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 切り裂いた爪 2






 煌々と焚かれる篝火。今日の件で警備が改められたようだ。
(これでは、あの子が来られない)
 エリオンは、食べ物をあげると約束した少年を心配した。もし忍び込もうとしたのをメザ兵に捕らわれたらどうしよう。
 エリオンは部屋を見回した。元の部屋が半地下で鉄格子がかかっていたのに比べ、この部屋は二階で、窓は開く。そこから身を乗り出すと、外には多くの警戒兵いる。ただ、高さがあるので、こちらは死角になっているかもしれない。
(この高さで移動できないだろうか)
 左の部屋の窓は同じ造りで、少し離れていて移れそうにない。右はジャックのいる部屋―。騒いで睡眠妨害でもしてやろうと思っていたが、今はあんな抜け目のない男と関わり合ってはまずい。
(では上は)
 いけそうだ。


―何だ)
 隣室の物音に気づき、寝台に横たわっていた影が動いた。上掛けが大きく盛り上がり、金の毛並みがスルっと這い出した。


 食料を布で背にくくりつけ、エリオンは屋根によじ登った。
「おっと……」
 風が強くて肌寒い。早く少年の元へ行かなくては。屋根の上は人もおらず、平らで見晴らしがきき歩きやすかった。
 西回廊の上に移動し、以前の部屋の辺りを見下ろした。ハデリ王のいない今は、つきっきりの見張りはいないようだ。離れた場所に巡回兵が見えるぐらいか。
(あの子は……あ!)
 茂みにあの子がいて、様子を窺っている。
 エリオンは服のボタンをちぎり取ると、少年に向かって投げた。少年が上を向く。
 あっ、と少年が驚いた顔をしたのを、エリオンは静かにするようポーズをとる。少年は黙った。ここに来るまでに警戒の強化を感じ取ったのだろう。だが、エリオンが何故こんなところから現れるのか、疑問のようだ。
 布で包んだ食料を、エリオンは背からはずし、少年の方に落とすよう構えた。少年も気づき、受け止める手を差し出す。放られた包みはバフッと少年の手に落ちた。
「ごめん。危ないから、もう来ないで」
 小さな声で、手振りを加えつつ伝える。少年は心配げに眉を寄せた。

 その時、エリオンは凄まじい力で引き寄せられた。
「うぁ!」
「ハデリ王! おい!」
 少年の叫び声。エリオンは屋根の上に背を叩きつけられた。
(見つかった)
 そう思って見た相手。

「な……、狼―」
 いや、少し違う。
 見たこともない美しい金の毛並みが、強風にはためいている。普通の狼より数倍大きい体が、エリオンを組み伏せている。
 獣の堂々とした風情に、エリオンの視線と意識は縛りつけられた。
「君は……?」

―まずかった)
 そう思い、獣は苦渋を押しとどめるように、小さく鳴き声を出した。
(なんと焦ったことか。身軽に動けるとはいえ、ハデリ王に、この姿を晒すとは)
 獣、いや、ジャックは、組み敷いた青年を見下ろし、
(どうしてやろうか……)
 と、妖しく瞳を光らせた。

 獣はエリオンを見下ろしたまま動かない。エリオンは動けないまま獣を見上げる。押し倒されたけど、傷つける気ではないのだろうか。
 だが獰猛な視線はエリオンを隅々まで這い、どこから食べるか品定めされているようだ。強い瞳に恐怖しつつ、エリオンは恐る恐る手を伸ばした。なだめるように毛並みを撫でる。
「君、どうしてこんなところに。ハデリ王が飼っていたのかな。王に置いていかれた?」
 エリオンの言葉に、獣の動きは止まった。

(王に置いていかれた、だと。―こいつはハデリ王では……!)

「綺麗な毛。見たことないや」
 毛を撫でられるままにしている獣に安心したのか。ハデリ王を演じている時の険のある口調でなく、優しげな声。言葉の通じない相手だと思って、エリオンは普段の自分になっていた。
「かっこいいね」
 ジャックを見つめながら、エリオンは微笑んだ。

(これが、本当の彼なのか……)
 暴虐と名高いハデリ王にはまるで見えない。穏やかそうな青年だ。嫌味でしかなかった整った顔立ちが、突然、目を引かれる魅力的なものになった。
 ハッと、ジャックは気づいた。彼の体に重くのしかかったままだ。ジャックが身を引くと、彼は上体を起こして、手を伸ばして、またジャックの頭に触れて撫でた。
「ありがとう」
 ほっとして、柔らかさを深めた彼の手の動きに、ジャックはざわつくようなくすぐったさを覚えた。いつもなら人に軽々しく触られるなど冗談ではないのだが、今回限りは、彼に身を寄せていった。

 どうやら獣はエリオンを信用したのか、大きな体をくっつけてきた。
「温かい」
 エリオンは嬉しそうな顔をする。獣はその表情を見つめ、毛並みで包んでくるように、傍に腰を落とした。高い体温と、柔らかい毛並みとその下の固い筋肉。抱かれることの気持ち良さなんて、初めて感じる。
「気持ちいい……」
 エリオンは甘えるように体をすり寄せる。するとペロッと頬を舐められて驚いた。
「ん……。あはは」

「いたぞ! あの少年の言ったとおりだ。ハデリ王を見つけた! 逃がすな」
 兵たちの声。二人は身を強張らせた。
(あの少年……。そうか、私が獣に襲われているように見えて、兵に告げたのか)
 自分の侵入行為を曝す覚悟で、エリオンの危険を。
 エリオンの顔からは既に、先ほどの甘い表情は消え去っている。毅然と立ち上がった。兵達は素早くエリオンを囲む。エリオンは逃亡しようとしていた訳ではないが、そう見られても仕方ないだろう。
「ね、君はどこかへお行きなさい。その大きい体なら、宮廷の外でも生きられるだろう。……会えて嬉しかったよ。楽しかった」
 エリオンは小声で獣に声をかける。優しげな青年の、少し寂しそうな声。

 メザ兵が獣に注目した。
「この獣……! 狼じゃない。……クーシー族だ」 
 エリオンは、驚愕した。
「獣人……、人に近い姿と獣に近い姿二つに変異するっていう」
「ああ、見たことある。あの姿、形、特に毛色。間違いない」
 兵達の会話にエリオンは震えた。
(獣じゃなかった。異形の民……。じゃあ私の言葉を理解していた? 私は―ハデリ王ではないと)

 ジャックにはすぐ横にいるエリオンの震えが伝わった。
(しまった)
 騙す形で、真実を聞いてしまったのだ。
 何者かは知らないが、ジャックはこの青年に好意を持った。青年の頬を舐めるなど、恥ずかしい親愛表現を無意識でやってしまうくらい。彼に嫌悪されるのは胸が痛む。
 それに、種族のことも。
「獣人! ハデリ王の逃亡に雇われたのか。こんな害悪にしかならない王を助けようなど、やはり獣は頭も良識も足りないな」
 ジャックの心が、チリッと火花をあげた。メザ軍に入ると決めた時、心の奥に封じこめたはずの、憎しみが甦ってくる。メザ兵―己の部下達に対して、それなのに、殺意が膨れ上がっていく。
「ハデリ王はどうにか怪我させずに捕獲しろ。クーシーは、―面倒だ。この場で殺してしまえ!」

 メザ兵が動く。ジャックは、頭では部下達との争いなどせず逃げなくてはと分かっているのに、激しい殺意が足をこの場に縫い付けていた。
 ジャックの方に斬りかかってきた兵。迎え討とうと、ジャックが足に力を込めた瞬間、
「!」
 エリオンが割って入った。兵は驚いて、ハデリ王を斬りつけるのを避けようとするが、その腕を傷つけてしまう。
「馬鹿な! 何故かばう」
「逃げて! 私は大丈夫だから。身軽そうな君ならこの高さでも降りられるよ」
 エリオンはジャックを後ろにかばい、メザ兵達と対峙した。
「言葉の通じる相手にその侮蔑した言い方……。それに彼は私の逃亡を助けにきたのではなく、たまたま会っただけだ。何の調べもしないで殺すなど!」
 エリオンの怒鳴り声にメザ兵は一瞬怯んだが、何を言うかと笑った。
「クーシー族はメザの法で友好異種族でない。つまり人に近い生物ではなく、獣だ。センユタムの法でもそうだろう」
「法がどう、ではない。なんであれ、侮蔑も殺すのもない。人であろうと獣であろうと、傷つくじゃないか!」
「ふん、あんたのしてきた暴虐に比べれば」
 ハデリ王の言葉は、メザ兵達には何も通じない。聞き流された。

 だが彼が違うと知っているジャックには、伝わった。
 胸を渦巻いていた黒い感情が途切れ、判断力が戻ってきた。
「君、本当に逃げて。私はこの場は平気だから」
 エリオンの再度の言葉。
(この姿では何もできない。ハデリ王の身体の安全は今の期間、保証されている。彼のことをどうにかするのは、人間に戻ってからでいい)
 ジャックは退いた。エリオンの腕の怪我を横目に、
(……早く戻って、まずは手当だ)
 と心を締め付けられながら。
 エリオンは、金の毛色の獣が軽々と宮廷の屋根を飛び降りるのに、目を奪われていた。


「大丈夫か!」
 エリオンが兵に連れられ部屋に戻ると、ジャックがすぐに駆け込んできた。そして後ろの男に焦ったような早口で指示を出す。
「すぐに治療してくれ」
 後ろの男は医者らしい。ジャックはエリオンの肩をそっと掴んだ。
―触るな」
「え?」
 エリオンの冷たい声に、ジャックは一瞬意外そうな顔をした。
「あ、そうか。……」
 ジャックは暗い表情に変わる。そして何も言わず、エリオンの服をグッと握り引き千切った。怪我した腕を晒す。

 医者が診ている間、ジャックはずっと真剣な目で付き添っていた。処置が問題なく終わると、ほっとした表情を見せた。
(ハデリ王に怪我をさせたことを気にしているのか? 逃亡した相手を捕まえようとしてできた怪我だ。責はないと思うが)
「処置はしたが、また痛むことがあったら、扉の外にいる兵か、隣に私がいたら呼びつけてくれ」
 ジャックの憂いが混じった声。
(この程度の怪我で死ぬわけでもなし。どういうつもりだ)
 エリオンはジャックの方を向いた。彼と目が合う。
「……っ」
 ジャックは熱のこもった目で、まっすぐにエリオンを見つめ返した。
 見つめ合ったままジャックが、
「……おやすみ。ゆっくり休んでください」
 といたわるように言って、部屋を出ていった。


 エリオン一人きりになった部屋。
「何なんだ……」
 エリオンはその場にへたり込んだ。
「あいつの目……、いやだ」
 いつも、視線だけでエリオンを喰らいつくせそうなほど攻撃的だ。それだけでもかなり気を張って撥ね退けているのに。あんな見透かすような、包み込むような……、心の奥まで入ってきそうな……。
 心臓の鼓動が激しい。怪我で血を出したせいだろうか。

 ジャックの前で、ハデリ王の仮面が取れたことに気付かず。仇の支配する宮廷に一人、エリオンは必死でジャックの想念を振り払おうとしていた。


 ジャックは簡素なテラスに出て、隣の部屋の窓を見ていた。
 そこにいる、名も知らぬ青年は、もう眠ったのだろうか。彼のことを考えると、張っていた心が、ふっと解放されるような、心地よさを覚える。クーシー族であろうと関係なく、体を張ってかばいに入った彼を見て、彼へのほのかな好意は深く大きく、熱くなった。
 先ほど医者を連れて彼の部屋に走り込んだ時は、ハデリ王を演じている彼と、人間の姿の自分では険悪な関係であることも忘れていて、彼に拒否するような態度を取られて、傷ついてしまった。
「もしかしたら、この想いは……」
 青年の顔を思い出すと、幸福な気分になる。

 ところで、
(彼がハデリ王でないなら、本物のハデリ王は今も逃亡中ということだ。王の追捕と、青年の解放をしなければならない)
 すでに王が偽物の可能性を考慮しての探査は指示を出した。だが大人数はまだ割けない。
(偽物と確信しているのが、青年の口から直接聞いた、クーシー姿の私しかいない。何か他の証言、証拠が必要だ)
 クーシー族であると、誰にも知られてはいけない。

 ジャックがクーシー族であることは誰も知らない。知っていた同郷の同族は全て滅びた。非友好異種族ゆえ、金の毛皮を求める者達の欲するままに狩られたのだ。友好異種族という人間の国の法に定められたステータスがないばかりに。友好異種族なら、彼らに対する狩りは、治安を乱す暴力と判断され、軍兵を動かして処罰できる。
 異郷のクーシー族、他の獣人系の種族。彼らを守るためには、人間として高い地位を手に入れ、法を変える必要がある。
「知られるわけには……」
 だが、あの青年になら、という思いもある。
(今はまだ、彼がどういう事情でハデリ王を演じることになったのかも知らない。彼のことを知らなくては)
 人の姿だけでなく、獣の姿でも、話を聞きに会いに行くことが必要だろう。


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