さがわかる。
だけど、一日だけ……時間が欲しくて。
剣心、私は幸せなのよ。
こんなに私が幸せってことを、貴方に知っていて欲しいの。
「………………嘘、だろ?」
それ、を最初に発見したのは弥彦だった。
最近の薫はおかしいと思っていた。
稽古中も、由太郎と組み試合ばかりさせて自分は見てるだけ。
たまに喝を入れて来ても、竹刀にはあまり力が入っていない。それに竹刀を落すところしばしばで。
そんな中、先日いきなり師範代昇格を言い渡された。
何考えてるんだこのアマ。
その場で言い返したくなったけど言えなかった。
薫の瞳が真剣だったから。
それから、いろいろあってごたごたして、薫のことをろくにかまってやれなかった。
薫と剣路だけでは大変だろうと思っていたのだが、その薫から出稽古を大量に頼まれ、ろくにかまえずに今に到る。
そして、見たのは―――――――
床から起き上がれない、薫だった。
「弥彦……」
おぼつかない言葉。あれ? 薫ってこんな声だっけか。
もっと溌剌でうるさいくらいの声じゃなかったっけか?
わからねぇ。頭が凍ったようで、上手く機能しない。
この状況を理解するのに、この現実を理解するのに時間がかかる。時間が―――……
「医者呼んでくる!!」
咄嗟に踵を返した背中に即座にかかる薫の静止。
苛立った声で返した。
「何だよ!?」
世界が違って見えた。目の前の薫を中心に世界が歪んでいる気がした。
そんな不安、何もかもを消し去りたい。なかったことにすれば世界が戻ってくる気がして。
そういう思いと一緒に出た言葉は自身が思ったよりも大音量だったが――――歪んだ感覚は消えない。
消えてくれなかったんだ。どうして。
そして、大声にも怯まず薫は意志の強い目で、自身というちっぽけな存在を見ている気がした。
「玄斎先生は全てご存じよ。黙っててもらったの………聞いて。私、長くないの」
「何、言って……」
薫の声と対象に口を出た声はもう掠れていて。
「手がしびれてる。足もしびれてる。原因不明の難病ですって…………」
「最終的には全身しびれて、私、声も出せなくなるんだって」
「そしたら、もう、私死んじゃうんだって…………」
ぽた、ぽた。雫が落ちる。
透明なそれは、何故か紅く見えて。
なんで、この女は笑いながら泣くんだ。
なんで、こんな時だけ、素直に奇麗だと思えてしまうんだ。
それは、剥片のような脆さの笑顔だけど―――――――……
違う、こんなの薫の笑顔じゃない!!
こんな、偽物の笑顔なんかじゃない―――ッ
「手がね、まだ動くうちに剣心に手紙を書いておこうと思って、書いてたの。
結局まとまらなくて、書けないまま、手が使えなくなっちゃって……代筆、してくれないかしら、弥彦」
この女は。こんな時になんてことを言うのか。
「剣心は……知ってるのかよ」
「………………言って、ないわ」
「ざけんなっ!! 会津に早文を出す!!」
ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな――――――
外は、大雨。
叫び声さえも遮ってしまう檻の中で、弥彦の脳裏に薫の笑顔がこびりついていた。
雨は、まだ止まない。
「………剣心、仕事、のほうは……」
か細い声が静かな部屋に響く。
床についたままの姿では申し訳ないと思うのだが、もう薫にはどうしようもなかった。
だから、逃げられもしない。
自身を見つめる、痛ましげな視線に。
「心配せずとも、片付けてきた。それより、薫殿。どうして何も言ってはくれなかった」
「………だいすきよ…剣心」
「薫殿!!」
苛立ったように剣心は薫の華奢な体を掻き抱く。
こんな時でも薫は微笑んで。
「…………やめてくれ。そのように無理して笑わずとも………」
「……幸せなの。本音は…ちょっと…辛いけど……やっぱり…幸せなのよ………」
「かお、る……」
「剣心と、離れ離れになっちゃう……とか、剣路のこととか…神谷道場の……こととか……
ほんとは…………やっぱり嫌だよ……もっと一緒にいたい…生きていたいよ……剣心と一緒に………
でも……私…………幸せなの…………」
「逝くな……ッ」
「ありがとう…………」
剣心が帰ってきた次の日、薫はとうとうしゃべることができなくなった。
そして三日後、静かに息を引き取った…………………
ねぇ、貴方は怒るかしら。
酷い女でごめんなさい。貴方を残して逝くなんて。
どうか泣かないで。
私は幸せだった。ううん、今も幸せ。
だから、貴方が自責の念にかられることもないのよ。
貴方は優しいから。その優しさが、これからも有り続けますように。
剣路のこと、よろしくね。
何年か前、私が死んだかも、という時があったのでしょう?
周りの人から、当時の貴方の様子を聞きました。
お願い、私の分まで剣路を愛してあげて。育んであげて。助けてあげて。
そして自分の事も大事にしてあげて。だからくじけないで。
貴方の帰ってくる場所は、神谷道場でしょう?
貴方の現在と、未来が幸せでありますように、ずっと祈ってる。
私は剣心と出会って、妻にもしてもらえて、ずっと幸せだったわ。
貴方の切り開いた新時代に生きていけたなんてすごい贅沢よね?
ああ口惜しいな。どうしたら、このいっぱいの思いを紙に残せるのかしら。
なんて書けばいいのかわからなくなっちゃう。
剣心、愛しているわ。
「………………あの、馬鹿」
遠く離れた会津の地で、女医者は紙を握りつぶす。
その紙は、はらりと落ち、濡れた大地に落ちる。
水が染み込んで、字が滲んで。
ああ、空が暗い。
あとがき++++++
暗い話きた。
雷葵は基本的に辛い話も好物です。(度によりますが)
結構書くの苦労しました。この話。途中の、薫が剣心にお遣いを頼むところと、
薫の手紙(敢えて遺書とは書きません)で手が止まってしまいました。
そもそも、私の中のイメージとして、薫=置いて行かれる者 というのがありまして。
普通ならば、11歳差の二人。逝くのは剣心のほうがどう考えても先だよなぁと。
しかし、薫を先に逝かせる設定で書き進めていたら、この後の剣心が不憫になりまして。
考えれば彼も巴さんに先に逝かれ、薫も先に逝ったら、か、悲しすぎる……。
彼を知る人はどんどん先に死んでるもんなぁ……。
(それに、そのうち日清戦争始まるしねぇ……)
当初は、剣心が帰ってくると、既に薫が前触れもなく亡くなっておりまして。
剣心は取り乱すけれど、剣路の存在に救われ、前を向いて歩いていく、そんな話でした。
(しかし、話自体には隠喩やら色々散りばめて、明るい話に見えても暗い雰囲気を出す、
というのも目標にしてたのですが…どうでしょう?)
あと、書きにくかったのが薫の手紙。やばい、何書けばいいのだろうか……かなり悩みました。
自分で書いておきながら、この話は何だか深く考えさせられました。読んでくれた人もそうだといいのですが。
裏に、中学時代に亡くなった従兄への思いも詰めてみました。
従兄の遺書がこれまた泣けるものでして、今でもなんだか考え込んでしまいます。
きっと形を変えて、こんな話をまた書くかも知れない。未熟ゆえか、語りきれないです。
(2008.9.25 修正)