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 御主人様の寝台で






六時四十分。

「おはようございます。旦那様」
 扉の向こうに声をかけて、シュロは返事を待つ。豪華な彫刻が施された扉は、落ち着いた色合いで格調高い。
「…………」
 少々待っても返事はない。
「入りますよ」
 シュロは遠慮なく扉をあけた。すたすたと寝室の奥へ進む。
 いつものことなのだ。旦那様はしっかりした人なのに、寝起きだけはどうもいけない。
 カーテンを開ける前の薄暗い部屋。大きな寝台の上には、シュロの主人の寝顔があった。
「旦那様」
 返事はない。容姿も寝ぞうも整った人だ。シュロは彼の寝顔を見つつ、片手をカーテンに掛けた。夏の薄いカーテン越しに朝陽が差し込んで、彼をきらきら照らしている。
「さあ、起きてください。起きて、着替えさせていただきますよ」
 何度か声をかけても起きなくて、少しずつ彼の耳元に近づいていく。
「だ、ん、な、さ、ま」
「……ん」
 旦那様が少し顔を横に背ける。
「い……っ」
 シュロの唇が、彼の耳を少しかすめてしまった。
―もっ申し訳ありません。あの、……旦那様?」
「…………」
「起きてください!」
 顔を真っ赤にしてシュロが大きな声を出す。同時に窓の外からバタバタという音が聞こえた。スズメでも驚いて飛んでいったようだ。


 やっと旦那様の瞼が開いた。
 ぼんやりとした視線が、シュロの上で止まる。まだ頭が働いていないのか、シュロを見つめたまま何をするでもない。沈思する顔に見えて、ただの寝ぼけ顔だ。シュロが旦那様に仕えて日も浅い頃は、ご不興を買ったのかな、とどきどきしたが、今は何でもない。
 寝起きの旦那様は何にも考えていらっしゃらないと知っている。
「目は開きましたね。次に顔を洗えば、ピシッとしますよ。今、水盥をお持ちします」
 今のシュロはテキパキと旦那様のお世話をでき……。
「おはよう」
 甘い低音と共に、ぐいっと引っ張られた。
「だっ旦那様!?」
 がっしりした腕がシュロを攫い、シーツの中へ引き込んだ。旦那様のぬくもりが移ったシーツごと、旦那様に抱きしめられた。
「おはよう、アリス。朝から奇麗な毛並みだね」
 そう言ってシュロの髪に口付ける。
「……!」
 柔らかい感触。シュロの体はかっと火照った。
「ち……違います、旦那様。あの、アリス様の毛と同じ色ですけど。アリス様は旦那様の妹君にお譲りして、嫁ぎ先にご一緒されたのでしょう」
「何をニャーニャー言っているんだい。可愛らしいね」
 旦那様はにこっと優しい微笑みを浮かべた。
「ニャーニャーなんて言っておりません!」
「おなかでも減った? あれ、尻尾はどこかな」
「そん、そのようなところ触ら……」
 尻に旦那様の手がかかる。シュロはその手から逃れようとするが、旦那様の手がしっかり掴んでいて難しい。シュロが力を込めると、旦那様が倍の力を込める。そうしてシュロを捕まえたまま、柔らかく尻を揉むのだ。
(どうしよう……)
 混乱と恥ずかしさで焦ってしまう。旦那様を見上げると、目が合ったことに気づいた彼は、愛おしげに微笑んだ。きっと、シュロの目がアリス様と同じ色のためだ。そんなことを考えている間にも、尻以外にも手が伸びて、背筋を撫でられた。シュロはゾクゾクっと猫のように身を震わせる。
「……お止め下さいっ―」
 耐え切れずに涙声で嘆願した。
 尻を揉みこむ動きが止まる。
「旦那…様……」
「……シュロ?」
 やっとシュロに気づいた旦那様は、自分がシュロを組敷いている状況に目を瞬かせる。
 しばらくして、おもむろにシュロの腰の辺りを触った。
「旦那様!?」
 目が覚めたのではなかったのか。焦ってすごい勢いで後退するシュロ。ところがベッドの端で手を踏み外し、ぐらっと体勢を崩した。
「わっ」
「おっと」
 旦那様が手を伸ばし、落ちかけていたシュロを軽々と救う。
「大丈夫?」
「ありがとうございます……、いえ……申し訳ありません」
「驚かせたかな。これを借りようとしただけなんだけど」
 そう言って、手に持った懐中時計を見せた。シュロが常に腰のポケットに入れているものだ。旦那様はそれをカチッと開いた。
「七時ちょうど」
 二人の真ん中で時間を確認すると、またカチッと閉めて、シュロの手に乗せた。シュロは小さく溜息をついた。
(今日も予定時間より二十分もかかった……。また……)
「シュロがここに来てから、いつも時間どおりに起きられて助かるよ」
「え……え、時間通り?」
「ああ、セアルには七時に起こすよう伝えているけど」
 セアルさんはこの屋敷を統括する熟練執事だ。つまりセアルさんは、シュロでは旦那様を起こすのに何分かかるか計算して、シュロをあの時間に旦那様の寝室に寄こしたのか。シュロの苦労は計算済みなのだ。少し、……へこむ。
「目覚めて最初にシュロの顔を見られて、毎朝とても気分よく起きられるよ」
 主が優しい言葉をかけてくれたが、うつむいて自責しているシュロには届かなかった。



 シュロは見習い執事。
 大貴族である旦那様に仕え、ベテラン執事のセアルさんに学び、日夜修行中だ。
 貧乏貴族に生まれたシュロにとって、旦那様の家宰になれれば、親戚中が大満足する出世コースだ。
 ……今はまだ、セアルさんの的確かつ冷淡な操縦に助けられ、旦那様に微笑まれつつ慰められているけど……、でもいつか!

〈終〉