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 風そよぐ丘 1






エズレイの町の修道院の重い扉を開けた。埃が舞い上がり、飾り窓からの光が照らし出す。数日で溜まる埃の量ではない。
扉を開けた男は今日、町に着いたばかりである。
呆然と入口で固まっていた。


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「また一緒にあの景色を見にいきましょうね、アジサ」
「ああ。夕日に染まる君の姿は綺麗だったよ」
 そう言って女の浅黒い頬に口づける。「やだぁ」と笑いながら、女はアジサに豊満な胸を押し当てて、「この後はどうする?」と潤んだ瞳で誘ってきた。
「用事があるから、今日は楽しかったよ、じゃあ」
 にっこりと、きっぱりと断った。身を翻してさっさと歩いていってしまう。次の約束の時間がおしているのだ。「ち、ちょっと」と戸惑う女には悪いなと思いつつ、足を緩めない。何しろこの後、約束している別の女性は、彼女より胸が大きいから。


 アジサ。その容姿の良さと、女癖の悪さで、この辺りの町では有名な男だ。そんな評判を知らなくても、人と少し違う気迫を放っているので人目をひく。小麦色の肌と、長身を過不足なく覆うしなやかな筋肉。そして端正な顔に輝く、自信に溢れた青い瞳。

 今、一度自分の家があるエズレイに戻っている。先ほどの女が焚きしめていた香が移ってしまっていた。服を変えようと思う。次の女性も近くの町の住人なので、アジサの女が一人二人じゃないことは知っている。つまり彼女に気づかってのことではない。単純に香の趣味が気に入らないだけだ。
「秋にこの香りはないだろう」
 どこまでも自分勝手な男である。


 エズレイの町灯りを右手に見ながら、坂を上がる。町外れの丘に家はある。この辺りでは裕福な証である瓦屋根。こじんまりとしているが、使っている素材は豪勢だ。そんな我が家に入ろうとしたときである。
 隣の建物の前の人影に気づいた。
 長いこと放置されていた修道院だが、客がきたなら対処しなくては。なにせあの修道院はアジサが所有しているのだ。

「こんばんは。どちらさま?」
 近づいてみると、細身の男だった。こちらに後ろ姿をみせたまま、立ちすくんでいる。少し不信に思いつつ、声をかけた。

 振り向いた顔に目を奪われた。

 この辺りにはない白い肌である。顔立ちは全く癖がなく整っている。まるで光を余すことなく反射するために磨かれた鏡だ。撫でるように観察していると、彼の大きな黒い瞳がいぶかしげに動いた。
「失礼。私はこの修道院を管理している、アジサというものです。どうぞよろしく」
 気に入った。とりあえず好印象をうえつけようと、最上の微笑みで挨拶した。相手によっては腰をくだける。
 だが目の前の男の反応は別物だった。
「貴殿が責任者ですか!」
 あれ、何で怒っているんだ。白い肌と、握りしめた拳には朱に染まっていた。けして恋慕の色ではない。
「この修道院の有様を見なさい!」
 白い指はまっすぐと開け放たれた扉の奥を指していた。覗くと、なんてことはない。蝋燭を灯していないので見にくいが、いつもどおり埃を被った修道場である。
「何か?」
「何か、ではありません!掃除も修道士の鍛錬の一です。『日々祈り、日々精進す』! それなのにこの修道院は―これは怠けたのは一日二日ではないでしょう!」
「最後に清掃夫をよんだのは年が終わる頃だったと記憶しています」
「な……! そんなに前……、しかも清掃夫にやらせているのですか……?」
 よく怒鳴る奴だな、と思いながら受け答えしていたのだが、何がショックだったのか急に威勢をなくし、その場に膝を折った。へたりこもうとした麗しい男を、「大丈夫ですか」とうかがい手を取る。滑らかな触り心地だ。
 だがパシッと振り払われた。
「貴殿のような修道士の風上にもおけない男に、手を貸される筋合いはありません!」

 可愛くない。
 この男の見たこともないレベルの美しさに心弾んだが、数分の会話で、優しくしてやることもないと悟った。とたんに冷ややかな声になる。
「掃除がゆきとどいていなかっただけで、倒れ込もうとする人を助ける“自然な情”も否定しますか」
「あ、それは……」
 はっとした様子だ。
「それに、こちらは真っ先に名乗ったのに、貴方はまだ私にとって見も知らぬ人。そんな相手に罵倒される身にもなってください」
「罵倒など! 言葉はきつ過ぎたかもしれないが、修道士の心構えを説い……」
「まず名乗れ」
 いい加減敬語を使うのも面倒になってきた。
「……申し訳ありません」
 男は背筋をのばし、真正面からアジサを見た。

「私は半年前に王都の大聖堂にて神官職を得ました、レシエマと申します。信仰の現状を知るため、各地を視察している最中であります」
「……嘘をつくな。それに大聖堂の神官が供もつけずにこんな田舎うろついているわけが―」
「このとおり若輩者なので、この視察の旅は私自身の修行を兼ねています。ですから出発の際、従者はお断りしたのです」
 不信極まりない、といった視線を投げかけたが、レシエマの瞳はたじろがない。
「信じていただけなくても仕方ありません。私の身分を証明するものは、今これしかありませんから」
 そう言って、胸元の服に隠されていた、聖杯を象ったペンダントを取り出した。フィゾ教の高位の神官がつけるといわれるものだ。聖典に書かれているとおり三つ足の杯で、ふんだんにあしらわれた宝石は間違いなく本物だ。だがアジサはペンダントの本物を見たことない。

(とりあえずこんな見事な装飾品を所持できる者というのは間違いない。やっかいだな。悪くない印象をつけて早々に立ち去ってもらおう)
 そう決めると、またにこやかな表情でレシエマに接した。


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 今日出会ったばかりの、アジサの家に泊まらしてもらえることになった。修道院の空き部屋を貸してもらえたらと思っていたのだが、
「どの部屋も埃だらけです。喘息になりますよ」
 と言われ、彼の家に案内してくれた。一人暮らしだそうだが、客室はすっきりとした調度品が並び、ベッドにはすぐにさっぱりとしたシーツを用意してくれた。
「アジサ殿は本当は優しい方だった。それにひきかえ……」
 レシエマは、先ほどの自分の醜態を思い出し恥ずかしくなった。


 よく話を聞いてみたら、アジサは修道士ではなく、放置された修道院を好意で管理しているだけだという。
 あの修道院を開いたのは彼の父親らしい。
 発明王といわれ、戦略武器の開発のために王国に高額で雇われていたこともあった人だそうだ。アジサが物心ついたときには引退していて、王都で感銘を受けたフィゾ教を故郷で広めんと、この地に修道院を建てた。だが信者が集まらぬうちに、西の砂漠を越えた先にあるアーターン山で修行しろ、とお告げがあったといって旅立ってしまったらしい。
 発明によって成した財産と、まだ八つになったばかりのアジサを置いて。

「聖地アーターン山はまだ誰もその存在を確かめたことのない伝説です。そこに身一つで旅立っていくなんて、何という信心でしょう」
 素晴らしいお父上ですね、とレシエマは感嘆の言葉を口にした。ありがとうございます、というアジサは静かに微笑んだ。
 アジサの青く輝く目が、ほんの少し悲しみの色を浮かべた。
「……?」
「長旅でお疲れでしょう。大したおもてなしも出来ませんが、良い休息をお取りください。では、おやすみなさい」
 そういって客室から出ていくときには、すっかりその色はなりをひそめていた。


 ランプを消し、レシエマはベッドに入った。シーツはさらりとして、寝間着もアジサのくれた肌触りのいいものに着替えている。普段ならすぐにでも寝入ってしまうのだが……。寝返りを何度もうつ。
 アジサの青い瞳を、思い出しては眠れないのだ。

 王国に青い瞳の人間は少なくない。だがこの人の目は青だったと、鮮烈に覚えている人はいない。レシエマは人と話すときは常に目を見て話しているので、見ていないはずはないのだが。
「どうして彼だけ目に焼き付いているのだろう」
 闇の中で目を開いた。闇の黒さが、アジサのしなやかな身体を思いおこさせる。レシエマは肌の白さはよく賞賛される。王都の大聖堂に並ぶ一級の彫刻達に劣らないと。だがアジサは、一挙一動が美しい。その流れに目を預けてしまいたくなる。引きつけられる。アジサの千変万化の黒い輝きに比べ、固まった美しさしかない自分は、世界が狭かったと感じた。

(それに、激昂して捲し立てる私の未熟さを、冷静に指摘なさった。そして私が態度を改めると、すぐに穏やかな笑みで受け入れてくださった。人としても、私より余程できた方だ。―やはり私は、神官としてまだまだだ)
 王都の大聖堂では、レシエマは抜きん出た知識、清廉で勤勉な性格を大神官に愛され、異例の若さで神官職を手に入れた。
 この旅も今思うと、修行といいつつ謙虚な気分ではない。信者を増やすという若々しい使命感に燃えてここまできたのだ。その気分は今日、アジサにうちのめされた。もしアジサが大聖堂にいたら、神官に先に登りつめていたのは彼であろう。

 はあ、と溜息が漏れた。
 アジサは何故父親の修道院を継がないのだろう。きっと素晴らしい神官になれるのに。

 彼と、神について語り合えたら。


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 朝食のスープを煮立たせたまま、あの可愛げのない自称神官を起こしにいった。
「いない」
 さっさと出ていってくれたか、と一瞬喜びそうになるが、部屋の隅に彼の荷物を見つけた。まだいるらしい。家の中にはいないので、台所に戻り火を止めてから、外にでた。
「あいつの行きそうな場所は、修道院ぐらいか」
 昨夜閉めたのに、扉が全開になっている。ちょうどレシエマがでてきた。腕まくりして白い腕が露になっている。埃でいっぱいのちりとりを持ち、それをゴミを焼くための穴に捨てていた。

「アジサ殿、おはようございますっ」
「おはようございます。一体何をなさっているのですか」
「掃除をしつつ、昨晩の自分を反省していたのです。ところで、ここの壁画や蔵書は立派な物を揃えていますね。さすがアジサ殿の修道院です!」
「壁画も蔵書も父が揃えた物です」
「はい!」
 ……今日はやたらとニコニコしているな。背中に寒気がする。

 朝食に誘うと嬉しそうについてきた。玄関に入れ、はたと気づいた。レシエマは昨晩以上に白っぽかった。朝日のせいではない。埃だ。このまま食堂にあげたくない。
「そういえば気がつきませんでした。長旅の後だというのに風呂も炊いていませんでしたね。さっそくご用意します」
「いえ、気をつかわず」
(俺が汚いままでうろついて欲しくないんだよ)
「そうだ!ここに来る途中見つけたのですが、近くに滝がありました。朝の修行として打たれてきてもよろしいでしょうか」
「あの滝ですか。どうぞ。その間に朝食を並べておきます」
「ですが場所をしっかりと覚えていないのです。案内していただきたいのですが」
 風呂を炊くより楽なので了承した。


 修道院が建つ丘を、町と反対の方向の森に降りていくと、エズレイの町にも知る者は少ない滝がある。結構大きな代物で、森の鳥の声をかき消して、轟々と水音をあげている。
「ここです、ありがとうございます」
 そういうとレシエマは、服をさっと脱ぎ、全裸になって川に入っていった。深く、流れも速いので、たまに足をとられそうになりながら奥へ進む。

(肌だけは絶世の美人だな)
 愛想が尽きたはずだが、あの白磁をみると、不埒なことを考えずにいられない。滝の手前まで進んだときには、首まで水に浸かっていて、滝の真下にあるちょうどいい岩によじ登っている。
 長年滝に打たれてツルツルになった岩に悪戦苦闘しながら這い上がる姿、なかなか煽情的だ。
 腰を揺らし、とんがりにしがみつく。上に登ることで、水中の歪んだ像しか見えなかった身体が、水滴のおまけ付きでくっきりと見えるようになっていく。美しい曲線を描く肩、なめらかな背、細い腰、キュッとあがった尻、すらりと伸びた足……。

「あれ、アジサ殿も滝に打たれるのですか」
 アジサはレシエマが座る岩まで泳ぎ歩いてきた。背の高いアジサは、岩にあっさり登る。水に入るため、服は全て脱いでいた。
「ええ。幼い頃父に連れられてきていたのが懐かしくって」
 というのは嘘で、近くでレシエマの肌が見たかっただけだ。いや、あわよくば触りたい。
「ああ! やはりアジサ殿は、神官になるための英才教育を受けてきたのですね!」
「ふぇっくしょい!」
 また寒気が。水に入ったのがまずかったかな。

「大丈夫ですか」
 隣に座るレシエマが心配気に覗き込んできた。
 ゾクリとする表情。滝から舞い上がる霧で髪は湿り、寄せた眉が煙るような色香をたたえている。
 アジサはたまらず引き寄せた。


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