ひとつ歳上のヒーロー 4
「んー」
無事先輩が出てくる夢を見られた。去年の秋の記憶をなぞった夢だった。
長く長く見ていた気がしたけど、時計を見るときっかり七時。
カーテンを開けて窓を開くと、冷たい空気と共に、隣の一軒家の梅の香りが風にのってきた。アパートの日陰だからか、三月初めの遅咲きになってしまっている。
「おはよ」
隣に父さんが布団を敷いて寝ていた。じゃあ、父さんの部屋には誰か泊まったのかな。
「金井、基山、起きてるか」
「……んぁい」
「……うす」
薄い壁の向こうから声がした。
梅の匂い以外にも、何かの匂いがしていることに気づいた。
「父さん……、お酒飲んだ後ちゃんとお風呂入った?」
昨夜は父さんは会社の人と居間で酒盛りして、僕は先に部屋に行って眠った。
「いや、今から入る」
「換気扇もつけてくれてないしー」
台所に行って換気扇をつける。父さんの部屋から金井さんと基山さんが来て、挨拶した。
「あ!」
そうだ。今日から先輩と登校するんだ!
壁に掛けてある制服に走り寄る。ハンガーを持ち上げて、匂いを嗅いだ。
「律規、どうした」
「お酒の匂いが移ってる……」
「う、ごめん」
出番だ、消臭スプレー! プシュッと押すと、ふわっと薄い香りが広がる。もう一度制服の匂いを嗅いでみる。うん、大丈夫そうだ。
「り、律規にファブられた……」
父さんは畳に手をついて落ち込んでしまった。でも! 今日は譲れないからね。
「仕方ないでしょう。高校生がお酒の匂いさせてくわけにいきませんし。息子って普通酒臭い親父は嫌がるものです」
金井さんが父さんの肩を叩く。
「反抗期さえ、拗ねた顔しながらも、俺の夕飯を毎日事務所に届けてくれた律規が……」
「うん、うん。ショックですね。というか今までが恵まれ過ぎ」
顔を洗って着替えた。
味噌汁を作り、ニシンを焼いて、四人で食卓を囲む。父さんの箸が進まないから、まだいじけているのかと思ったら、若干二日酔いみたいだ。弱いのに飲むから……。
「ついに律規君も親離れかな。それとも今日何かあるの?」
「今日から治道先輩と一緒に登校するんです」
「治道……。去年の年末、バイトに来た高校生ですね」
基山さんは先輩に仕事を教えていたから、すぐに思い出した。基山さんはちょっと無愛想で最初は怖いけど、若くして技術があって、父さんは彼にとても期待している。
金井さんも頷いて、
「ああ、あの残念なイケメン」
と聞き捨てならないことを言った。
「先輩のどこが残念なんですか!」
「あの子がバイトに来た訳を聞いたんだけど、律規君が毎年クリスマスに俺らに配ってくれる手作りケーキが目当てだったんだよ」
クリスマスケーキを皆に配るのは、母さんが始めた慣習で、今は僕が引き継いでいる。
「顔はいいし、話した感じ爽やかで、テニス強いらしいし、律規君と同じ学校ってことは頭もそこそこいいんだろう?」
「先輩はそこそこどころか、学年トップです」
「それが……、クリスマスに手作りったって男からのケーキ欲しがっているようじゃ、随分日照りなんだろうな」
「僕だってクリスマス予定無しでしたよ。僕も残念ですか」
「律規君は癒しだからいい」
「律規君はうちの会社の天使です……」
長い付き合いだからって贔屓だっ。それに基山さんの天使発言は……、まだ寝ぼけているでしょう。
「国笠の奴、手伝いにきた律規君のツナギ姿を写真に撮ってやがりました」
基山さんは憎々しげに言った。
「ははは、本当?」
「工場にいる俺らしか見られない律規君の姿を……。許せねえ……」
「……基山、お前もなかなか男前なのに残念だな」
「国笠君か……。良い子なんだけど」
僕が登校の支度を終えた頃、父さんはご飯を食べ終えた。お茶をすすりながら、難しい顔をしている。
「けど?」
「あの子に『おとうさん』って言われると、不穏な空気を感じる」
不穏な空気って何、と聞こうとすると、インターフォンが鳴った。
「はーい。どちら様」
そのままドア越しに聞く。
「律規、俺」
「え、先輩?」
ドアを開けると、先輩が立っていた。僕と交換したマフラーをしている。
振り向いて時計を確認すると、約束の時間までまだ間があった。
「早起きしちゃったから、直接こっちに来た」
「わあ、僕ももう出られますけど。あ、トイレだけ行っていいですか。寒いので上がってください」
「ありがとう」
先輩を居間に通すと、急いでトイレに向かった。
戸は閉めたけど、狭い家なので居間の声が聞こえる。
「お義父さん、おはようございます」
「あ……ああ、おはよう」
「金井さんと基山さんもいる。……泊まったんですか」
「そうだよ。睨むな」
基山さんと先輩は、何故か仲が悪い。パンツを下げて便座に座ったところだけど、早く出なくては。
「国笠、聞き耳立ててんじゃねえ! この変態が!」
「ちょ、今からなのに。耳塞がないでください!」
あれ、音がすぐ目の前から聞こえる。先輩と基山さん、居間じゃなくてトイレの戸の前にいる? 扉の前で揉み合っている気配がする。どうしよう。
「はいはい、お前ら本当に気が合うなー」
金井さんが仲裁に入ってくれた。気が合うって……、僕には仲悪く見えたけど、人生経験の多い金井さんが言うからにはそうなのだろう。安心して用を足した。すっきり!
「今日寒いですねー」
「ああ、ちゃんとマフラーしないとな」
先輩は僕の首に手をやり、先輩からもらったマフラーを巻きなおしてくれた。
「温かい?」
「はい」
「手、つないでいい?」
「……はい」
先輩がいてくれると本当にあったかい。
ずっと一緒にいたいけど、予鈴の音に引き離された。
「徳見、問四と五、分かるか」
「ミトコンドリア、リボソーム。それくらい覚えておこうよ」
「……じゃあ、鹿苑寺の別名は?」
「ううっ! なんだっけ」
「金閣寺」
「うわあ!」
同じクラスの友達の赤宮と、期末勉強の問題を言い合う。もう一人、机をくっつけている坂町は、ぐったりと机につっぷして、諦めムードだ
「ねえ、徳見君。国笠先輩と仲良いんだよね」
「うん」
同じクラスの女の子達が声をかけてきた。
「先輩に彼女ができたって本当!?」
心臓がドクンとなった。
「え……」
「二年生の間ですっごい噂なの。先輩が友達に恋人ができたって言ってたって」
先輩に恋人……。
「ごめん……。知らない……」
「そっか。ありがと。もー、徳見君も知らないって、その噂本当なの?」
女の子達はあれこれ言いながら、前の方の席に戻っていく。
呼吸が段々浅くなって、頭が真っ白になっていく。
「後白河天皇と崇徳上皇の対立から起こった戦いは?」
「保元の乱……」
「お、いけるじゃん」
治道先輩……。
恋人、か。
僕は先輩に、一番可愛がられている後輩だと思う。テニスクラブとか、二年生の間ではもっと仲良い人がいるのかもしれないけど。マフラーを交換したり、たまに抱きしめてもらえるのは、この学校の一年では僕だけだと思う。
(でも……)
恋人ってもっともっと先輩と一緒にいられるんだろうな。友達や後輩はいくら作ってもいいけど、恋人は一人だけだから。
(いいな)
男同士でも、特別な関係があればいいのに。
先輩の恋人なんだからきっと、とっても可愛い女の子なんだろうな。綺麗系かもしれない。先輩は僕の事可愛いって言ってくれるけど、それよりずっと甘い言葉をあげているのかな。
『好きだよ』
とか。
『愛してる』
……とか。
「ひ……、ぐ……」
胸が、痛い。
昼休みは昨日と同じく、生徒会室で留守番をしている。
(先輩、今日は来てくれないよね)
恋人ができたのだ。その人と一緒に過ごしたいに決まっている。
と思っていたら、ドアが開いたことに気付かなかった。
「お待たせ!」
「……、治道先輩?」
どうして来てくれたんだろう。あ、相手がこの学校にいるとは限らないか。
「……ッ、律規、どうした」
「え」
先輩の手が僕の頬に触れる。
「どうして、泣いてるの」
あ。
「ごめんなさい。なんでも……」
「なんでもなくない。俺には、話してくれ……」
腰を抱き寄せられ、大きい手によって頬と顎を固定され、見つめ合う。
「先輩……。どうして来たんですか……」
「だって、昨日また来るって言ったじゃないか」
「でも、彼女ができたんでしょう……。この学校の人じゃないんですか……」
「……は?」
「ひっ……く。僕との約束なんか、構わないでください……」
「ちょっと待ってくれ! 昨日、俺、律規に好きだって言ったよな」
「はい、でも」
「それに律規は、僕も好きって答えてくれたじゃないか。俺達、恋人になったんじゃないのか?」
「…………」
目を丸くして、先輩を見た。
「……恋人?」
先輩は真っ赤になって、僕を抱き寄せていた腕を離した。
「ごめん。俺、勘違いした……」
勘違い?
「好きの意味伝わったと勝手に思って、好きって言われたの、了承ととって……。律規と付き合うことになったって、市田や秋下に言っちまった」
え、あ、恋人って、僕の事……。ドキドキして、頬がすごく熱くなった。
そんな僕の表情を、先輩は見つめていた。
「なあ、律規。俺に律規以外の恋人ができたと思って、泣いていたのか」
「は、はい」
「今、付き合ってって言ったら、どう答えてくれる?」
「付き合うっ……」
ど、どう答えれば。
先輩は僕の肩に手を置いて、真正面から向かい合った。
「徳見律規君、俺と付き合ってください」
「! …………、はい」
ぎゅっと抱きしめられた。
僕が、先輩の恋人……。きつく抱きしめられながら、先輩の顔を見上げる。僕の視線に気づいた先輩は、優しく頬笑み返してくれる。なんか、甘い表情……。
見惚れたままじっと見上げていると、先輩の手が僕の顎を掴んだ。ちゅっと、先輩の格好いい顔が近付いて遠ざかった。
昼休みが終わって教室に帰ると、赤宮と坂町が声をかけてきた。
「国笠先輩といたんだろ。彼女の事、なんか聞いた?」
先輩は目立つ人だから、女の子じゃなくても興味があるみたいだ。
「ごめん。聞いたんだけど、先輩に秘密にしといてって言われたから」
先輩に指示されたまま答えた。ああ、でも顔がニマニマしてしまう。
幸せ……。
「……」
赤宮と坂町がやたら僕の顔を見てくる。
「やっぱり先輩ってホモだったんだ」
「!」
何故ばれた!
秘密にした罰に、二人に両側から頬を引っ張られた。
「律規、帰ろう」
「はい」
僕のクラスの前の廊下で、先輩が待っていた。手を差し出されたので、手をつなぐ。
「勉強会、俺の家でいい?」
「はい。先輩の家初めてです。嬉しい」
歴史と古典が分からない……というと、先輩が教えてくれることになったのだ。期末前で部活がない。それでも会える恋人って、すっごくいい!
「あの、僕本当に歴史苦手なので、呆れないでくださいね……」
「いいよ。そのかわり、分かるまで帰さないから」
……夕飯までに帰れるかな。
「…………」
帰れなくてもいいかもと、ちょっと思った。
〈終〉