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 月夜 2






(おかしい……)
 崇信は首を捻っていた。月夜に彼を抱いた日から、もう何日も経ったが、一向に彼を見かけない。いままで小姓のうち誰が供をしているかなど、気にもしなかった崇信だが、最近は気をつけている。それでも見つからないのだ。
「月夜の幽霊だったのではないよな」
 誰かに訊こうとも思ったが、色に惚けたことなど一度もない崇信が、念者を探しているのを知ったら、家臣が不安になるかもしれない。もう少し己で探してみようと思った。


 そのころ彦十郎は、城下から半日ほど歩いた村に来ていた。普請役の中でも、彦十郎は郊外の治水や土木を担当したため、城下を歩くことは少ない。
(その方がよい)
 崇信の姿を見ることは、今の己には辛い。少しでも目に入らないところに……。
 胸が軋むように痛んだ。
「……く…」
 なぜあの日、ほしいままに主の前で乱れてしまったのだろう。しかも途中で気絶するような真似して。
 道に突き出た石につまずき、よろめいた。戦のために鍛えている彦十郎は道につまずくことなどありえなかったのだが、自分の集中を逸らす、崇信への想いの大きさに、茫然とした。
 主への恋などばかのすることだ。主の「近くへ」との言葉がなければ、側によることもできない距離の自分が……。


 崇信に愛された翌朝、能戸から普請役に移れと命令され、崇信の不興を買い遠ざけられたと思い、彦十郎は心が凍った。それから能戸にどんな応対をして席を立ったのか覚えていない。
 居候させてもらっている叔父の屋敷に帰り、自分の部屋で、唇を噛んで声を出さないように、泣いた。
 夜になって布団に入ると、主の体の熱が思い出されて、いられなくなった。木刀を掴んで庭に出ると、寝間着が汗だくになるまで素振りをして、井戸端でざっと頭から水をかぶって、また床に就く。


「彦十郎の様子が変なんだ」
 何人かの岡川家の将が集まって酒盛りをしていた。ちょうど能戸の隣に座った康一郎はそう言った。
「毎日眠れないのか、夜中になって起きて剣を振るっている」
「父親が亡くなってそう経っていないし、そこから環境も変われば大変なのでしょうよ。眠れないこともある。体調だけは崩さないよう貴方が注意してやるといい」
「それにしたって……。普請役に移る前まではそんなことなかったんだがな」
「それでは……」
 能戸は原因を考えた。
「普請役の同僚と上手くやれてないのかもしれないな。さりげなく様子を見てきますよ」
「頼みます」

 だが能戸が覗きにいくと、彦十郎は普請役の同僚と談笑していた。部屋の戸の外にこそこそ隠れて、ちょうど部屋に入ろうとした彦十郎の上司の袖を引く。
「一枝彦十郎の様子はどうだい」
「? 文句なしに頭がよく働き者ですね。一枝家の方だと聞いて、私達普請役どもはどんな豪傑が来るのかと緊張していたのですが、穏やかな人柄でほっとしました」
「“豪傑”でなくて乱暴者かと怯えていたんだろう」
 能戸が意地悪く笑うと、上司は苦笑した。上司は能戸と同じ年の頃だ。康一郎と彦十郎の父が、いまこそ落ち着いたとはいえ、若い頃どれだけ暴れまわったか見知っているのだろう。
(ここには原因は無さそうだな)


 庭の松にとまって鳴く鳥を横目に、能戸は主の書斎へ入った。普請役から渡された、領内の川の治水計画図を渡して、現在の段階の計画を説明した。
「前見たときと書き方が変わったな。見やすくなった。……。うむ、これでよい」
 崇信が呟いた言葉に能戸は内心喜んだ。図の制作は彦十郎が担当したと彼の上司は言っていた。
「それでは」
「待て」
 話は終わったと思ったが、引き止められる。
「なあ、能戸、物の怪というものは、いると思うか」
「………………。存じません」
 彦十郎だけでなく、ここにも、様子が変な人が一人いる。能戸は面倒そうに彼の前に座った。
「如何なさったのです」
 崇信はバツが悪そうに視線をずらしながら話す。

「……というわけで、八日前の月夜に寝所に招き入れて、それ以来見つからんのだよ」
「同衾する相手が誰かぐらい確認してください。岡川家の当主でしょう。害意を持つ者が家臣にいないとも限らないのですから」
「あんな純な者が、人の命を狙えるものか。恥ずかしげに震える様子は、千津より可愛かった……」
「あっ貴方が千津様よりも可愛いと思った!?」
 それは確かに物の怪の類かもしれない。崇信の妹の可愛がりようは大変なものだ。妹を嫁にやるのに相当ごねて、仕方なく家臣と千津とで組んで、半分かどわかしの如く婿の元へやったのが記憶に新しい。それに数日前に千津の見舞いから帰ってきたばかりだ。実はつわりが酷かっただけだと、千津が能戸にこっそり手紙をよこしている。千津も困っているみたいだ。
「ああ。涙目で俺を見上げてな、項にかかる髪も綺麗に整えられていて……」
 表情の変化に乏しい崇信が、恍惚としている。何年も付き合っている能戸には空気で分かる。
「よく鍛えているのだろうな。引き締まった胸と腹に、脚はすらりとして」
「ん? ちょっと待ってください。それは男なのですか」
「小姓だ。その日私の寝所の側に控えておった」
「小姓ならすぐに誰か分かるのでは」
「調べたがいないのだ。まさか辞めてはおるまいな」
「最近小姓をやめた者というと一枝彦十郎がおりますが」
「其奴ではない」
 彼は小柄ではなかったが、自分よりも背が低く、すっきりとした体型だった。一枝の大男一族ではない。
 どうでもよさそうだった能戸が、難しげな顔をしている。
「間者が忍び込んだという可能性もありますね……」
「それはない。彼奴は私を『慕っている』と言った顔には真があった」
「間者ならばそれは演技だということです」
「だからそれはない。もう一度聞かせてやろうか? 私が抱いてやって彼奴がどれだけ縋ってきたか」
「いえ、いえいえ、とんでもない!」
 またうっとりとした顔を緩ませた崇信の思考を、大声で止める。
「とにかく、其奴を見つけるまで、私はぐっすり眠れぬ。溜まってしまって……、おっと、……間者が領内の、しかも私の寝所にまで入り込んでいるなど、枕を高くして眠れぬだろう」
(間者ではない、と言い切ったではありませぬか)
「分かりました。気にかけておきます」
 確かに間者であったら大事だ。
 しかし、康一郎からの頼み事に加えて、月の夜の物の怪のことも調べなくてはいけないとは。彦十郎のことは能戸も気になるからいいとして、崇信の色惚けた命には。能戸は溜息をついてしまった。

 崇信の書斎を出た時、能戸は向こうの廊下の端に彦十郎の姿を見つけた。
「彦十郎、ちょっといいか」
 能戸が手招きする。彦十郎はそこが崇信の書斎だと知っているため、内心怯えた。
「能戸、冷えるから襖を閉めてくれるか」
 近づこうとすると崇信の声がかすかに聞こえた。
「はい。失礼」
 彦十郎がこちらに来る前に襖は閉まる。彦十郎はほっとしつつ、
(私と顔を合わせたくないのだろうか)
 と胸が痛んだ。
 並んでその場を後にしつつ、能戸が耳打ちした。
「お前が書いたこの図、殿が見やすいといっていらしたぞ」
 能戸は可愛い孫を褒められたように目を細める。だが彦十郎は泣きそうな顔をした。
「……どうした」
「いえ、何……でも。お役に立てて嬉しい……です」
(確かにどうもおかしい)
 能戸は頭を掻いた。
「叔父上が言っていた。最近眠れぬそうだな」
「そんなことは……」
 彦十郎は顔を伏せる。ぽんと、その肩を叩いた。
「若いとはいえ無理はいかぬぞ。……なあ、彦十郎殿。子を亡くした私にとって、お前は本当に大切なんだ。お前が一人で何も言わず塞いでいくのをみるのは、辛いのだよ」
 彦十郎ははっとして、能戸の悲しげな眼を見た。そしてまた唇を噛んで視線を逸らす。
「言えません。私は……、……とても不忠なことを考えているのですから……」
 能戸はその言葉に内心戸惑ったが、理由を聞くために慈顔を崩さなかった。
「どんなことでも聞いてやりたいと思っている」
 彦十郎は堪らず、涙をこぼした。
「あ、申し訳ありません―」
 掌でそれを拭く。能戸も慌てて、すぐ廊下を曲がった先にある自分の与えられた部屋に通した。

 懐紙で涙を拭いてやる。
(彦十郎殿の小さい頃みたいだ)
 だが泣いた理由はあの時のように分かりやすいものではない。
「申し訳ありませんでした……。能戸様のお陰で殿の小姓になれましたのに……、私は、殿の不興を買ってしまいました」
「? そんなこと殿からは聞いておらんが」
「きっと……私のことを口に出すのも嫌ったのでしょう。精一杯、身も心も捧げたつもりでおりましたのに、殿には迷惑だったのです」
「身を捧げた?」
 能戸は(こちらに来てからまだ戦働きの無い彦十郎が、そのようなこというのは変だな)と思い何の気無しに言ったことだが、彦十郎は急に目元を赤くして、襟をギュッと隠すように握った。その反応に艶を感じて、能戸は、
(そちらの“身”か)
 と顔をしかめた。
「殿とは、その、したのか」
「…………はい」
(あの小童っ……! 月夜の物の怪だけでなく、彦十郎にまで手を出したと)
『最近小姓をやめた者というと一枝彦十郎がおりますが』
『其奴ではない』
 涼しい顔で答えておいて……、誠実な方だと思っていたのに。能戸の穏やかな皺が、怒りに深くなった。その顔を見て、彦十郎が怯えるように竦みあがる。
「あ、すまない」
 優しく彼の頭を撫でるが、固くなった表情は直せない。
「それで、……、殿の閨房の相手をしているのか」
「いえ……、一夜限りのことです」
 答えるのも辛そうだ。彦十郎は真面目な性格のため、どんなに恥ずかしく悲しいことでも、岡川の重臣の能戸の問いには答えざるをえない。
 忠実な彦十郎の態度が、能戸に胸が苦しくなるほどの同情心を起こす。能戸は崇信が今想っている相手がいるのを知ってしまっているのだから、なおさらだ。
 きっと崇信は彦十郎を月夜の物の怪の代わりにしたのだ。崇信の心は彦十郎にないのだろう。崇信の勝手に傷ついた彦十郎の為に何かしてやりたいが、主の行為に多少の苦言は言えても、糾弾することはできない。
「忘れてしまえ、彦十郎。辛かったろう。望まぬ行為というのは」
「いいえ……」
 その時は辛くはなかった。それどころか、
「嬉しかったのです」
 濡れた目を伏せて言った彦十郎に、能戸は驚いた。
「殿は、憧れの方でしたから……、ずっと、幼い頃より……」
 込み上げてくる涙が喉を焼いて、声を出すのを苦しくする。
「もうよい。何も言うな」


「殿、私に隠し事はありませんか」
「……。家臣に何もかも言う主君はいないだろう」
 能戸の低い声に、崇信は見向きもせず、文書を広げ見ながら答える。もっともだが、彼の平然とした顔に能戸は苛立った。
「……貴方が傷つけた者が、泣いているのを見ました」
「? 誰だ」
「一枝の彦十郎ですよ」
「……、? 私が何故傷つけることがある」
 少し考えてみたが、崇信は全く心当たりが無く、首を傾げている。能戸は床を音をたてて踏んで、立ち上がった。
「謝ってください、とは言いませんが、少しは反省してください。一枝家は岡川家にとって大事な家臣でしょう」
 そう言って出て行ってしまった。崇信は茫然として、何のことか訊くことができなかった。
(一度も顔を合せていないのだぞ。いつ傷つけることができる。……。確か其奴は私の小姓になれて嬉しがっていたと能戸が言っていたな。それなのに会わなかったからか?)
 そこまで考えて崇信は嫌そうな顔をした。
(名家の息子の我が侭ではないか。単に間が合わなかっただけだ。私に何の非がある)
 だが一枝家は岡川家に名将を数多く出している家だ。機嫌を損ねるわけにはいくまい。


「と、殿? どうなさった」
 崇信はお忍びで康一郎の屋敷に来ていた。
「誰かと酒が飲みたくなってな。上がるぞ」
 彦十郎とかいう我が侭息子には会いたくないため、話の分かる康一郎の方に何かしら言っておく気だ。
 崇信を招き入れた康一郎は、戸外を確認する。
「供くらい連れていらっしゃれ」
「供なら連れている」
 崇信は腰に差した名刀の柄を叩いた。
「なら私が貴方に剣を向けて、勝てますか」
「ふふ、五分だろうな」
「全く……」
 康一郎は従僕に酒の用意をするように言った。
「あと彦十郎が帰ってきたら、顔を出すように言え」
「それには及ばん。私はお前と膝を突き合わせて飲みに来たんだ」
 崇信の断りの言葉に、康一郎は疑問に思ったが、何も言わなかった。
「彼はいつも遅いのか」
「仕事にまだ不慣れなものでして。それに、生真面目で細かいところまでやらなければ気が済まない性格ですから、自分で仕事を増やしてしまってね」
 崇信は少し意外そうな顔をした。
「まあ、若いうちはそのくらいでいいでしょう。殿、どうぞこちらです」
 座敷に通された。


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