王と教育係
先の王の代から、ヘキは今の王に仕えていた。
だが王にはヘキが自分に仕えているという意識は薄かった。
ヘキは十歳の頃からの王
――この頃は太子の教育係で、太子の館で書と政治を教え、狩り場で馬と弓を教えた。教育係は王子の親
――王が信頼する老臣に任されるのだが、若くして学問の才で名を馳せていたヘキが抜擢されたのだ。
歳の比較的近い師弟はすぐに仲良くなった。王にとってヘキは、温かい兄のような、もっと憧れの存在のような。とにかく彼はヘキにものを聞き、ヘキと馬を駆けるのが大好きだった。
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しかし、先代が崩御し、王が二十歳の時に即位してから、ヘキの態度を冷たく感じるようになった。
「お前は俺の最も信頼する臣だ。だから主席大臣の座につけてやる」
と言えば、
「私はまだ他の重臣から見れば若造です。重職に就けばいらぬ嫉妬を受け、あらぬ悪評や罪着せ、陛下に奏上する者も現れるでしょう」
と断ってくる。
「そんなこと俺が聞くか」
そう返すと呆れたように溜息をつきながら、
「朝廷で王がお聞き入れにならないなら、夜道で暗殺するまでです」
と王の希望を聞き入れない。
結局主席大臣には恰幅のいい老臣が据えられ、王は面白くない顔をした。
これはこれで良かった。ヘキを王の補佐役に就けると、主席大臣と違っていつでも呼びつけられる。執務室も一緒だった。
だが、話が狩りのことなどにそれると、
「勤務中です」
とつまらない政治の話にまた戻る。
大好きだったヘキの真面目で率直な性格が、今は小憎らしかった。
それでも諦めずにヘキと親交しようとするが、はぐらかされる。
それが連日続くと、王はヘソを曲げた。
困ったのはヘキである。執務室の机に足を投げだしてむくれている王を、どうにかなだめすかそうとする。だがそっぽを向いたままだ。
仕方なくヘキは、王が絶対に機嫌を直すアレをやる。
「陛下。これ以上私を困らせないでください」
行儀悪く座っている王を、頭から抱きしめて、優しい声でささやく。王の肩がピクリと動いた。
「陛下」
髪を撫でながら、もう一度ささやく。
するとスルスルと腕を動かして抱きしめ返してきた。顔を覗くとご満悦の表情に変わっている。
王が子供の頃、勉強を嫌がるのをそうしてなだめた。それ以来お気に入りになってしまったらしく、よく抱かれたがった。
何が楽しいのか、ヘキより随分と体格の良くなった今でも、一番の薬になっている。
王の威厳もあったものじゃない。そろそろ師匠離れしてほしいのだが、嬉しそうな王の笑顔をみると、ヘキの胸もほのかに暖かくなった。
(いけない。私も弟子離れしなくては)
子でも作れば愛着も分散されよう。だが、ヘキは長いこと婚期を逃していた。
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王は庭で一休みして、執務室に戻ろうと廊下を歩いてきた。その時王の執務室から出てくる女官の後ろ姿を目撃した。掃除のため女官が入ってくることはあるが、それにしては挙動が怪しい。
室内に声をかけてもヘキはおらず、従者を先に入れて部屋を探らせた。
発見したものはなんでもない。
ヘキの椅子の上に机で見えないように、花と恋文が置かれていた。
「まあ、よかったですね。間者や刺客の類いではなさそうです」
「何を言うか!!風紀が乱れておる!すぐに女官長を呼べ!」
普段、自ら風紀を乱している王の言葉に、従者達は驚いた。花と恋文はヘキに見られる前に始末させる。
女官長を叱りつけ、あの女官を捜そうとしたが見つからなかった。
恋文は名前がなかった。さすがに貴族と女官で結ばれるとは思っておらず、胸の内を吐き出したかっただけなのだろう。後ろ姿を見ていたが、女官は制服を与えられ、髪もきっちりまとめるよう教育されているため、見分けがつかない。
ついには、「女官全員を解雇しろ!」と命じようとしたが、理由を知らないヘキに諫止された。これ以上騒ぎ立てると、ヘキに恋文を捨てたことがバレると思い、歯噛みして撤回した。
なにしろ、後ろめたいことは、これだけではない。
ヘキがこの歳にもなって未だに結婚できないのは、王が一枚噛んでいる。
王の寵臣で、本人の才も申し分ないヘキは、将来の出世が約束されている。その正妻がまだ空席なことに目をつける貴族は少なくない。
だがヘキに結婚話が持ち上がると、すぐに王が、相手の女性に他の男性を紹介して結婚させてしまうのだ。王直々にもってこられた結婚話を断るわけにはいかず、ヘキと結婚までこぎつけた者はいない。
王は、ヘキの色めいた話を完璧に把握している。
遊び好きな王には、耳の早い友人が沢山いる。
さらに、昔、一流の料理人だといって王の息のかかった男を下賜し、ヘキの館で料理長をやらせている。彼に逐一、ヘキの家の動静を報告させているのだ。
蟻も逃がさぬ包囲網である。その上、あの頭のいいヘキに気づかれていない。
王はこの作戦にのみ、王座では見せたことのない有能さを発揮していた。
しかし、あの女よって包囲は破られた。
いや、恋文の存在はヘキに気づかれなかったから、まだ破られたわけではない。だが、蟻を潰すこともつまみだすこともできず、イライラが収まらなかった。
しかも調査しているうちに、女官達の間で、多少顔のいいヘキが人気であることを知り、女官が全てあの女に見えてきた。
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「どうかなさいましたか?」
「いや……別に」
お茶を入れにきた女官を、王がものすごい形相で睨んでいるのを、ヘキが見咎めた。ブスッとした返事に、
(またろくでもないことを考えているな)
と予想した。
「なあ、ヘキは結婚しないのか」
王は何食わぬ顔で尋ねた。
「縁に恵まれませんので」
苦笑とともに答えが返ってくる。
「縁があったらするのか」
「するでしょうね」
そんなことより仕事に集中してください、と言われ、王は視線を書類に落とす。
だが、また顔を上げて質問する。
「妻のこと、俺よりも愛すのか」
「臣下には王より大切なものはございません」
「だが先先代は、臣下の妻を奪って、そいつに弑逆されたぞ」
「それは少し特殊過ぎませんか。ですがその場合でも、臣が優先すべきは忠義だと存じます」
「そうか!」
王はにっこりした。
「そうか。なら、ヘキに妻が出来たら、俺が奪えばいいんだな!」
ヘキは椅子からずり落ちそうになった。
「な、ど、どうしてそうなるのですか!」
「うむ、女ごときにそわそわしているのは俺らしくない。
――できてしまったら奪えばいい
――。それだけだな」
「そんな、野蛮な……、“王”にあるまじきこと、許されません!」
「俺が王らしくないなんて、今に始まったことではないじゃないか。というわけで、お前に妻が出来たら容赦なく奪うぞ。それでもいいなら結婚しろ」
「陛下……。私に妻ができたとしても、陛下が一番大事です。それだけではいけませんか」
「うん、嫌だ」
ヘキは暗然とした。
(冗談じゃない。自分に対する王の執着がこれほどとは。考えを改めさせよう)
「陛下……、それはあんまりではございませんか」
席を立ち、王の傍までいってその手を取り、優しく語りかける。強情な王を説得する時にはコレが最も有効だ。
「陛下」
温かい手を取りながら、少し困ったような顔をして訴えかける。
だが、今日の王は、ニヤニヤ笑っているだけだった。重なった手を、目を細めて見つめている。
(おかしい)
そう思いつつ、さらに王に近づこうとする。
「あっ」
ヘキは王に腕を掴まれ引き寄せられ、彼の胸に頭をあずけた。そのままギュッと抱きしめられる。
王を抱きしめたことは何度もあるが、王に抱きしめられたことは初めてだ。妙に恥ずかしくて、ヘキは赤くなった。
「ヘキ」
ヘキの髪を撫でながら、うっとりとした声で、王が呼びかける。ヘキは気恥ずかしさで返事が出来ない。王は構わず続ける。
「ヘキ、俺はいままで、お前を師匠だと思うがゆえに遠慮してきた」
(どこがでしょう)
と思いつつ言葉に出せない。
「だが違ったな。ヘキは師匠である前に、俺の臣下だ」
ヘキの肩に頭を乗せ、耳元で語りかける。
「つまり俺はお前に、なんでもしていいわけだ」
(なんでもは違います!)
さすがに口を挟もうとしたが、顔を王の胸に押し付けられて、しゃべれない。
――そして王は言った。
「お前を俺のものにする」
その言葉に気を失いかけた。
〈終〉