目次へ



 うたたねは君のとなりで 16






 詩季が水を飲むのをタロウは見守る。
(靴、濡れてる)
 足場を選ばずまっすぐ走ってきたんだ。タロウと響が喧嘩しているように見えたから。
「ありがとう。もう大丈夫」
 詩季からコップを受け取り、水筒をバッグにしまう。
(どうしよう)
 逃げたい気持ちは落ち着いたが、何を言えばいいか分からないでいると、
「手、繋いでいい?」
 詩季から手を差しだされた。
(……僕のこと、嫌になってないのかな)
 手をのせると、詩季は嬉しそうだった。


 中洲から岸へと歩く。
「今日は約束していなかったのに会えたの嬉しい」
「……僕も」
 心の準備はできていないけれど、それでも会わないより会いたい。
「ここに来たのって、もしかして昨日の写真見たから?」
 聞かれたくないことを聞かれて緊張する。
「……そう。綺麗だったから」
「そっか。嬉しい」
 詩季の答えは軽やかで、なんだかタロウの心も軽くなる。
(嬉しそうにしてくれる)
 いつもそうだ。穏やかで優しい人。タロウがぐるぐると悩んでしまっても、詩季の声を聴いていると安心する。

 ちょうど唐橋の街灯が点いた。薄闇と小さな光が揺れる水面を越えて岸に戻り、土手の上に登った。
 広い空。遠くには山々。
 暑さの和らいだ風が、ふわっと吹き上げていった。
「本、最後まで読んだよ。……やっぱり俺には悲しい最後に見えた」
「……そっか」
 無理に読ませてしまったことになる。
 ごめん、と謝ろうと口を開こうとしたが、その前に詩季が言葉を続けた。
「だから、タロウが二人の関係は続いていくって言ってくれて良かった」
 詩季を見上げると、彼は微笑んだ。
「恋だけで繋がっていた二人じゃなかったって、俺だけだったら気づかなかった」
―……」
「離れないよ、ずっと」
 いつもの包みこむような柔らかい微笑み。それだけでなく、どこか切なげな色があった。
「これからも俺はタロウに恋し続けると思う。……でもそれは俺の心の中だけでいいんだ。タロウが過ごしている、その隣にいるだけで幸せだから。言葉をくれて微笑みかけてくれたら、それだけで嬉しい……」
 ほのかに揺らぎのある声。重くて、たどたどしい。
 詩季が今諦めようとしているものが、詩季の大事なものであることが痛いほど伝わってくる。
 苦しみながら詩季は伝えてくれる。
「大好きで、大事な人なんだ」
 いっぱいの想いを。

 胸が熱い。
(優しい……)
 知っていたはずの彼の優しさ。今、その何倍もの心を、言葉にしてもらっている。
(僕は……)
 ―詩季に離れていかれたくない。自分の心を隠したい。でも隠したくない。気づいて。気づかれたくない。
 迷ってばかりのタロウを、詩季ははるかに大きく包んでくれている。
(でも……)
 ―詩季にも、素直な感情を出せる居場所があるといいのに。優しくていっぱい悩んでしまう人と知っているのに。……僕が、そんな居場所をあげられたいいのに。
(でも僕では……)
 詩季がこんなに苦しむほど大事な心を、隠してもらうばかりで―何もあげられない。

「詩季」
 繋いだ手にもう片手を重ねて、ぎゅっと詩季と捕まえた。
(僕も伝える)
 ―隠したい。気づかれたくない。
 怖い。
(詩季……、嫌わないで……)
 逃げ出したくなる足。足りない勇気は握力で補う。
 祈るような格好で、タロウは息を吸った。


「詩季が好き。世界で一番好き。優しくって、ゆっくり話してくれて、詩季といると楽しい。ずっと、永遠に一緒にいたい」
「え……あ……」
 詩季の頬が赤く染まっていく。
「友だちになってください」
 タロウも熱が出そうだ。子どもみたいな告白だけど、タロウにとっては大事なこと。
 お互いに熱っぽくて、詩季が困ったように笑った。そして口を開こうとする。
「待って」
 その口を指で押さえて、返事を遮った。
「告白、もう一つしていい?」
 緊張して途切れてしまったけれど、まだ伝えることがある。
 指の下で、
「なんでも聞くよ」
 と優しい振動が伝った。


 辺りは暗く、暑さは遠のいた。広い空から吹いてくる風が心地良い。
 けれどタロウには、熱くて少しべたついた詩季の体温が一番気持ちいい。
 詩季の目が、星が瞬く夜空のように綺麗。


「本当は、詩季の恋を叶えたい」
 詩季の瞳が揺れた。彼を期待させることに罪悪感を覚えたが、タロウは続ける。
「……でも気持ちが湧いてこない。恋人らしいことをしたいという気持ちが。嫉妬する気持ちも。自分が知っている感情から遠くて……小説の真似事しかできない。自分が自分じゃないみたいで、それで詩季が喜ぶと、自分がいらないように感じる。……―」
 タロウは言葉を続けようとして、音が出てこなかった。意識して音を出そうとしても呼吸が乱れるだけ。
 すると詩季が背を撫でてくれた。何も言わず、ゆっくりと。
 タロウはだんだん落ち着いて、震えた声を吐き出した。

「……本当は友情もよく分からないけど、覚えた」
「…………」
 もう一つの告白を、ようやく音にした。

 小学校の時、あだ名ができた。苗字が被った子がいて、その子の名前が二郎だから、僕はタロウになった。いままでの名前と似ても似つかない名前。子どもの思いつき。
「友だちが僕に名前をくれて、初めて僕ができた。だから友だちは大切だって知った。僕を僕でいさせてくれるから」
 学校では名乗りたくない名前を名乗らされる。仕方なく、自分でタロウと呼んでもらえるように頑張って立ち回った。学級が上がるたびに、本が閉じるようにパタンと切り替わる関係だとしても、何度も何度も。
 必死で守ってきた、小さくても大切な居場所。

「でも、恋は、……恋は覚えたくない。恋人は、パートナーは……、いつか険悪になって……それでも幸せを演じ続ける……」
 ジャージをよく着るのは楽だから。私服の方が夜遅くでも補導を避けるのが楽だから。
 響にもらったCDは頻繁に聴いている。耳障りな世界を遮断したくて、聴きたくないときでも音楽を聴き続ける。耳が壊れるんじゃないかと恐怖しながら聴き続ける。
 ……響は音楽が好き。冷めている彼も、音楽を語る時は饒舌になる。その時タロウは、罪悪感で押し潰されそうになる。
 ……詩季の笑顔が好き。でもその中で、恋しているときの微笑みには気づきたくない。この優しさが、恋の力だと思いたくない。
 心が押し潰されそうだから、鈍くなってきた。
 でも僕の鈍さが詩季を傷つける―。

「世界一大好きな人なのに、大切にできない……」
 本当は、恋に憧れはあった。本で何度も読んだから。もしかしたら体験することがあるのかもと思っていた。
 世界中に一人、八十億分の一の確率でいい。引きの悪い僕に引けるわけがない奇跡。けれどゼロパーセントではないと空想するのは結構楽しかった。今この時、自分が愛を持たなくても、どこかに存在すると思えた。
 ―どうして詩季と出会ってしまったのだろう。
 大好きな人に会わなければ、運のせいにしていられたのに。”僕だから”愛を持たないこと、気づかずにいられたのに。
 詩季という奇跡が、僕を絶望させる。

 友だちにタロウと呼ばれるようになった時、僕は息ができるようになった。
 けれど、息ができない時間が長過ぎた。その後も、簡単に消えてしまう空気を得るために緊張しつづけた。
 そんな世界で、僕は土くれになってしまったんだ。


 詩季の両腕の中で、彼を見上げる。
「詩季が好き。僕をこんなに大事にしてくれた人、初めてなんだ。だから詩季の大事な椅子に、無感動に座るなんて許せない……!」
 大事な詩季。その綺麗な世界に生じる鈍重な無駄。
「そんなの……許せない……。きっと詩季をまた傷つける」
 涙が滲む。
「詩季の気持ちを嬉しいと思いたい。恋したい。でもキスとか、恋人らしいことはよく分からない。自分じゃない自分に詩季を取られた気がする」
 自分が消えて、自分からブレて生じた誰かが詩季と仲良くしている。
 詩季の隣が、元からタロウのものでないなら平気だった。他の人のものだったら。
 けれどそこに、タロウの居場所を奪った存在がいたら。
 大好きな詩季を喜ばせていたら。
 それを側で見続けなくてはいけなかったら……。
 ―あまりにも惨めだ……。

「恋はできない」
 梅雨の日の詩季の告白。その返事をようやく音にした。
 タロウに付き合わせて、随分と遠回りさせてしまった。
「……詩季はもっと素敵なものを掴めるよ。世界一素敵な人だから」
 王子様が目を覚ます時間。
「僕には……詩季の恋を叶えられない」
 ずっと一緒にいたい。けれど、続く時間の先に何もあげられない。


 空には天の川。靄がかった美しい星屑が、頭上に垂れている。
「タロウ……」
 詩季の手が頬に触れた。涙が零れて、詩季の指に伝っていく。
 晴れた視界の向こうには、詩季の潤んだ瞳と、―柔らかい微笑みがあった。
「俺を傷つけるとか、素敵な人とか、叶えられないとか、……俺はタロウに大切に想われているよ」
「詩季……?」
 優しい声と、優しい指先。
「なあ、タロウ。俺が掴みたいものは恋じゃなかったみたいだ」
「え……」
 恋じゃない?
 ずっと、それを求めて詩季は側にいてくれたのではないのか。
「友情……?」
 恋じゃないなら、それしか思い浮かばない。そんなタロウにとって都合がいいことが起こるのだろうか。
「それも含まれているのかな」
 詩季が疑問形で答えた。
「俺が欲しいのは、タロウの想いだ」
「想い……」
 それは恋とは違うのだろうか。
「俺もタロウと会うまで恋を知らなかった。初めて見つけた特別な人に想われたくて、特別になりたくて、それを恋人になってと言ったんだ。その告白は断られたけど、俺は……タロウに大切に想われているよ」
「……分からない……」
 詩季が見いだしたものが分からない。自分では見つけられない。ぐるぐると、ごちゃごちゃと、感情が巡る。記憶が巡る。
「タロウ」
 戸惑うタロウに、詩季が顔を近づけて、こつんと額をぶつけた。
 視界が、耳に届く鼓動が、詩季だけに染まる。

「俺が世界で一番なら、タロウの気持ちに名前を付けていい?」
 ―……詩季が、名付けて……。
 胸が高鳴った。
 ぐちゃぐちゃになった心が、静寂に包まれて、詩季の次の言葉を待ちわびている。期待の目で、じっと詩季を見つめる。
 タロウの同意を感じ取って、詩季が言った。
「”永遠”だ」
 川辺の風が吹き上げてくる。密着した二人の間を分かつことはなく、辺りの草原だけをさやめかせた。
「永遠……」
 詩季はすごい。
 タロウの願望そのままの名前をつけてくれた。
「世界に目を瞑って。俺だけ見ていて、タロウ。世界に二人きりだと思えば、どれだけ小さい想いでも、世界一大きい想いだろ」
「うん」
 詩季だけをまっすぐ見つめる。
「……恋を作らなくていい……? ちゃんとしたものを、あげられなくて……」
「タロウがあげたいと思ったものをもらいたいんだ。タロウが感じたものをそのままくれるのが、一番嬉しい。他の人から聞いたものじゃなくて、タロウがくれたものがほしい」
 想いの多寡とか、種類とか、そういうものが無くなっていく。
「俺にタロウの永遠をください」
 詩季の望みを叶えたい。この手で、叶えられる。
―あげる」
 ぽつりと答えると、
「嬉しい」
「……!」
 優しい彼が、お構いなしの力で抱きしめてきた。


目次