呼び込み
その日は免許の更新のために休みを取った。
用事を済ませると午後の時間が大きく空いてしまった。
「のんびり散歩でもしようかな」
たまにしか寄らない街。
知っているような知らないような道。
記憶を頼りに歩いていると、十字路に街の地図を見つけ、目的地はお寺に決めた。
駅周辺の賑やかさから離れ、片側しか樹がない上に手入れされていない並木道を通る。
石蓋に閉ざされた側溝には、川の名前の立札。確かに水音はするが、側溝にしか見えない。
こんな散歩も嫌いじゃない。
建物が密集していて分かりにくいが、
「丘になっていますので、坂があれば登りの方向で」
との近所の人の教えに従い、辿りついた。
杉に囲まれた寺。
門をくぐり境内に入る。
杉の暗い緑と、白砂と、くたびれた日本建築。
林の中から子どもたちの遊んでいる声が響く。
奥に進むと、隣の神社の鳥居が見えて、後であちらにも行ってみようと余所見をしていた。
「おっと」
道に男の子がしゃがんでいて、危うく蹴飛ばすところだった。
その子は地蔵の前に小石を高く積んで、崩れてはまた積み直している。
草木色のくたびれた着物姿で、寺か神社の息子かなと思った。
着古すほど着物を日常的に着る知り合いがいないので、珍しく感じた。
向こうの林で同じ年頃の子が遊んでいるのに、その子は石を積む動作をぼんやりとした表情で続けていた。
気になって、つい声を掛ける。
「友達と遊ばないの?」
男の子はしゃがんだままこちらを見上げた。
「遊ぶ子いない」
すっとそう答えた。
男の子がそのままじっとこちらを見るので、自分で話しかけておいてちょっと困ったが、質問を続けた。
「お母さんは?」
「こっち」
男の子は走りだし、私の横を通り過ぎた。
(ああ良かった。お母さんはいるんだ)
そう思っていると、
「こっち」
男の子が振り返って、私を待っている。私が立ち上がると、また走りだす。
元気な足取りが子どもらしくてほっとした。
ついていくと、本宮の端っこに男の子は立っていた。
「ここ」
男の子が指したのは、欄干の下の木板の割れ目だった。
子ども一人なら通れそうな穴。
「見てみて」
お母さんのことを訊いたのに、どうしてこんな秘密基地のような場所に案内されたのだろう。
(子どもの考えることだからなあ)
けれど好奇心をくすぐられ、
「ここか」
と穴に顔を近づけ覗いた。
穴から人の手が伸びてきた。
グッと頭を鷲掴みにされ、穴に引きずり込まれそうになる。
焦った。
叫びながら手を引きはがして頭を引く。
変な方向に曲げられた耳に痛みが走り、爪が頬を引きずった。
手から逃れ、男の子に振り返った。
「ひっ!」
そこにはずぶ濡れで、膨れ上がった子供がいた。
立ち上がって走った。
足元の白砂がじゃりじゃりと大きな音を立てる。
常香炉の陰に隠れたところで、本宮の方を窺う。
男の子の姿は消えていた。
心臓をバクバクさせながら、目をこらす。
「どうかしましたか」
声が掛かり、飛び上がった。
振り向くと、僧形の男がいた。
警戒しながら話をする。どうやら、相手はちゃんとしたこの寺の住職のようだ。
私が今あった話をすると、真摯に聞いてくれた。
「その子はたまに出るようです」
もう大丈夫ですよ、と言って、藤棚の下の長椅子に座るよう勧めてくれた。
男の子とあの手は、幽霊の類らしい。
住職はその由縁を教えてくれた。
昔、飢饉があった。
どの家でも生活が苦しかった。
その頃村で盗みがあり、村のある女が疑われた。
母一人、幼い息子一人の家でありながら食いつないでいたからだ。
女は真面目に蓄えていたからだと抗ったが、村人たちは女を地下牢に閉じ込めた。
廃寺に残された隠し室だ。
一人残された息子は、牢の破れ目から母に食料を届けた。
女は、自分はもういいから蓄えは全てお前が食べなさい、と言った。
それでも子どもは毎日来た。
女は知らなかった。村人たちが蓄えを罪の贖いとして取り上げたことを。
ある日、子どもは盗みに入ったところを見つかり、石にくくられ川に寝かされた。
女はその後、数日は生きていた。
誰かの足音が聞こえるたび、しわがれてしまった声で、
「あの子は元気でしょうか」
と声を掛けていたそうだ。
気味の悪い話に、私は身を竦ませた。
「優しい善良な親子だろう」
住職はしみじみと溜息した。
「けれど死の業は恐ろしい」
女は食料を求めるだけの悪霊となり、人が来たら肉と思うようになった。
息子は母に死んだ姿を見せたがらない。辺りを彷徨いながら、食料自身にその穴を覗かせる。
「そんな危険な穴、塞いだりお祓いしたりしないんですか」
住職は困ったように眉を寄せ、
「哀れでねえ」
そう言って笑った。
〈終〉