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 影の恋 2






 大事な記憶。

 ―きれいな着物……。
 宝は手を上げて、自分の着ている着物の袖をまじまじと見つめた。着物が大きくて袖からは指先しか出ない。厚く滑らかな布はとても重い。
「宝、頑張ってね」
 家で見るのと違い、仕事用の装いの母が、笑顔はいつもの朗らかさで言った。

 十年前、両親共に烙家で働いていた。二人は忙しくて、宝は隣の家によく預けられ、凱達の兄弟同然だった。今日は昼間から両親に会えるのが嬉しかった。

「はい」
 こくっと頷く。母と似た格好をした周りの女の人達が、大人しくて良い子ね、と母に言った。


 黄藩には独特の祭りがある。毎年桃の時期に、それぞれの家で桃の花を浮かべた酒を飲む。それによって長寿を得られるという言い伝えだ。もちろんそれを用意できない家もあるけど、水に野草を浮かべるくらいはする。
 烙家のような富家ではもう少し凝っていて、煌びやかにした子供に酌をさせるのだ。注ぐ者は若ければ若いほど良いと云われていて、ちょうど零さず注げる齢の子を選ぶ。家臣に声をかけて、宝がいいのでは、となったのだ。


 背の高い膳に酒の入った銚子を載せて、長い廊下を歩いていく。宝は烙家の屋敷は初めてだ。ここに勤めている女性が、彼女は桃の花が置かれた盃の載った膳を持って先導してくれる。
 渡り廊下から見える庭に、宝は目を奪われた。冬の寒さがようやく薄れたばかりなのに、ここには色とりどりの花が咲き乱れている。
(あ、いけない)
 宝は膳に集中を戻した。酒は一滴も零れていない。宝はほっとする。

「!」
 庭の緑から、何かが飛び出てきた。がっと宝の目の前の膳に当たる。銚子が飛んで床に転がった。
「鞠……?」
 周りの女性が呟いた。宝の足元に、緑色の鞠と銚子が落ちている。
「ごめん! 方向が狂った」
 庭から渡り廊下に少年が飛び乗ってきた。
「当たらなかった?」
「若様っ……。もう旦那様方は広間にお集まりですよ」
「今いく。……季節の行事よりも、蹴鞠をしていたいのに」
 言いかけて、綾はぎょっとした。
 ぽた、ぽたと、小さな子が涙を零している。
「この子は……」
 綾が聞く前に、宝は顔を歪めて、大声で泣き出した。
「ほ、宝君っ、大丈夫。もう一度用意すればいいからっ、ね」
 女性が慰めてくれる声も宝の耳には入らない。
(とう様とかあ様が、ほうに任せてくれたのに……!)
 一所懸命に働いている両親の働きに、宝は泥を塗ったのだ。綺麗な廊下に、酒をぶちまけたのだ。
 悲しい気持ちでただただ叫び続けた。



 宝は泣き疲れて気絶するように寝てしまっていた。
(……いい匂い……)
 気づくと、知らない少年の腕の中にいた。
(さっきの、男の子……)
 彼の顔を見上げ、不思議そうに見つめる。
「起きた」
 優しい顔で笑い返してくれた。
 やわらかい場所に座っていると思ったら、豪華な布地の張られた長椅子に座って、体は彼に寄りかかっていた。
「私が泣かせてしまったから……、ごめん」
「お祭りは……」
「いつ起きるか分からなかったから、叔父の屋敷で頼んでいた子にこちらにも来てもらった」
 それは……、
「もう、終わっちゃった……?」
「父がこの後予定があったから、待てなかったんだよ」
 また泣きそうになった宝に、慌てて綾は盃を差し出した。きょとんとそれを見つめる。
「私はまだ飲んでいないんだ。注いで」
 綾がもう片手で指差した先には、先程の銚子があった。桃の花がほのかな芳香を漂わせている。先程感じたいい匂いは、桃の香りだったのだろうか。

 練習したとおりに、銚子を慎重に傾けていく。真剣な顔が可愛いらしくて、綾は笑ってしまいそうになるのを耐える。
 そっと銚子を戻す。
(できた……!)
 得意になって彼の方を向いて、
「……っ」
 とくっと心臓が鳴った。
 彼は静かに盃を唇に寄せていった。すっとした姿勢、伏し目がちの表情、穏やかな所作、こくんと動く喉。子供の目から見ても、全てが綺麗だった。見蕩れていると、彼が盃を下ろした。
「長寿の元だそうだよ。飲んでみる?」
 盃を差し出される。ほんの少しだけ残った透明な滴が揺れている。受け取って、飲み干した。
「苦いっ」
 水のような色なのに、まるで違う濃い味がした。舌を出して顔を顰める。男の子は笑った。
「私もそう思う」
 宝は恨めし気に彼を見る。
「あんなになみなみと注ぐから、仕返し」
 それは悪かったと思うが、こんなに不味い物と知らなかったのだから仕方ないじゃないか。
「ほら、子供にはこっちが主役だ」
 皮をむかれた柑橘が、皿に溢れるほど入っていた。串で刺して宝の口に持ってきてくれる。無邪気に口を開けて受け入れると、甘い味が広がった。同じ串を使って彼は自分の口にも柑橘を入れる。串が一本しかないのは、多分御曹司だけに用意されたものなのだろう。
「もっと食べな」
 そんなことに気づかない宝は、彼に勧められるまま口を開けた。



 日が長くなると、日毎薄着になる。綺麗な着物を着た時のことなどすっかり忘れ、くすんだ色の着物から膝小僧を出して、宝は野原を走り回っていた。凱に勝つために駆けっこの特訓中なのだ。そうだ、駆けっこの練習だった。忘れて虫を追いかけていた。
「宝!」
 声を掛けられた。青毛の馬に跨った綺麗な顔をした、宝より五歳くらい上の少年だ。
(誰だろう?)
 つい首を傾げてしまい、
「……覚えていないのか」
 彼はがっくりと肩を落とした。
「烙綾だよ。酒注いでくれただろう」
「あ」
 そういえば見覚えがある気がする。
「あの時の優しいお兄ちゃん」
 両親の主家の人なので、深々とお辞儀した。
「い、いや別に」
 やたら素直な言葉に、綾は顔を赤くした。

 綾は馬を降りて木に繋いだ。大人の乗る馬より少し若い馬だ。
「おいで」
 宝は興味津々で馬を見ていたが、手を取られ、近くの岩の上に一緒に腰掛けた。綾は手をつないだまま離さない。
「ぷにぷにだな」
 手を触っていた彼の手が、頬の方に移っていく。
「……本当に、可愛い……」
 とても小さい声で何か呟いている。
「くすぐったいです、……わか様?」
「その呼び方あまり好きじゃない。特に自分より小さい子に言われるのは。綾でいいよ」
「りょう様」
「呼び捨てでいいけど、まあいいか」


 それから綾と偶然会うことが重なった。毎回ちょうど宝が一人でいる時だった。
 とても優しい人で、たわいない遊びに付き合ってくれる。
 いつのまにか、彼と会うことを待ちわびるようになっていた。



 今日の収穫のぺんぺん草を手に、帰り道をぱたぱたと走る。
「かあ様だ」
 女性を追い抜こうとして、母だと気づいた。いつもならすぐに気がつくはずなのに、見過ごしてしまうところだった。
「……、宝……」
 そうか。母の動きが鈍くて、まるで別人のようなんだ。
「お帰りなさい。お仕事おつかれさま」
「ただいま」
 笑った顔も、力がない。二人で並んで歩くのに、時々遅れている。
 家の戸を開けて中に入ったとたん、後ろでどたっと音がした。振り向くと、母は倒れて苦しそうな呼吸をしていた。



 数日後、幼く丸い頬は、涙の跡に濡れていた。
 宝が泣けば涙を拭ってくれるはずの両親は、大きな箱の中に寝かされ、灰になった。
「こんな小さな子がいるのに、病は時を選んでくれないね……」
 流行り病は母と、看病のうちに自らも病に罹った父の命を奪った。
 隣の小父さん小母さんと、両親の同僚という人が忙しなく動いている。他にも訪ねてくる人がいたが、皆一様に悲しい顔をしている。宝はぼんやりと座って過ごしていた。

 だんだんと家に人の出入りが減った頃、
「坊や、親戚はいるか」
 長屋の主人が聞いてきた。よく分からない質問だったので、隣に座っている小父さんと小母さんの顔を見る。
「いや、いないと聞いたよ」
「その……、悪いけど、今後家賃を払っていけるかい。喪中はいてくれて構わないよ。だがそれ以上は……」
(お金……)
 膝に握った拳を見る。それで、何が浮かぶでもない。
「……まず烙家にもらえるものがないか聞こうか。あの二人のことだから、ちゃんと貯めていたはずだからね」
 小母さんがそう言った時、
「あの」
 戸口にいた綾が声を掛けた。
「……っ…」
 ぼんやりしていた宝が、勢いよく駆け寄って彼に抱きついた。
「……えっ……あ……」
 嗚咽と涙が、綾の喪服に吸い込まれる。強く抱きしめ返され、その腕の熱さにすがった。

 綾に付き添っていた家臣が、宝のこれからについて説明した。毎年少額だが烙家から年金をもらえるということで、隣の家で引き取ることも可能だろうとなりそうだったが、
「宝は烙家に住まわせます」
 泣き止んだ宝を膝に抱え、綾が言った。
「若様? そのようなお話は聞いておりませんぞ」
 家臣が驚いた表情で向き直る。
「今決めた。宝を見ろ。私といたがっている」
「犬猫を飼うのとはわけが違います」
「そんな軽々しく思っていない!」
 綾は腕の中の宝をさらに強く抱きしめた。
「宝が困っていたら……、私が一番に手を差し伸べたい。私の持っていて宝が持っていないものがあったら、分けてあげたい……」
 大人達は、綾に少年らしくない違和感を感じた。
「宝の全ては、私の手で導いてあげたい……」
 宝はどういう意味かよく分からず、綾の顔を不思議そうに見つめた。ただ綾が体を撫でてくるのは、とても心地良かった。



 物置きになっていた小部屋を綺麗にして、烙家での新しい部屋が整った。
 綾は自分が面倒を見ると言ったのだから、自分の部屋に住まわせたかった。だが片付ければ場所はあるのだからと、周りが用意した。
 他にも、
「お勉強ですか」
「ああ、通りを二つ離れたところに先生がいらっしゃるから、通いなさい」
 教育が与えられ、掃除や草抜きなど簡単な仕事も教えられる。
「真面目にやっていれば、大きくなったら烙家に雇ってもらえるよ」
 悲しみはまだ癒えないが、生活だけは親を失った子にしては順風にいっていた。

「りょう様」
 声を掛けると、
「宝、こっちだよ」
 答えてくれる人がいる。
 悲しみも、だんだんと癒えていった。

 年月と綾の存在が、宝に平穏を与えた。



 夜は静かな時間である。綾の部屋は夜でも灯りで充分に照らされ、宝は彼の膝に座って塾で書き取った詩を見返していた。この数年で大分字が上手くなった。
「ここはなんと読むのですか」
 紙面を指差して、綾を振り返って見上げる。
「後宮の佳麗三千人、三千の寵愛一身に在り」
 綾がゆったりとした口調で吟じる。風呂上がりの香りのする宝の肌を撫でた。
「こんな歌、塾で習うのか?」
「いいえ、官吏試験の学舎で流行りなのです」
 子供の塾に併設して、官吏になるための試験用に大人が通う塾がある。子供のほうでも年齢にばらつきがある。艶っぽいことに興味を持つ子が仕入れてきて、宝の耳に入ったのだろう。
「難しくってよく分からないです。綾様には分かりますか」
「ああ……」
 綾はそう言って、宝を抱き寄せる。
「綾様?」
 宝の首筋に綾が顔を埋めている。唇の感触が、少しずつ這っていく。
「んっ」
 ちくっと、肌に小さな痛みが走った。
「よく分かるよ……」
 綾が顔を上げる。蝋燭の揺らめく灯りが、その目に映り込んでいる。その瞳に映る宝が、まるで魔物のように揺らめいていた。
「……でも、宝はまだ分からなくていいよ」
 にこっと笑った顔は、いつもの綾だった。



 庭のよもぎを摘んでまわる。厨房の人が使用人達によもぎ餅を作ってくれるというのだ。
(あんこ、あんこ)
 籠を持って熱心に探す。下を向いてひたすら歩いていると、
 ずぼっ
 低い位置にある木の枝に、突っ込んでしまった。針葉がいくつも服について、ちくちくする。
「何をしているんだ」
 間抜けなところを人に見られてしまった。当主の仕事を手伝っている、偉い人だ。
「よもぎ取りです」
 彼は何をしているのだろうと、じっと見る。
「私は少し休憩していたんだ。天気がいいからね。それで、どこか切ったりしなかったか」
 心配してくれた。あまり話したことがないけど、優しい人なのかもしれない。
「痛くはないけど、ちくちくします」
「葉が服の中に入ったな」
 服を引っ張ってばさばさと振ってみる。
「どうだ」
「うーん……、まだ取れません」
「なら脱いでみなさい。裏返して取ろう」
「はい」
 帯を取って、上の服を脱いだ。
「ああ、取れそうだ。少し待……」
 彼の視線が、宝の首元で止まった。赤い小さな痕の上で。
 宝が首を傾げて、その痕が彼の焦点からはずれる。間を置いて、途切れた言葉を続けた。
「少し待っていなさい。今取るから」
 ただ葉を取るだけにしては、彼は考え込んでいるようだった。



 漆塗りの扉に向かい、礼を取る。
「宝でございます。お呼びでしょうか」
 渋い男の声に入るよう促され、細工の入った取っ手に、初めて手をかける。
 呼び出した本人の烙家当主、綾の父が腰掛けに座っていた。そしてそれに向かい合う位置に、綾がいた。
「こちらへ」
 少し進んで、二人の間の机の前で立ち止まる。当主は少しばかり宝に体を向けて座りなおした。
「曹の息子か。幼いながら真面目な働きぶりと聞いている」
「も、勿体無いお言葉です」
 いきなり当主に呼ばれ緊張していたのだが、くれたのは褒め言葉だった。
「しっかりしている。そろそろ一人で暮らせるだろう」
「……え」
 背筋に、冷たさが差し込む。
「もう養われ子ではなく、外に家を持って暮らすがいい」
 宝は目を見開いた。
「ああ、仕事はこれからも我が門でしてもらう。それと年金があれば、父母の遺産を崩さずとも暮らせるだろう。もしよければ、昔住んでいた家を開けてもらおうか」
「……あ、ありが……」
 お礼を言おうとして、言葉が続かない。
(この屋敷を離れる……)
「……あ……」
 当主の言葉だ。宝はすぐに頷かなければならない。だが……、
 目で、綾にすがった。
(ここを出たら、仕事の間しか綾様と……)

 綾は、宝から目を逸らしてうつむき、黙っていた。
 その拳は震えるほど強く握られていたが、宝はただ綾の顔を一心に見ていたため、それには気づかなかった。
「綾、顔を上げなさい」
 当主の口調は、宝に対するものよりも厳しい。
「お前のやることが下で働く者に影響を与えるということを、肝に銘じておきなさい」
「……っ!」
 顔を上げた綾は、宝が初めて見る険しい表情だった。穏やかな彼が、当主を睨み付けた。
「宝はッ」
「これ以上言うなら仕事も他にやるぞ!」
 二人の怒鳴り声に、宝はびくっと身をすくませた。綾は怯えた宝を見て、またうつむき、悔しげに唇を噛む。
 当主が手を叩くと、家臣が部屋に入ってくる。数日前、服に入った葉を取ってくれた人だ。
「もう特別扱いはするな。一人の使用人として接しなさい」
 彼に肩を押され、宝は部屋を出された。
「…………」
 綾の声に呼ばれた気がして振り返った。その目の前で、戸が閉められた。

 側近の方はとても親切で、その分、速やかに引っ越しが行われた。



 それから、
(綾様!)
 廊下で掃除をしていると、綾が通りかかる。宝はすぐさま頭を下げた。
「…………」
(え……)
 綾は何の言葉もなく、ただ横を通り過ぎていった。


 庭仕事をしながら、遠くの回廊を歩く綾を眺める。
 いつだったか……、ここから大きな声で綾を呼び、彼が笑って袖を振ってくれたことがあった。だが今は、
「りょう、さま……」
 消えるような小さな声に、綾は気づいてくれるわけもない。

 今までがまるで幻だったかのように、二人の間には何もなくなった。

 一人前と認められたのだ。それと同時に、彼の特別じゃない、大勢の中の一人になったんだ。
 彼の目に映らない。……胸が痛い。

 この苦しさが何なのか、やがて知った。
『宝はまだ分からなくていいよ』
 漏れ聞こえる大人の詩の意味を、理解できるようになっていた。
 恋という言葉を知った。


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