それでも、恋人……? 前編




月は厚い雲にその姿を隠し、所々にある街灯だけが夜の街を照らしていた。
食事を終え、お風呂に入ったサツキは、パジャマ姿で自室の窓から空を見上げた。
月も星も見えない真っ暗な空に少しだけ憂鬱になる。
学園時代に、今更ながらに不思議で仕方無いとサツキは思うのだけれど、あのトウワと男女のお付き合いなるものをする事となり、学園を卒業した後も二人の関係は続いていた。
そうは言っても、服飾の専門学校に進んだサツキと大学へと進学し演出家としての仕事も始めたトウワは忙しく、なかなか時間も合わず一緒に過ごせる時間は少ない。
けれど、別れ話にもなっていないし、時折トウワが連絡をくれるのだから、自分達の関係は間違いなく恋人同士ということになるのだろう。
「……たぶん」
自分の思考にぼつり、と小さく付け加えて溜息をつく。
親友のマコに言わせれば、サツキとトウワの関係は少しおかしいらしい。
普通の恋人同士なら、いつでも一緒に居たいし、デートだって時間をやりくりしてするのだという。少なくとも、初めのうちは。
サツキはトウワと一緒に居たいと思う時もあるが、忙しいトウワを煩わせたくはないし、時折一緒に過ごせるだけで幸せなのだ。
それに、サツキにとってトウワは初めての彼氏で、恋愛経験豊富なマコと違って何もかもが手探りなのだから、大目に見て欲しいと思う。
そして、それに、心の中で続ける。
「明日はデートだし……」
デート、という言葉に少しだけ気恥ずかしい気持ちが湧き上がってくる。
珍しいトウワの休日に、どこかに出かけようという話になったのは数日前のことだ。
その時は、丁度トウワに仕事の電話がかかってきたせいで待ち合わせも何も決めることが出来なかった。
「どこに行きたいか決めておいて」とだけ告げてトウワは仕事に戻ってしまい、サツキはトウワが嫌がらないだろう場所をいくつか探して連絡を待っていた。
けれど、前日になっても連絡はない。
サツキはストラップも何もついていない携帯をぱかりと開けて、何か連絡はないかと何度目になるか分からない確認する。
しかし、着信履歴は勿論、メールすらなかった。
「……電話してみようかな」
きゅっと携帯電話を握りしめて言ってみて、少し考えてから首を振る。
仕事で電話に出られないこともあるかもしれない。
「やっぱりメールにしてみよう」
メールなら時間が空いたら連絡をくれるだろう。サツキはメールの新規作成画面を開くと、文字を入力し始めた。
「明日、待ち合わせはどこにする…っと、これでいいかな」
あまり長いメールは好まないトウワに簡潔に要件だけ打ち込んで送信する。
送信完了画面が出ると、ほっと息をついた。メール一つでも、何となく緊張する。
返信はいつ頃返ってくるだろうか、と携帯を閉じると同時に、バイブに設定してある携帯が震える。
「えっあっ」
慌てて携帯を開ければ、『着信 夜凪君』と表示されていてサツキは慌てて通話ボタンを押した。
「もしもしっ」
『……慌てすぎ』
上ずった声に、携帯から携帯から呆れたような声が聞こえる。
「あ、うん」
サツキは浮き立つ気持ちを抑えるように、トウワに聞こえないように小さく息を吸った。
『……明日』
「あ、うん。 待ち合わせ時間、決めてなかったから」
気だるく言うトウワ独特の声音に続けるようにサツキが言えば、電話の向こうでトウワが小さく息をついたのがわかる。
「夜凪君が良ければ、水族館とかどうかなって思って」
少し遠出になるけれど、水族館ならざわついた所があまり好きではないトウワでも大丈夫だろう、とサツキはトウワの返答を待つ。
意地悪な事を言うことの多いトウワだけれど、溜息混じりに「好きにしなよ」と付き合い始めてからサツキの意見も尊重してくれるようになった。
その言葉も、初めは呆れられているのかと思ったものだ。けれど、別に呆れているわけではないことが、最近だけれど漸くわかってきた。
水族館でなければ嫌なわけではないから、別の場所でもトウワと一緒ならば構わない、とサツキは考えて、その考えに一人頬を染めた。
『明日だけど』
「う、うん」
トウワの声に思わず意気込んで頷く。
『予定、入ったんだ』
「え……」
それ以上言葉にならなかった。熱かった頬が一瞬で冷め、トウワの言葉が頭の中でぐるぐると回る。
『そういうことだから』
「え、あ……うん」
混乱する思考で何とか相槌を打って、トウワの言葉を頭の中で反芻する。
大学に通いながら演出家として仕事を始めたトウワはサツキなんかより数段忙しい。
だから、こんな風に急に予定が潰れてしまうことがあるだろうという事は、サツキだって予想はしていた。
けれど実際予定が潰れてしまうと、ずんと胸の辺りが重くなる。しかし、落ち込んでしまったことを知られたくなくて、サツキは出来るだけ平静を装って電話の向こうにいるトウワに告げる。
「わかった」
一言、思わず沈んだ声になりそうなのを浮き立たない程度に明るく言えた。心の中で、よしとガッツポーズしてサツキは見えないと分かっていても努めて笑顔を作る。
『……へぇ』
小さく呟くようなトウワの声。それに何となく、不機嫌そうな響きを聞き取ってサツキは慌てて言葉を紡いだ。
「えっと、……仕事?」
『そう、次の舞台の主役の稽古が遅れてるから、急遽』
溜息混じりに言うその声に、サツキは大変だなと思いながらも何となく胸の辺りが、もやもやとしてしまう。
それでも、トウワに「約束したのに」とか「嘘吐き」とかそんな言葉を投げかけられる事などサツキに出来るはずもなくて、トウワに聞こえないように小さく息を吐き出して、苦笑気味に言葉を紡いだ。
「それなら、仕方ないね」
『……』
忙しいトウワを責めるような事を言えば、トウワはきっとサツキと付き合っていることを面倒だと感じるようになるかもしれない。もしかしたら、もう既に面倒だと思われているかもしれない、そう思うと少しだけ胸が締め付けられるように痛くなる。
「明日もがんばって、ね」
労わるように声にすれば、トウワが電話の向こうで一つ溜息をつくのが聞こえた。その音に、ぴくりと肩が跳ねる。
呆れられるようなことを言っただろうか、と今言った自分の台詞を思い出してみる。そして、変なことは言っていない筈だと、どきどきしながらトウワの声を待った。
『……わかってる』
短い言葉と共に、『じゃあ、切る』とトウワの声が続けて、ツーツーという無機質な音が流れた。
サツキは耳から携帯を離すと、はぁ、と大きく溜息をついた。
ぽすり、とベッドの上に携帯を落として、自分もその上に伏せる。
「……仕方ないんだよね」
言い聞かせるように言葉にして、サツキはもう一度溜息をつく。
頭では分っていても、気持ちがついていかないというのはこんな状態を言うのか、とサツキはもう一度自分に溜息を吐く。
話をするまでの浮き立っていた心が一気にマイナスまで突き落とされ、その落差に溜息を吐き出すことしか出来ない。
「……あーあ」
溜息とともに吐き出して、サツキは気持ちを上向かせようとするように起き上がる。
「仕方ないよね」
先ほどよりも幾分明るく言いきって、落ち込んだ自分を振り払うように首を振る。あのトウワが、こうして電話してきてくれるだけでも凄いことなのだ。
「私、我儘……になってる?」
いつからこんなに贅沢になってしまったのか、とサツキは落ち込んでいる自分に小さく苦笑した。
その時、ベッドの上で携帯が小さく震えながら点滅する。
「あれ? ……マコか」
『着信 マコ』とあるサブウィンドウに、サツキは通話ボタンを押した。
「もしもし、マコ? どうしたの?」
『ごめん、もう寝てた?』
すまなそうな響きに、サツキは「まだ起きてたよ」と答える。
『明日って……あー、ごめんサツキ、今思い出した』
「え?」
途中で止めてしまったマコの言葉に、サツキは小さく首を傾けた。
『明日ってあいつとデートだったよね?』
全くタイムリーな内容に、サツキは小さく苦笑する。そういえば、マコには明日トウワとデートだと伝えていたことを今更ながら思い出した。
「ううん、さっき予定が入って無理だって言われちゃった」
『え、何よ! それ!!』
「マ、マコ?」
憤慨するように言うマコの声に、サツキは驚いてしまう。
『ほんっと、男って自分の都合しか考えないんだから、あいつも何考えてるのよ!』
「あ、でも夜凪君……仕事だから、仕方な……」
マコの言葉に、サツキは困ったように笑って、忙しいトウワをフォローしようとするが、まくしたてるようなマコの言葉に遮られてしまう。
『あー、もう! 約束破ったのには変わりないの!』
「そ、それはそう……かもしれないけど、でも」
『そうなの! もうっ、サツキが甘やかすからつけあがるんだよっ』
怒り心頭という風なマコの声にサツキは苦笑いするしかない。
「甘やかしてない、と思うよ……?」
小さくそれでも反論すれば、マコが大きく溜息をついたのがわかった。
甘やしているわけではない、と正直にサツキはそう思っている。それは、先ほどもトウワと話していて思った事だったが、トウワにとってサツキが面倒な存在になれば簡単に別れられるのだと思うから。
再度、そんな考えが頭の中に浮かんでほんの少し気分が下降してしまう。
『まぁ、丁度いいって言えば丁度いいけどさ……』
「え? 何、マコ?」
物思いに沈んでいたサツキは突然の話題転換についていけず、思わず問い返した。
『とりあえず、明日は空いてるんだよね?』
「あ、うん。 約束無しになっちゃったから」
確認するようなマコの言葉に、サツキはこくりと頷きながら答える。
『ならさ、明日合コン付き合ってよ』
マコの言葉に思考が停止する。そして数拍おいて喉の奥から声が出た。
「………はい?」
専門学校と、ヒカリのファン代表があってなかなかに多忙のサツキはこの手の誘いを受けたことがほとんどない。
サツキと同じくらい多忙の筈のマコが沢山の合コンをこなしているのを知っているサツキとしては、感心さえしてしまう。
そもそも、地味なサツキをそんな場に連れて行こうと思う人は専門学校の知り合いにはいないし、マコもサツキが一応とはいえ恋人がいるのを知っているので、この手の誘いは今までなかったのだ。
「でもマコ、私……」
『女の子がどうしても足りなくてさ』
サツキの小さな反論など聞いていないように、マコが続ける。
『それにあんな男よりいい男なんて世の中たーくさんいるよ!』
「……マコ」
学園時代からサツキがトウワの雑用係と呼ばれて、様々な雑事を押しつけられている所を見ているマコだから、サツキを心配してこんなことを言うのだろう。
それが分っているから、力説するマコにサツキは苦笑するしかない。
「でも……、私は夜凪君と付き合ってるし……」
少しだけ自分自身でさえ自信のない“付き合っている”という言葉を口にする。
困ったように言うサツキに、マコがまた溜息をついた。
『サツキが合コン行ったとして、あいつが気にするような男?』
「そ、れは……」
言われた言葉にサツキは口篭もる。
トウワがサツキが合コンに行ったからといって気にするか、と言われれば、きっと気にしないだろうという答えが即座に頭によぎる。
『ヤキモチやいてさ、喧嘩になったりとかする?』
「……」
マコの言葉に、もう黙るしかない。
きっとトウワは嫉妬なんてしないだろうし、それが元で喧嘩になるなんて想像すらできなかった。
何となく、何となくだけれど、「へぇ、そう……」といつも通りの気だるげな口調で流されるのが目に見えるようだった。
『ね、だからいいでしょ? 私を助けると思って』
「でも、マコ……」
例えトウワが気にしないとしても、サツキ自身そういった場所に行くのは気が引けるのだ。
『ちなみに明日、どこ行く予定だったの?』
「え、一応……水族館に誘ったんだけど……」
マコの問いに流されるようにうっかり素直に答えてしまう。
『それなら丁度いいよ! 場所はアクアリュウムが凄い有名なお店だし!』
そう言う問題じゃない気が……と呆れながら、やはり断ろうと口を開こうとした。それどそれを遮るようにマコが畳みかけるように話し出す。
『断るのはなし! 予定もないんだし、もっと別の男も見た方がいいって!!』
「……そんな、マコ……私は」
『もっといい男なんて五万といるんだから!』
意気込んで言うマコにサツキはどう言って断るべきか悩む。
しかし、こうなってしまってはマコが引くはずもなく、今までの経験上サツキに断れた試しはないのだ。
『というわけで、決まり!』
サツキが黙り込んだのを了承ととったのか、マコが弾んだ声で告げる。
「え、ちょっとマコ!」
『場所とかは後でメールするね、ちゃーんとお洒落してくるんだよっ!』
慌てて口を開くが、マコはそれだけ言うと通話を切ってしまう。
ツーツー、とむなしく響く音を聞きながらサツキは携帯を下して溜息をついた。
「……どうしよう……」
約束、したことになるのだろう。今更行かないと言ってマコがそれを許すとは思えずサツキは溜息をつくと受信を告げる携帯にちらりと視線を向けたのだった。