アッシュ
アッシュとの二人暮らしが始まった。
無気力なアッシュは放っておくと何もしない。
今日もぼんやりと窓の外を見ている。
「お外興味あるの? 散歩しよっか」
彼の手を引いて近所を歩く。
(痩せてる)
アッシュの手はアリエルに比べて肉が薄い。
(いっぱいご飯を食べてもらわないと)
アリエルは密かに意気込んだ。
「どこ行きたい? この先の公園に……。
――!?」
アッシュの方を向くと、その足元に巨大な葉っぱがあった。
肉厚なその葉は一部変形してタコの手足のように伸びている。
魔物だ。
アッシュはすっと足を引いて、魔物から距離を取る。
「アッシュに近寄るなあ!!」
アリエルは咄嗟に手から魔法を放つ。
魔物は道の向こうへ吹っ飛ばされた。
「アッシュ! 僕の後ろに!」
「!」
魔法を放った右手が熱い。
アッシュはすぐにアリエルの後ろに移動した。
「兵隊さあぁーん!」
アリエルは必死に助けを呼んだ。
駆けつけた警邏兵が魔物を確認したところ、一撃で事切れていたようだった。
魔法使用の報告書にサインし、警邏兵から離れた。
「びっくりしたねー。公園行ける?」
アッシュは自分の胸を押さえていて、アリエルが話しかけると、こくりと頷いた。
(うう。初めてのお散歩でなのに)
怪我がなかったとはいえ災難だ。
アッシュは怯えているのか、アリエルの後ろを歩いている。
「もう大丈夫だよ」
にこっと手を差し出すと、隣を歩いてくれた。
いつもの公園に着いた。
「…………」
アリエルはアッシュと手を繋いで公園の敷地に足を踏みいれる。
(初めて!)
いつも一人で来ていた公園。
誰かと来るのは初めてだ。
「あのね、原っぱ広いんだよっ」
嬉しさいっぱいでアッシュの手を引いた。
五歳のアリエルが五歳のアッシュをお世話する生活。
アッシュの反応は薄いので、アリエルはよく観察した。
どうやらアリエルの不慣れな世話を、嫌がっている様子はない。
それどころかアッシュに興味深々なアリエルの突進を、一つ残らず受け入れてくれる。
いままで一人だったアリエルは、新しい生活に堪らない幸福を感じた。
(アッシュは天使なのかなぁ)
そう思うくらい、この子がいるだけで住み慣れた家も街も輝きだす。
アッシュは様々なことを覚えていった。
「霧が出ている時は魔物が出やすいよ。兵隊さんも駆けつけるのが遅くなるから、お家の中にいようね。壁や屋根があると魔物が出にくいんだよ。それにここはおじい様の魔法道具が守っているから」
「ん」
「アパートの廊下や庭で会った人には、こんにちはって挨拶してね」
「…………」
「仲良くなると手作りのお菓子をくれることがあるよ」
「する」
「ふふ、いい子」
ちょうど共有テラスでアパートメントの奥様達がお茶をしているところだった。
皆、日焼け除けの黒いベールを付けていて、顔はほとんど見えない。
「まあ、綺麗な子がもう一人」
「本当」
「はいっ。これからうちに住むアッシュです。よろしくお願いします」
「こんにちは……」
黒ずくめの女性達に注目されて、アッシュは少し気後れしたものの、ちゃんと挨拶できた。
「まあ、素敵なおうちに加わるのね。羨ましいわ」
「仲睦まじいご夫婦ですものね」
クッキーをゲットできた。
一緒に本を読んでいて、アッシュが文字が読めないと知り、読み書きの練習をした。
握りしめていたフォークとスプーンを、軽く持てるように教えた。
タイの結び方を教えて、可愛い服装のバリエーションを楽しめるようにした。
「今日は何を読もうかな」
寝る前の読み聞かせは、アリエルにとって一、二を争う楽しみだ。
本棚を眺めて、今日読むものを選ぶ。
「『霧の精の物語』……は、ちょっと怖いかな」
霧の時間に外出する子供を、霧の精が攫ってしてしまうという、ホラーテイストのお話だ。攫われた子は帰ってこないまま終わる。
霧を怖がっていたアッシュに聞かせるのは避けよう。
(でもこれ、結構好き……。よしっ、もうちょっと大きくなったら読もう)
今日は『ビビーのパンケーキ店』にした。
気に入ったのか、初の二回目のお願いをされてしまった。
数日に一度、アリエルは家庭教師の授業を受ける。
アッシュは離れた場所に座っているだけだ。
気になったアリエルは親に伝言した。
『アッシュも参加させたいので、先生にお願いしてください』
すると久々に両親が家に顔を出した。
両親はアッシュが自宅に住んでいることを知らなかった。
「たしかに使用人が見つからないと話したが……」
ハニアスタとは世間話をしただけで、まさか彼が代えの人間を連れてくるとは思っていなかったそうだ。
その上、その相手が五歳ということに困惑していた。
ただ、アッシュが落ち着いた様子でアリエルの言うことを聞いているので、ひとまず落ち着いたようだ。
「いくつか質問させてもらう。こちらへ」
両親はアッシュを別室に招いた。
アリエルも三人の後についていこうとする。
「アリエルはそこにいなさい」
「え……」
目の前で扉が閉まった。
(ア……アッシュ、ずっと僕といたのに。急に一人だなんて……)
おろおろとして、心臓が鼓動を速めていく。
けれどアリエルの足は硬直して、立ち尽くすことしかできない。
しばらくして扉が開いた。
「アッシュ」
アッシュは元の無表情のまま、変わった様子はない。
アリエルはほっとする。
トトッと駆け寄り、もう離されないように軽く腕を絡ませた。
親はアッシュの素性について聞いたようだ。
アッシュに聞いても曖昧なことしか分からず、元いた場所の手掛かりは得られなかったそうだ。
ハニアスタからの言伝は何もない。
「この子の素性をどう確認するか……。とりあえずこの家に住んでいて構わない。不自由があれば連絡しなさい」
家庭教師についての許可も下りて、日々の生活費や小遣いも二人分になった。メグの賃金も増えたらしい。
アッシュと並んで家庭教師の授業を受けられるようになった。
アッシュが遅れている分は、家庭教師が帰ってからアリエルが教えた。
無気力だったアッシュの集中力はだんだんと上がっていき、何でもすぐに覚えるようになった。
「すごいね! 頑張り屋さんだねっ」
「ん」
アリエルは彼の優秀さに得意になった。
「……魔法……本」
「そう。『初級魔法教本』だよ。半分も読めたね」
アリエルは光の魔法でアッシュの周りに花丸を描いた。
光を目で追うアッシュがとてもかわいい。
今日のアリエルは魔法の修行をしようと、教本を開いていた。
最近アッシュにかまけていたので、久しぶりのことだ。
アッシュは物置きで見つけたボードゲームで遊んでいる。
駒が勝手に動き、一人でも対戦できる魔法道具だ。
おそらくハニアスタのお手製で、彼に合わせた難易度しかないのでアッシュもアリエルも勝ったことがない。
魔法道具というものは使用者から魔力を吸い取って働く。
そのため魔力がある者にしか扱えない。
「アッシュは魔力持ちだから、何か魔法に挑戦してみる?」
「…………」
アッシュは少し考えた。
「 スクランブルエッグを創る魔法」
アッシュは卵料理が好きで、特にスクランブルエッグがお気に入りだ。
アリエルはアッシュの気を引きたくてメグに習おうとしたが、フライパンを焦がしやすい料理なのでもう少し背が高くなってから、と断わられてしまった。
「卵からスクランブルエッグに?」
「何も無いところから」
「そ、それは難しそう。初級の教本には載っていないよ」
何も無いところから。つまり大気中の魔素から食べ物を創る魔法。
聞いたことないけれど、あるのだろうか。
物質生成というと水魔法や植物魔法が思いつく。卵となると治癒魔法や召喚魔法を元にするのがいいだろうか。
「あったらとても素敵だね。魔法の先生が戻ってきたら訊いてみる」
アリエルが魔法を習っている魔法使いは、この季節は夫と共にその領地に赴いている。
その間は魔法の授業はお休みだ。
「順番に試していこうか」
目次を開く。
「この本、二十七個の魔法が載っていて、僕はまだ七個しかできないんだ。アッシュにはどの魔法が向いているかなあ」
アリエルはわくわくと簡単そうな魔法を選ぶ。
まずは流水魔法。
ボウルに入れた水に波紋ができたら成功だ。
「魔力を押しつけるイメージでしてみて」
「魔力?」
「体の中に巡っている不思議な力だよ。力よ、溢れろーってすれば出てくるよ」
「…………」
アッシュはボウルの上に手をかざす。じっとしている彼の周りで魔素や魔力が巡りはじめる。その量にアリエルは目を丸くする。
(魔力操作や魔力量は、僕よりすごそう)
アッシュに天才の片鱗を見て、アリエルは目を輝かす。
だがしばらく経っても水面は静かなままだった。
「魔力、ばっちり生成できていたよ! ここから発動へ近づけていこうね」
魔力は生成できても、それを魔法として発動するにはコツがいる。
「このページ見て」
教本の最初の方のページを開く。
図解を指差しながら読んであげた。
世界には【魔素】という不思議な力の元があると云われている。
これを体内の魔力回路に取り込み巡らせて、魔法を使える状態に活性化させたものが【魔力】ではないかと考えられている。
魔力を生成できる者を【魔力持ち】という。
そして魔力を特定の形とリズムで体外へ放出することで、魔法が使える。
魔法が使える者を【魔法使い】というのだ。
「どの魔法を使えるかは向き不向きが大きいんだ」
教本の『魔法の適性』の項目で知った事柄だ。
「向いている魔法なら一発でできちゃうこともあるのね。だからまずは全部の魔法を一回ずつ試してみよう」
次は動魔法。
「この紙を押してみて」
テーブルの上に、紙を折って立たせてある。
アッシュは手をかざし念じるが、これもまた発動しない。
「じゃあ次は風魔法。紙じゃなくて間の空気を押してみて」
これも発動しない。
三つの魔法の起こる事象は似ているが、使う魔素の種類が違う。
そのため一つの魔法がだめでも、他の魔法には適性がありすんなり使えるかもしれないのだ。
その後も二十七個中、今試せる二十五個の魔法を試した。
だが魔法は発動しなかった。
「魔素の集まり具合を見ると、動魔法が一番反応良かったね。うう、でも僕、動魔法は練習中なんだよね……」
水や風の魔素から作り出した魔力は、魔法のイメージがふんわりしていても不思議な力で補間してくれる。
それに比べて動の魔素から作り出した魔力は、イメージしたものだけがダイレクトに現出する。ツルツルの氷の上を滑るようで、調整が難しいのだ。
(上手く教えられるかなあ)
考えごとをしながらアッシュの表情を見ると、いつもの無表情にほんの少し翳りが加わっていた。
(そうだ。二十五個も試して一つも使えなかったら、落ちこむに決まっている)
アリエルはアッシュの手を両手で握った。
「大丈夫だよ! 僕がばっちり教えるからね!」
動魔法をしっかり習得しアッシュに教えられるようになると、アリエルは心に誓った。
「…………」
「…………」
真剣な目で見つめ続ける。
するとアッシュの可愛い口が開いた。
「お昼まだ?」
「え? あ。あー!」
時計を見ると、いつもの昼食の時間を一時間も過ぎていた。
いっぱい頑張ったアッシュの皿には、王冠の飾り切りをしたゆで玉子をつけた。
今日も朝霧が晴れたあと、水路に沿って散歩した。
「アリエル様」
「!」
少し後ろからアッシュの声がした。
(初めて名前を呼んでくれた!)
呼び捨てでも良かったけれど、アッシュが選んでくれた呼び方が嬉しくて、
「なあに?」
と満面の笑顔で振り返った。
だがアッシュはこちらを見ていない。
立ち止まって道端の花壇を見ていた。
アリエルも近づいて同じ場所を見下ろす。
「綺麗な青色だね」
「…………」
「空キャベツっていうんだよ。姿も綺麗だけど食べることもできるんだ」
結球になった葉は茎の方は白く、上にいくほど青くなる。
冬を迎えようとしているミスティアの貴重な色味だ。
「アリエル様」
「ん?」
アッシュは空キャベツを見つめて、もう一度アリエルの名を口にする。
「目の色」
「ああ。そうだね。青色だ」
上から見ると中心が青く、端が白く見えるので、大きな目のように見えなくも……ない?
二十個ほどずらっと並んだ空キャベツを、じっと見つめるアッシュ。アリエルはその横顔を見ながら頬を膨らます。
アリエルを思い浮かべてくれるのは嬉しいけど、花の方がアリエルの名前で呼ばれるなんてずるい。
「アッシュ」
彼の視線の中に横入りした。
「僕の名前呼んで」
アリエルの青い目で、きょとんとしたアッシュの薄紫色の目を見つめる。
しばらく見つめ合っていると、
「アリエル様」
と言ってくれた。
「
――っ」
キュンと衝撃が胸を震わせて、全身を駆け巡る。体温が上がって、ピリピリっと産毛が逆立つような感覚。
「ひゃ……はわ……」
アリエルは口元が締まらずに変な声を出す。
そしてようやく、
「嬉しい」
と告げてほわっとした笑顔になった。
アッシュはその笑顔を見て、ぱしぱしと瞬きした。
木々が葉を落とす季節。本格的な冬がやってくる。
「服を揃えようね。温かくして風邪さんに捕まらないようにしないと」
持っている服の中で、体に合うものを確認する。
「うん、足りそうだね……」
去年のアリエルの服が、痩せているアッシュにはちょうどいい。
新たに買う必要はなさそうだ。
(……早くアッシュを太らせないと。おめかしの楽しみが……)
アリエルの眉間には、ふにっと皺が浮かんだ。
「…………」
「あ。なんでもないよっ」
アッシュに見られて、アリエルは不満げな表情をすぐに引っこめた。
このところ、アッシュとよく目が合う。
以前はぼうっと外を見たり、何もない部屋の隅を見つめたりしていることが多かった。
だが最近はアリエルの方を見てくれるようになった。
アリエルはにこにことしながら、アッシュの薄紫色の目と見つめ合う。
しばらくアッシュの可愛らしさにうっとりしていると、クローゼットの出し入れを手伝ってくれていたメグから声が掛かる。
「アリエル様、もうすぐ家庭教師の先生がいらっしゃる時間ですよ」
「わっ、本当だ。メグさん、片付け手伝って」
「はい」
アッシュの魔法修行はあれから進展なしだが、学業についてはアッシュの覚えはとても良かった。
家庭教師も褒めてくれた。
「坊ちゃんはしっかりアッシュ君に教えてくれているのですね。とても伸びが良いです」
「はい。アッシュに教えるのは楽しいので」
アッシュが褒められて、アリエルは高揚した。
「それとね、アッシュは僕の奴隷なんです。だから……」
だからアリエルが教えてあげるのは当然なのだ。そう言おうとした。
「
――坊っちゃん。奴隷ではなく使用人と言ってください」
家庭教師に正されて、アリエルは首を傾げた。
「? だっておじい様がそう教えてくれたんです」
そういえば両親の前では、たまたま奴隷の話は出なかった。
奴隷だと他の人に教えたのは初めてかもしれない。
「ハニアスタ様ですか。あの方は……」
家庭教師は溜息をついた。
「お祖父様の言葉は忘れてください」
家庭教師の語調は鋭く、問い返すことを許さない雰囲気だったので、アリエルはその場は聞き入れた。
だが家庭教師が帰って、アッシュと二人きりになってから問いかけてみた。
「アッシュは僕の奴隷?」
「うん」
アッシュがなんてことないように答えてくれた。
「えへへ、そっかあ」
アリエルはとても幸せな気分になった。
一緒に住んで、世話をするもの。
アッシュは奴隷としてアリエルにたくさんの幸せをくれた。
もう手放すことなんてできない。
「口にしちゃいけないみたいだから、二人だけの秘密ね」
「ん」
「いい子」
アッシュの肩に寄りかかって、その体温に温めてもらった。