角と秘薬 後日譚 1
木々の葉は落ち、枝がむき出しになった森を風が吹き抜ける。
収穫期が終わり畑を離れて都に出稼ぎに来た農夫や、温暖な町に旅行に行く豪商の馬車など、都の郊外の関所には様々な人が行き来する。
その中に、ブカブカの帽子を直し直し市内へ向かう小柄な男がいた。ボロボロの衣服はいかにも遠くから旅をしてきた様子である。きょろきょろと辺りを見回しては手元の地図と見比べている。道が分からないのが丸分かりだったので、傍で見ていた露店の女性が声をかけて道を教えてやる。旅人は何度も礼を言って、雑踏に紛れるまでブカブカ帽子を揺らしながら手を振りながら去った。その姿に吹き出しそうになりながら女性は見送った。
ボロウェはアネスの屋敷の端に作らせてもらった薬草園で薬草を摘んでいた。冬に入る前にこれを乾燥させておくのだ。葉は全て収穫し、がらんとした畑で越冬する根の為に藁を敷き詰めた。収穫した薬草の土を払い、診療所の南側の屋根に紐を垂らし吊るす。一段落して、ボロウェは手を洗いに向かった。
水盤で洗った手を拭いた後、水盤の波紋が落ち着くのを見つめていた。ボロウェはそっと服の襟を広げ、水鏡を覗き込んだ。鎖骨の当たりに小さく口付けの痕がある。ボロウェは赤くなってサッと襟を戻し、作業に戻った。だがこらえきれない笑みがこぼれる。赤く色づいた痕は、ずっとアネスに触れられている気分にさせる。
ボロウェが診察に行く時に被っている冠もアネスが贈ったもので、ボロウェの瞳と髪の色に合わせて橙みのある皮で作られている。アネスがこれをボロウェの頭に乗せてくれたとき、角を隠す行為が嫌ではなくなった。
「ボロウェ様。よろしいでしょうか」
扉の外から使用人頭のミシェアの声がした。ボロウェが緩んだ頬を引き締め、招き入れた。最近は使用人の前で角を隠すのをやめた。
「屋敷の前の道で先程から怪しげな男が徘徊しているのですが、旦那様にお知らせした方がよろしいでしょうか」
「怪しげな……。一先ず私がその人を見てみます」
アネスは王宮か軍基地で仕事中だ。あまり手数をかけたくない。
玄関の側の窓からそっと門の方を見た。確かに高級住宅街には似つかわしくないボロボロの服の男が格子の門の間からこちらを覗いている。無精髭が見えることから成人男性と思われるが、ボロウェと同じくらい小柄だ。ブカブカの帽子のせいで顎くらいしかまともに見えないが、帽子を直している姿を見て、ボロウェはピンときて玄関から出ていった。
「当屋敷に何か御用ですか」
「その角、ボロウェさん? 俺、エトラのクントです」
「ああ、村長のところの八男の」
クントは医者の卵でもある。知り合いの医者の弟子で、顔は覚えておらず二、三度言葉を交わしたことがあるだけだ。
「はい。手紙に書いてあった通りの住所に来たはずなんだけど、あんまり大きい家だったから、本当にここか心配になっちゃって」
エトラ村に対してボロウェは、都で人間の友人の世話になっているとしか伝えていなかった。
「俺、試験受けに来たんです。都で宮廷医師の募集をしてるんですよね。お役人が村にきて『有角の医者は是非受けろ』って言ってきて、村で相談して『一人受けてみて様子をみよう』ってことで俺が来たんです。
来たはいいんですけどね、王宮で試験あるの五日後なんですよ。お願いします、ボロウェさん! お金ないんです。泊めてください!」
「ここは私の家ではないから無理だ。宿に案内しよう。代金は私が払う」
「えっ、宿よりもこの豪勢なお屋敷がいい……」
ボロウェが睨みつけるとクントは畏縮した。
「あのせめて、アネスさんでしたっけ、この家のご主人。ご挨拶だけでもできないかなぁと」
ボロウェは少し考えたが、
「彼は仕事で忙しい。機会があったら紹介するが、必ず会えるとは思うな」
と断った。
冠を被ったボロウェはクントと連れ立って街中へ出た。宿への道すがら日用品や食料品の店を教える。すでに日暮れ時で酒飯店からいい匂いが漂ってくる。それにつられそうになるクントを引っぱって歩く。
この時期安価な宿は満杯で、宿探しは難航した。もう少し街道を下れば雑魚寝の宿があり、そこなら幾らでも客を入れると聞いたが、有角人のクントを一人で泊まらせるのは不安だ。大店の立ち並ぶ中央通りに出て、高級ホテルを探そうとした。
通りを騎乗した一団が通るのを見た。
「あ、彼がアネスだ」
クントに指し示した。少し声がはずんでしまう。アネスは一団の先頭で馬を歩かせていた。その姿は、今朝自分の頬に口付けして出かけていった時から少ししか経っていないのに、さらに格好良くなった気がする。ボロウェは知らずに頬を染めていた。
勘のいい人が見たらすぐにボロウェのアネスへの感情が分かるだろう。間が悪いことに、ボロウェの隣にいる有角人は勘がよかった。
中央広場を見下ろすホテルで、ようやく空室を見つけた。ロビーは重厚な装飾で天井まで飾られていた。クントは宿代の高さに目を回したが、ボロウェが平気で支払いを済ませるのを見ると、羨望の眼差しを向けた。部屋に荷物を降ろすなりボロウェに宣言する。
「俺、絶対試験受かります!」
「意気込むのはいいが、募集内容をしっかり聞いたか。宮廷医師だけではなく軍医者の募集も合わせて行われていただろう。恐らく宮廷医師の合格枠はほとんど無く、残りは軍医者のはずだ」
数か月前、帝国軍最高司令官のルガオロが最高祭祀官という名誉だけの職に移り、アネスが軍の指揮を執るようになっている。アネスが軍の人材の確保に四苦八苦しているのを近くで見ているボロウェには予測がついた。
「! 軍医者は給料が下がるんですか」
「給料の差はあまりないはずだが、仕事量が半端でない。命の危険も伴う」
「
――給料が良いなら文句はないです」
クントは目を見据えていった。その真剣な表情に、
(エトラはまだ楽観できる状況ではないのか)
とおもい知った。異形の民に官途が開けただけでも大変な進歩ではあるが。
ボロウェは屋敷で本を読んでいた。外から馬の足音が聞こえ、すぐに玄関に走っていく。ボロウェにひとつ遅れて使用人達も主人の帰宅に気づき迎えにいった。アネスは馬を繋いでから入ってきて、使用人は通いなのですぐに帰らせた。
玄関に二人きりになるとアネスはボロウェを抱きしめた。
「ただいま」
「お、おかえり」
アネスはボロウェのふわりとした髪に鼻を埋めて口付ける。ボロウェは気持ちよさそうにされるがままになり、アネスの首筋に唇をくすぐるように這わせる。
「今日は薬草園いたのか」
「うん、よくわかるな」
「匂いがする」
元々医者に薬草の知識は必須だが、園芸好きのカナーに感化されて少し凝るようになった。もちろんカナーは自身の手で土に触れたことなど生まれてこの方ないが。
「アネス、好き……」
脈絡も無くボロウェが言う。
「俺も」
アネスはボロウェの耳に口付けてそのまま「愛してる」と言った。ボロウェはむずむずしてきて、恥ずかしくて顔をアネスの胸に埋めて隠した。
恥ずかしがるくせに毎日アネスに好きと言っている。アネスと喋って構ってもらいたくて上手く話をしたいのだが、気を抜くとつい「好き」という言葉がでてきてしまうのだ。
帰宅の挨拶が終わると、寝室でアネスが室内着に着替えるのを手伝った。ランプの明かりの中で、マントを下ろすと逞しい肩と腕が晒される。エトラを出て王宮に連れてこられてから、都のそこここに設置されている人間の神々の像を見た。そのほとんどが逞しい男性の姿をしていた。人間は神にああいう姿を求めているのかと、変な民族だと思っていたが、今は鍛え上げられた体に憧れてしまう気持ちがわかる。アネスの体は芸術品だ。欠点と言えば頬の刺青くらいだが、それさえも色気に変えてしまっている。
「今日、中央通りでお前に似た人を見かけたが……」
「え、あ、ああ、田舎から知り合いが来て、宿探しを手伝っていた」
ボロウェはアネスの体に釘付けになっていた視線をはずし、衣服を畳んだ。
「それなら屋敷に泊めてくれて構わないのに」
「迷惑ではないか」
「いいよ。ここは二人の家なんだから」
「そう、か」
アネスはまたボロウェが赤くなってしまうようなことを言う。
「その人は何しに来たんだ」
「王宮で医師の募集をしているのを受けに来た」
「医者なのか」
「ああ、友人の弟子でクントという。しばらく勉強をみてやることにした。明日は実際に診療に連れていく」
「お前と一日一緒なのか。少し羨ましいな」
そう言ってアネスはボロウェの頬を撫でた。ボロウェは真っ赤になって顔をそむけながら言った。
「アネス……私が軍医者になったら嬉しいか」
アネスは驚いた顔をした。自分が嬉しいと言えば煌びやかな王宮医師の座を捨てて、泥と血に塗れた軍に入るつもりか。
「いや、やめてほしいな。正直勧められる環境ではないし。俺もお前も休暇が取りにくくなったら、いつゆっくり一緒にいられる」
ボロウェは少しがっかりした。アネスと一緒にいられる時間が増えるかと思ったが、そう甘くないみたいだ。
「ところでエトラからの受験者は、その一人だけなのか」
「そうだ。まだ、有角の人間に対する感情は良いものではないから、様子を見ているようだ」
エトラは有角の集まる村では比較的大きい。そこから一人のみということでは全体の数も多くないと思われる。軍の人材不足を好転させることはできないだろう。アネスの顔に落胆の色が見えた気がした。
「か、彼らも興味は持っているのだ。クントが合格して上手く都に馴染めれば、他の者も来るかもしれない」
クントは調子のいい男だが、この場合そのくらいの方が苦痛が少ないかもしれない。
ボロウェが励まそうとしてくれているのが伝わり、アネスはボロウェの頭を撫でた。ボロウェの柔らかい髪を撫でていると、心も解れていく。
「そうだな。何でも一朝一夕にいくわけでもないし、まずは今回の応募者を大事に育ててみるよ。ありがとな、ボロウェ」
「私が何かしたか」
「側にいて、話を聞いてくれた」
そう言ってボロウェの前髪をかきあげてそこに口づけをする。ボロウェは幸せの熱で浮かされそうになった。
「アネスの側にいること、好きだから。私にできることがあるなら、何だろうとする」
「何でも?」
アネスの腕の中でコクンと頷いた。
「……一緒に風呂に入りたい」
ボロウェは一瞬固まった。そしてすぐ部屋の隅まで逃げ出した。
「な! な……な、ふ、ろ」
こんなことを言われたのは初めてだ。ベッドの陰に隠れて赤くなったり青くなったりしているボロウェにアネスは近づく。
「ボロウェ、俺が着替える時いつもジッと見つめているな」
気付かれていた。ボロウェはゆでダコのように真っ赤になった。
「俺だってボロウェの体、明るいところで見たい」
アネスはボロウェの腰に手をまわした。ボロウェはベッドの脚にしがみつき必死で抵抗する。
「わ、私は! アネスのように綺麗な体ではない。見せることなどできない!」
「綺麗だよ」
耳元で優しく囁く。
「お前を抱いている時の、月の薄明かりで照らされた姿しか見たことはないが、こんなに綺麗なもの他にないって思う。俺だけが見ていい芸術品だ」
「!」
恥ずかしいぐらいの愛の言葉に、ボロウェのベッドにしがみつく力が抜けた。その瞬間アネスの肩に担ぎあげられた。
「やめろ、無理! 駄目だ!」
ボロウェが暴れるのを気にも留めずに、アネスは廊下に出た。
「何故こんな……、いままでそのようなことしたいなど一度も……」
「今日は、疲れているせいか理性が足りないのかもしれない。ボロウェの言葉も可愛かったし、それに……」
「それに?」
「何でもない。
――今晩は楽しませてもらうぞ、ボロウェ」
アネスが目を離した隙を狙って逃げ出そうと思っていた。だが大好きなアネスの体を洗わせてくれるという御馳走を提示されて、逃げる機会を逸した。洗っている間ボロウェは短衣を着たままでいいと言われたのも影響した。ランプの明かりの下、濡れたアネスの裸体に触れたり、暗闇ではよく見ることができない彼の黒い陰毛を直視したりして、ボロウェはのぼせあがっていた。
この後、湿気と汗でボロウェの体に張り付いた短衣を剥がされ、散々恥ずかしいことをされるのを簡単に予想できそうなものに、その時のボロウェの頭からは完全に抜け落ちていた。
「ボロウェさん、終わりましたー」
今日はクントと共に患者の家を見て回っていた。意外とクントの処置は適確で素早かった。彼の師匠がのんびりした人なのであまり期待はしていなかったが、クントが言うには「逆にしっかりしてしまった」らしい。
カナーと会う約束も今日だった。さすがに今日から数日だけの助手を皇帝の前に連れていくことはできないので、その時間は知り合いの診療所に預けて手伝いをさせた。そこでもクントはよくやっていたらしく礼を言われた。
(これは鍛え方によっては、軍の医療団の即戦力になるかもしれない)
アネスのために、クントにスパルタ教育が施すことが決定した。
「今夜、あのお屋敷に泊めてもらえるんですよね。昨日のホテルも良かったけど、あー、楽しみだ! アネスさんっていい人ですね」
アネスが宿泊する許可をくれたと話すと、クントは喜んで受けた。アネスを褒められてボロウェは少し照れて俯いた。
「あ」
「何だ」
「いーえ、何でもありません。今日の夕飯何かなー」
ボロウェが下を向いたとき、首筋に口づけの跡があるのをクントは見過ごさなかった。
(肉体関係有りか)
これは是非アネスという人に会わなくてはならないと感じた。
(今日知り合いと会うことは分かってただろうに、こんな目立つ所に痕をつけるなんて……、わざとかな)
クント。
エトラ村村長の末っ子に生まれる。甘やかされそうな環境の中、長兄がしっかり指導をしていたので頭の冴えた子に育つ。エトラ村の診療所の一つで修行していたが、村と、いずれ村長になる長兄のために帝都に行くことを決意する。
クントには都で医師として働くことの他に頼まれていたことがあった。それはボロウェの様子を確かめてくること。人間嫌いだったボロウェが、解放された後も自らの意思で都に留まっていることが信じられなかった。村のために無理をしているのではないか、そうならば説得して帰還させることがクントに与えられた使命だった。
屋敷に帰るとミシェアがクントのために風呂を焚いてくれた。アネスはまだ帰っていない。さっぱりしたクントは、今度は食堂に並べられたご馳走を見て涎を垂らしそうな勢いだ。次々におかわりする。ボロウェが小食なので有角人はあまり量を食べないと思い込んでいた使用人達はすぐに作り足しにいった。
「腹を壊すぞ。そんなに食べたことは無いだろう」
「今食べておかないと次いつ食べられるか分かったものじゃないし」
腹いっぱい食べると居間のソファに座ってその柔らかさを満喫していた。
「試験の勉強をしなくていいのか」
「えー、今日いっぱい仕事こなしたじゃないですか。もうお疲れですー」
真面目で研究熱心なボロウェにはクントの様子が理解できない。
「村の皆に支援されてきたのだろう。受かるために万全の準備をしなさい」
クントにトネロワスンの医学書を渡し、明日までに読んでおくようにいった。その本の分厚さにクントはげっそりとした。
「ミシェアさん、もう遅いから仕事を終えて帰って結構ですよ」
「いえ、旦那様にご帰宅なさるまで待つよう言われておりますので」
「ミシェアさんに何か用があるのでしょうか」
ボロウェの疑問にミシェアは微笑しただけだった。原因はクントが泊っていることにある。前々から誰であろうとボロウェと二人きりにしないようにいいつけられているのだ。
「ちょうど今帰ってきましたね」
ミシェアには何の物音も聞こえなかったが、ボロウェが玄関に向かったのでついていく。玄関に着いたと同時に扉が開きアネスが入ってきた。いつもながらボロウェの勘には驚かされる。有角人は皆こうなのだろうか。
アネスはミシェアに労いの言葉をかけるとすぐに帰してやった。用があったのではないかとボロウェは首を傾げた。
二人きりになるとただいまのキスをした。
「? 今日は機嫌がよくはないか」
「ああ、王宮に皇太子の消息の報告が入ったんだ。キシトラーム王国にいるらしく、バシェルアらしき男も傍にいたらしい」
「キシトラーム…随分遠いな」
大山脈の向こうだ。国力が高い国なので、帝国が一方的に皇太子を捕まえてくるよう命令することもできない。さすがにトネロワスン帝国皇帝のカナーでも手が出せないだろう。皇太子の方もそんなに遠くに行ってしまったからには、もう皇帝の座を狙う気はなさそうだ。
「今日は陛下の機嫌が悪かったが、そのせいか」
皇太子の息の根を止めたがっているカナーにはよほど悔しかったに違いない。ボロウェにとっては皇太子は一度面倒をみた患者で、バシェルアはアネスの親友だ。生きていてくれて嬉しい。
アネスはボロウェを優しく抱いた。そうすることで喜びを噛みしめているようで、ボロウェも幸せな気分になった。
居間のソファに蒼い顔をして横たわっている男がいた。具合が悪いのかと顔を覗き込むと、寝言で食べ物のことを呟いていたので大丈夫そうだった。
「客室に運ぶか」
「な、待て。私が運ぶ。迷惑掛けられない」
アネスがクントを抱き上げようとするのをボロウェが止めた。他の者がアネスの腕の中にいるのは許せない。
「お前の力じゃ無理だよ。俺にまかせておけばいいから」
アネスも同じで他の奴がボロウェに触るのも嫌だ。クントを挟んで言い合っているとくしゃみと共にクントが起きた。