京都の墓参りから帰って来た時、八百屋のおじさんが軽く、おかえりー薫ちゃんに剣心さん、と話しかけてきた。 ただそれだけの些細な事。 おじさんに深い意味がないことだってわかっている。 だけど、 「どうも、ただいまです」 軽く返したアナタに、私は怯えている。 かえるばしょ 引越したらその先が新たな帰る場所となるように、ただいまの言葉はうつろってゆく。 私だけが、帰る場所ではないのだと、いまさらながらに気付かされた。 どうにかして、剣心と自分を繋ぎとめる何かが欲しかった。 いつからか、こんなにも彼を失うことに恐怖を抱いている。 贅沢なものだ。 彼は流浪人だと言うのに。 少しでも去っていく想像を払拭したくて、他人に彼を紹介する時には食客だと言っている。 確かにそうなのだが、流浪人の響きの方が刹那的に思えるから、聞きたくないし言いたくないのだ。 彼がいつまた流浪人になっても文句を言えないのに。 願わくば、食客の響きもいつかはもっと別の、一生添い遂げる存在を表すそれになってほしい。 もっともっと、贅沢になる。 気を紛らわそうと、一人で外に出てみたが、更に鬱々と考えてしまっていた。 そんなときふと、とある通りにさしかかった。 無意識にうろうろしていただけだったのだが、やはり身体は彼を追うらしい。 ―――ここは、初めて剣心と出会った場所。 知らず微笑んで、思いを馳せる。 ―――ここは、剣心と買い物に来た通り。 彼との思い出が町に溢れている。それは嬉しい事実。 ―――ここは、私が剣心に思いを告げた河原。 ………人が歩く往来で、私はよく彼に言えたものだ。 きっと私の頬は染まっていただろうな。 なのに、思い返しても―――剣心は、軽く振り向く程度にしか動揺してなかった気がする。 あなたの中の私の存在ってどれほどのものかしら。 ………なんて、考えても詮ないことだ。 そう、わかっているのに―――…… 目の前には、剣心が一人で剣気を磨いていた竹林。 私を拒む、彼の領域。 踏み固められた地面は、彼が長い間に定期的に訪れていた証。 彼がいない今、私はここに入ってもいいのだろうか。 願わくば、もっと奥まで。 ――――――……… 「最低…」 口から零れた言葉は、自分に対してか、彼に対してか。 この場所は、剣心からではなく、燕ちゃんから教えてもらった場所。 そして、買い物には誘ってくれる彼が、けして誘ってくれない場所。 そこに、彼がいないときに入ってどうだというの。 わかってる。彼がここに誘わない理由は私を気遣ってのことだと。 私も、それを望んでいるわけではない―――なのに。 「………ゃ」 嫌だ。 こんなことを考えてしまう自分。 それが嫌だ。 自分の醜いところなんて知りたくなかった。 どれだけ彼の存在は私を掻き乱し、暴いていくのか。 好きだという気持ちは最初から誰にも負けていないつもりだ。 だけど、それだけじゃ彼には届かないのか。 「…っ、剣心…」 彼の名を呼ぶ。一体何度呼んだかわからぬ名前。愛しい名前。 何度呼んでも飽きない、不思議な名前。 ―――しかし、答える人などいるわけがなく、虚しく響くだけ。 辺りの様子に目を向けると、夕暮れ時だった。 真っ赤な太陽を、大地が飲み込もうとしている。 赤色は好き。だって、彼の色だもの。 しばらくそうやって夕日を見てると、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。 帰ろう。剣心が夕飯用意して待ってるわ。 「きゃっ!?」 戻ろうと足を踏み出すと、間違えて土手に足を踏み違えて。 山に向かい伸びる坂と畑の段差をずり落ちた。 「い、いたた……」 まず考えた事は着物が汚れていないか。だって反物一つの値段も馬鹿にならないもの。 地面は乾いていたため、特に目立った汚れは付かなかっただろうか。だといいな。 確認するために立ち上がろうとして――――――激痛。 「痛っ!!」 思わず歪んだ顔。痛みの原因は右足だ。 「嘘………くじいちゃった?」 恐ろしいことに、立てそうにない。 ちょって待って。夕日が沈んで行っちゃう。 周りは畑だ。人っ気もない。背後には竹林の山。 血の気が引く。 「ちょっと時間置いたら立てるようになるかしら……」 そう願う。 でも……ああ、夕日は地面に落ちてゆく。 やだ、行かないで――― しかし無情にも、日は沈む。緋い空が、闇に染まる。 屋外にぽつんと座り込んで、その瞬間を止めることもできず息を呑んだ。 どれだけの間、そのままそうしていただろう。 時を増すごとにじわじわ痛みを増す足。 そして、野犬の群れ―――囲まれていた。 青ざめる顔。まずい。どうやって立ち向かえばいい。 徒手空拳でどこまでやれるか。 絶体絶命。でもただでやられてたまるかと震える体を鼓舞して睨みあう。 それは刹那だったかもしれない。 しかし薫にとっては長い膠着だった。 そしてそれを破ったのは――――――――――――緋い陰。 「飛天御剣流、龍巣閃!!」 闇の中でも映える、緋色の衣。 何度も呼んだ。これからも何度でも呼びたい愛しい名前――― 「剣心!!」 現れるなりひらりと舞うように野犬を薙ぎ払う陰。 終わるなり、血相を変えて少女の元に馳せる。 「薫殿、怪我は!?」 「あ………」 「足を押さえて―――噛まれたでござるか!?」 「か、噛まれてないわ。それより剣心、どうして……」 ここにいるのか。 そんなのは愚問とでも言うように、気付いたら薫の身体は剣心に包まれていた。 「すまない……もう少し早くに来ていれば、薫殿を怖い目にも合わせずにすんだのに……」 「なっ、何を言うのよ! 来てくれただけでも……来てくれただけでも―――」 嬉しい。 汗ばんだ身体から、彼が長時間、外を駆けていた事がわかる。 剣心が、来てくれた。剣心が―――――― じわり、と心の琴線が震えた。 一筋、二筋とつたう雫がある。 「けんしんっ!!」 ぎゅっと抱き返した。 不思議。あなたの腕の中だと不安も溶けていくの。 あなたは、ここにいる。 「――――――ただいま、剣心」 「おろ?」 「ん?」 「えっと…この状況でただいまはちょっと違うのではござらんか?」 今はまだ、竹林のある山の麓である。 「えっ、あっ、そ、そうよね! 何だか安心しちゃって剣心の腕の中が私の帰る場所だったらいいのに―――ってあああ」 真っ赤になって混乱する。その言葉に、剣心は目を見開く。 対して私は必死なので自分が何言ってるのかさっぱりわからない。 剣心の様子にも気付かない。 「な、なんでただいまって出て来たのかわ、わかんな――――――」 「薫殿」 言葉を遮るように剣心は名前を呼んだ。 「はっ、はいっ!」 「そうでござるな。薫殿が帰ってくるのはここ――――遅くても日暮れまでには毎日帰ってくるでござるよ」 こ こ ? っ て ど こ ? 「拙者の腕の中」 くすくすと笑う気配。 拙者の腕の中って……それって……思考が追い付いた途端、ぽぽぽと音を立てて染まる顔。 「ま、毎日帰って来ていいの……?」 「ああ、拙者は大歓迎でござる」 「……じゃあ、剣心は…?」 「おろ?」 「剣心の帰る場所って…どこ―――?」 剣心を掴んだ手に、知らず力が入る。 何て答えるだろうか。 「拙者の帰る場所は―――」 どくり。心臓が鳴る。 「薫殿が決めて」 ……え。 「わ、私が決めていいの…?」 「ああ。でも嫌なら嫌と言うでござるよ」 「何よそれ。えーと…神谷道場…とか」 「うーん、そうきたでござるか。嫌でござるな」 「嫌なの!? 道場不満!? えーとえーと、じゃあいつも使っている八百屋さん!?」 剣心が脱力した。 「……なんでそこで八百屋が出るでござるか」 「だ、だってこの間ただいまって返してたじゃない」 「……あの時は―――八百屋の店主は薫殿と拙者におかえりと呼びかけたでござろう? 薫殿の帰る場所なら、拙者にとっても帰る場所にしたかったのでござるよ。 ―――今となれば、薫殿の帰る場所は譲れぬが」 「じゃあ―――や、弥彦とか」 「だからどうして……薫殿? 弥彦の前に大事なひとがいるでござろう? 薫殿の帰る場所は拙者の腕の中なのに、どうして話がそういう方向にゆく?」 「じゃ、じゃあ……わ、わわ、私……とか………」 その答えに剣心はやわらかく笑う。 「正解でござる」 正解…って……全然私決めてない……… 「拙者の帰る場所はここ。薫殿でござるよ。 薫殿のいない神谷道場は拙者の帰る場所ではござらぬ。薫殿がいなければ」 それは、なんて幸せなことだろう。 「…………いやでござるか?」 先程の態度とはうってかわって、今度は恐る恐ると彼は私を抱きしめる。 剣心。 「ん?」 おかえりなさい。 あとがき++++++ 小説って勢いが大事だと思うんだ。 ってなわけでふと書きたくなって書いてみた。どうやら私は人誅編終わった後くらいで、 関係がそのままで悶々と悩む薫殿が大好きらしい。ってか誰でも悶々と悩む姿を描くのが好きだ。 この後剣心は薫ちゃんお姫様だっこで道場まで行くんだよきっと。おんぶでもいいけど。 思告唄もおんなじ題材ではじまったとか知らないもん。剣薫でくっつくまでの過程を何パターンも考えるの楽しい。 (2008.9.25 修正)