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 逃避行






 カナーがトネロワスン帝国皇帝の座を継いだ直後のこと。
 ある山中、木漏れ日の緑の光が溢れる森の中を歩く旅人が二人。
 国境を目指していた。


「バシェルア、休憩するか?」
「殿下がお疲れなら」
 先を歩く男が振り返った。その顔や腕には、大きな灰色の痣がある。
「私は平気だが、お前はまだ体の調子が……」
「私は問題ありません。では進みましょう」
 抑揚の無い声でそういうと、くるりと背を向けて、また先に行ってしまう。

(冷たくなった)
 元皇太子は俯く。
(バシェルアが……)
 バシェルアはどんな時でも温かかった。


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 彼と出会ったのは十年程前。護衛の一人、というだけだった。
 その頃自分は大帝国の正嗣の座にいたが、それに見合うほど立派な人間ではなかった。カナーへの劣等感でひねくれた心は、人の好意や親切を疑うことしかできない。
 いつも誰かと笑顔でいるバシェルアが、……羨ましくて、気づかれないよう眺めていた。彼の笑顔を何年も見ているうち、ろくに話したこともないのに、彼を信頼していた。


 ある晴れた日、とても気分が良かった。日が差し込む窓辺で読書をしていて、バシェルアが一人、控えていた。
 自然と言葉が出ていた。
「いつも側にいてくれてありがとう。バシェルアのこと、大好きだ」
 もしよかったら……友達になってくれないか、と続けようとした。

 そのとき、バシェルアに強く抱きしめられた。
 いつも自分を大事にしてくれる彼に、痛くなるくらいきつく抱かれた。ただただ驚いてしまった。
「好きです、殿下……。私も貴方のことが好きで、……。好きです」
 耳のすぐそばから入ってきた言葉が、全身を潤すように沁みわたった。
「そうか。嬉しい! じゃあ今日から友達だな」
「はい、……て、え? 友……」
 好き同士なのだから友達ではないか。バシェルアは何故か戸惑っていた。だが彼の戸惑いに気付かないくらい、皇太子は幸せで一杯で、
「バシェルア。大好きだ」
 と笑顔で言った。その笑顔を見て、バシェルアは、小さく息を吐いた後、
「大好きですよ。殿下」
 と、少し頬の緩んだ顔で答えた。


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「……怒っているのか?」
 山中に二人きり。鳥の声も聞こえるが、目に見えるのは、ただ先を進むバシェルア。
「そうだよな。お前はアネスと仲がいいのだから、新政権下、出世できたかもしれないのに、私なんかに味方させて」
「私は殿下以外に仕えるなどまっぴら御免です。考えたくもありません」
 相変わらずこちらを見ないで言う。
(どういう意味だ?)
 と首をひねっているうちに、距離ができてしまったので慌てて追いかけた。
「私の生命など顧みなくて良かった」
 皇太子はドキッとした。
「私のせいで、殿下の願いが叶わなかったのが悔しくてならないのです」
「馬鹿を言うな!」
 後ろを歩いていた皇太子は、ずんずんと進んで、バシェルアを追い越した。彼を振り返りもせず、先に行く。バシェルアは戸惑う。
「殿下……どうしたのです」
「私はっ、お前を失うかもしれないと思って震え上がったっ」
 坂道を大股で掛け歩いて行く。
「その時初めて、自分の馬鹿に気づいた。私を見てもくれなかった父と、それを利用した弟への意地のために……、私は、ずっと私のそばで、見守り続けてくれた者を失おうとしていたのだ」
 急ぎ過ぎたのか、ぜいぜいと息が切れて、最後の方は語気が弱かった。
 キッと振り返りバシェルアを見つめる。
「お前は私にとって無二の者なんだ! お前が私を大事に思ってくれるように、バシェルア、お前自身のことも考えてくれ」
「殿下……」
 バシェルアは皇太子の手を取った。ゆっくりと頭を下げ、皇太子の手の甲に唇を寄せる。
「分かりました」
 皇太子はほっとした顔をした。
「ただ、一つお願いがあります」
「なんだ」
 バシェルアが話してくれるようになって、機嫌が良くなった皇太子は明るい声で訊き返した。
「殿下も、私にとって無二の方なんです。ご自分を卑下するのはやめてくれませんか」
 ハッとする。
「たとえ、幾人の者がカナー様を評価しようと、私の中で一番は常に貴方です。何があっても、変わらず……」



 広い道に出て、二人は並んで歩いた。木々の中に、ようやく建物が見えた。
「関所だな。殿下とは呼ばずに名前で呼ぶように」
「分かっています」
 その言葉に続けて、バシェルアは大切そうに皇太子の名前を呼んだ。
「よし、それでいい。必ずキシトラーム王国にたどり着くぞ」
「はい。二人で、どんなことがあっても生きましょう」

 国境は、後少しだ。

〈終〉


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