戀  いとし、いとし、と言ふ心 1




面会時間も終わり、自宅に帰ったサツキはそのまま自分の部屋へと駆け上がった。
『姉ちゃん?』と後ろから呼びかける訝しげな弟の声に返事をしないまま、扉を開けて、閉めた。
トン、と背が閉めたばかりの扉に当たって、サツキはそのまま座り込む。
『一生、オレに付き合う覚悟はある?』
そう問いかけた普段とは全く違うやさしい声を思い出して、カァっと火照った頬にそっと手を当てた。
まるで、プロボースのようなその言葉にサツキが頷いたのは、ほんの少し前のことだ。
頷いた時、今まで見たこともない程、柔らかくなった表情すら鮮明に思い出してサツキは両手で顔を覆った。
あの時は、彼が―――、人に深く関わろうとしなかったトウワが、自分を認めてくれたことが嬉しくて、ただそれだけで頷いてしまった。
恋人となってからも全く頼ってくれなくて、その上全部自分で抱え込もうとしていたトウワに、ほとんど無理矢理のように手を差し伸べたのはサツキ自身だ。
そうしなければ彼が自分の前から去っていってしまいそうで、そしてサツキ自身がトウワを失いたくなくて、今思ってみれば大胆すぎる自分の行動に頭から火を噴きそうだ。
だから、トウワから自分を必要だと言ってくれたことが本当に嬉しかった。
「まさか……ね」
サツキは小さく呟いて、自分の考えを否定した。
サツキがトウワの事を好きなのは、自分自身のことなのだから分かっている。
サツキの方から告白して、突き放されてもやっぱり好きで強引にトウワの手を放さなかったのはサツキの方だから。
けれど、トウワはどうなのだろうとサツキは真剣に悩む。
「……別れようって言ってたし」
それは、トウワが目のことが原因だというのは分かっているが、そういえばトウワの方から好きだとか愛してるとかいう言葉を聞いたことがない。
トウワがそんな言葉を自分に告げるのも想像出来なかった。
別れよう、と言われた時のことを謝られて、それでもトウワの家から出て行っていいとトウワは言ったのだ。
その時も、サツキが嫌だと云わなければ、トウワは何も言わずにサツキを追い出したのだろう。
「恋人としてってわけじゃないのかな……」
何となく思いついた結論に火照っていた頬が少しだけ冷える。
自分で言葉にして、思いのほか落ち込んでいる己に気づいた。
トウワの目のことが雑誌に載って以降、強引にトウワの家で生活するようになり、ずっと傍に居た。
いつの間にか同じベッドで寝るようになったけれど、別に何かがあるわけではないのだ。
そんな雰囲気になったのは、トウワの目の事でサツキがトウワを追及したあの時だけだ。
そして、あの時だってトウワは多分本気ではなかったのだ。
「何かあってほしいってわけじゃないけど……っ」
思わず誰も聞いていないのに思わず否定して、サツキは座り込んだまま膝に顔を埋める。
けれど、考えれば考える程、トウワと自分が恋人同士だという確信がサツキの中で無くなっていく。
「一生……、かぁ……」
ぽつりと呟いた言葉が空気に消えていく。
それはトウワの生涯のパートナーとしてなのか、それとも所謂雑用係としてなのか。
何となく後者の方が可能性として高い気がして、サツキは小さく乾いた笑いを洩らした。
そして、唇を引き結ぶとゆっくりと瞼を閉じた。
蘇るのは、トウワの姿ばかりでサツキはそっと息をつく。
「それでも傍に居たいんだから」
いつの間にこんなにも彼が好きになってしまったのだろう。
サツキ自身にさえ分からない。学園の頃から、嫌われてはいないにしても結構酷い扱いを受けていた気がする。
けれど、ほんの少し、後になって気付けばあれは彼の優しさだったのかな、と思う部分がある。
例えば、サツキが落ち込んだ時の励ましだったり、時折雑用という名目で一緒に出かけたり。
そういうのが少しずつサツキの心の中で積み重なっていったのだと思う。
だから、恋愛は先に好きになった方が負けなのだという言葉をサツキは今しみじみと感じていた。
きっと、トウワが自分を好きな気持ちより、自分がトウワを好きな気持ちの方が何倍も、何十倍も大きい。
「夜凪君も少しは私のこと傍にいて欲しいと思ってくれてるみたいだし……」
ほんの少しでもトウワがサツキを必要としてくれているだけでいい、とサツキは思う。
きっと、親友のマコや学園からの友人であるユキに言わせれば、ネガティブ過ぎだと怒られそうな気がしたが、相手がトウワなのだから仕方がない。
もう一度小さく溜息をついた。
「姉ちゃーん、ご飯食べないのかー?」
そんなムツキの声が聞こえて、サツキは、はっとして慌てて立ち上がる。
「着替えたら行くっ!」
扉越しに返事をして、サツキはまだ少しだけ熱い頬を両手で打った。
今、そんなことを考えていても仕方ない。明日は大事な手術の日なのだ。
行っても行かなくても結果は変わらないのだから、別に来なくて構わないとトウワは言った。
けれど、きっと仕事に行っても心配で何も手につかないだろう。だから、サツキは歌劇団にはお休みを貰って病院に行くと決めていた。
「うん、笑顔、笑顔」
トウワの手術は絶対に成功する。
そう心の中で強く思って、サツキは部屋着に着替えると、急かすムツキの声に促されるように階下へと降りていった。



面会時間が始まって直ぐ、サツキは通い慣れた病室の前に居た。
きっと呆れられるだろうな、と思いながら、トントンと軽く扉を叩く。
中から返事がないのはいつものことなので、そのまま扉を開けるとベッドに横になったままのトウワに近づいていく。
「ごめんなさい、やっぱり来ちゃった」
小さく呟くように言ってベッドの横に立てば、まだ朝方のせいだろう低血圧で不機嫌そうな顔が向く。
「……だろう、と思ったよ」
気だるそうな返事にサツキは苦笑する。
「あのさ、……どうせ待ってるだけだよ」
呆れたようなトウワの声にもっともだと思いながらもサツキは頷いた。
「うん、だから……少しでも近くが良かったの」
段々と尻すぼみになっていくサツキの声は視覚以外の器官が敏感になってきているトウワにはしっかりと聞こえたのだろう、僅かに目を見開いた後、大きく息を吐かれた。
「……まぁ、予想はしてたけど」
その言葉は呆れ混じりではあったが、嫌がっているというわけではなさそうで、サツキはほっと息をついた。
近くにあった椅子に腰かけると、サツキはトウワの顔を覗き込むように見上げる。
そしてシーツの上に投げ出されたままの手の甲にそっと自分の掌を重ね合わせた。
いつもと同じ低い体温に、サツキは小さく息をつく。
「……何?」
振り払うわけでもなく聞いてくるトウワにサツキは慌てて首を振った。
漠然とした焦燥感。もやもやとしたものが胸の中に広がって、サツキの中で急きたてる。
じっと、トウワの目がサツキを探るように見た後、サツキの手の中でトウワの手が動いた。
「昨日、大丈夫だって言ってたのは誰……?」
ひやりとした指がサツキのそれに柔らかく絡む。よほど酷い顔をしていたのか、とサツキは慌てて唇の端を上げた。
「……私」
見抜かれていた不安に、少しだけ笑交じりに答えれば、トウワが軽く溜息を吐く。
不安なのは、サツキよりトウワの方なのに、何してるんだろうと自己嫌悪に陥りながらも、サツキは絡んだままの手にそっと力を込めた。
大丈夫、と何度も心の中で唱えて、トウワと目を合わせる。
「大丈夫」
「どの口が言うんだか」
サツキの言葉に、トウワが呆れたように言ってサツキの方へ身体を倒してくる。
近くなる整った顔に戸惑いながら、こつんと額を合わせた。
「見えなくなっても、覚えてる」
トウワの声に、とくりと胸が跳ねた。静かな声がじわりと体の奥へ、心の中へと染み渡っていく。
「うん……」
成功するとサツキは信じているけれど、それは絶対ではない。
覚えてる、と言ったトウワの声が昨日のトウワと重なって、サツキは頬を染めた。
近くにいるトウワの色白の肌が仄かに染まっている気がするのは、サツキの錯覚だろうか。
囚われていない方の手をそっとトウワの頬に滑らせる。
「……不細工」
呆れたようにトウワの唇が動いて、冷たい指が眼鏡の隙間から目尻へと伸びる。
自分でも気付かなかった濡れた感触に、はっとしてトウワを見れば彼は良く見ていた意地の悪い笑みを浮かべていた。
「最後に見る顔、それでいいんだ?」
「い、いやっ」
問われてサツキは慌てて何度も首を横に振る。
見えなくなるなんて考えたくないけれど、もし見えなくなってしまって、最後に覚えているサツキの顔が不細工な顔だなんて救われない。
好きな人に覚えていてもらえるなら、笑った顔が良かった。
「じゃあさっさと泣き止みなよ」
トウワの声に、サツキは頷きながらも釈然としないものを感じていた。
昨日だって、泣きそうになりながらも、何とか笑って過ごせたのだ。
思わず涙が滲んでしまったのは、間違いなくトウワの言葉のせい。
覚えてる、なんてサツキの琴線を震わせる言葉なんて言わないで欲しい。
サツキがトウワの頬から手を放すと、繋がったままのトウワの手がそっとサツキのそれを握る。
「大人しく待ってなよ」
いつもの命令口調が、何もかも普段通りでサツキはいつの間にか強張っていた身体から力を抜く。
「わかった」
トウワの言葉にサツキはしっかりと頷いて、笑いかけた。



手術室にトウワが入ってから、どれくらい時間が経っただろう。
時計を確認すれば、予定手術時間まであともう少しという所だった。
病室で待っているのも気が引けて、ロビーにいたサツキはもう直ぐだと完全に冷めてしまったコーヒーを捨てて、トウワの病室へと向かう。
不安ばかりが胸を巣食い、何も出来ないサツキにはただ成功を祈ることしか出来なかった。
早足になりがちな歩調でトウワの病室へとたどり着けば、丁度トウワも手術が終って帰ってきた所なのだろう、看護士達が点滴を吊るし換えたり、細々と作業をしている所だった。
病室の扉の外から見たトウワの目と頭の辺りにはしっかりと包帯が巻かれており、手術がどうだったのかなど読み取ることは出来ない。
「おや、……夜凪さんの付添の方だったね」
トウワの様子を見に来てくれたのだろう、主治医の先生がサツキ気づいて声をかけてくれる。
サツキは慌てて頭を下げると、医師を仰ぎ見た。
「包帯を取って視力の具合を見るまでは何とも言えないけど、一応手術自体は成功したよ」
その言葉に、サツキは身体から力が抜けるのを感じた。
すとん、とその場に座り込みそうになるのをなんとか耐えて、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
目頭が熱くなってきて、サツキはぎゅっと瞼を閉じた。顔を上げたサツキに、包帯を外す時期であったり、その他にも今後のことを軽く説明してくれる。
「しばらくは包帯はしたままになるから、何かと気をつけて上げて下さい」
「はい」
医師の言葉にサツキが頷く頃には、作業を終えた看護師達が病室の外へと出てくる。
彼女達と入れ替わりにサツキは病室へと入ると、今だ眠ったままのトウワを見つめた。
麻酔のせいで未だ眠ったままのトウワの姿にほっと息をついて直ぐ傍の椅子へと座る。
どれほどそうしていただろうか。ぴくり、とトウワの手が動いた。
「ん……」
小さく漏らした声にサツキは動いた手をそっと取る。
「おはよう」
「……ん……」
こんな時でも低血圧なトウワは、目覚めたばかりで身体が動かないのだろう。
じっとしたままのトウワの手を握ったまま、慣れてしまった時間を待つ。
「……まだいたの」
暫くして出てきたトウワの力無い声に、サツキは口元に苦笑を刻む。
「うん、やっぱり心配で」
素直に言えば、「そう」とそっけない声が返される。
やっぱり要らないお節介だっただろうか、と別の不安がもたげ始めて、サツキは握った手から僅かに力を抜いた。
しかし、それはほんの僅かに込められたトウワの力によって、離れることなく繋がれたままだった。
繋いだままでもいいのだろうか、とサツキが少しだけ力を込めればほんの僅かにトウワの唇が笑みの形を刻んだ気がした。
「もう少し、いてもいい?」
面会時間終了まであと僅か。戸惑いがちに問えば、トウワは「……好きにすれば」と力無い声で言って黙り込んでしまう。
麻酔とは言え寝起きのトウワには会話することすら辛いのだろう。
サツキは「うん……」と短く返事をすると黙ってただトウワの手を握っていた。



それから数日が経って、漸く包帯が外せる日。
サツキはトウワの病室で、医師が包帯を外していくののを緊張したまま見守っていた。
手術後、手術自体は成功したが、視力の状態は包帯を取るまで分らない、と目覚めたトウワに告げた医師に、「そう」とトウワは短く返事をしただけだった。きっとトウワも不安なのだろう、サツキは下げられたままのトウワの手が拳を作っているのを見止めて自分の拳も握り締めた。
どうか、視力が保たれているように、居るのかどうかも分らない神様に願う。
一巻き、一巻きと包帯が外され、トウワの瞼が外気に晒される。
「ゆっくり開けてみてください」
医師の声に従うように、トウワの瞼が開く。彷徨うように瞳が動いた後、僅かに眇められながらも視線がサツキに向いた。
「どうですか?」
医師に問いに、トウワが少し息を吐いた。
「……以前と変わらない」
その声に、ひくりとサツキの喉が鳴る。医師が光を当てたりと簡単な検査をいくつかして、トウワとサツキを向き直る。
「進行は止められたようです」
医師の言葉に、サツキはトウワの傍に寄る。
「まだお前の顔も見られるみたいたね」
意地悪そうに告げられた言葉に、サツキは泣き笑いのようになりながら緩められたその手を取った。
「夜凪君……、良かったね」
心からの言葉に、トウワも表情を和ませると返事の代わりにサツキの手を強い力で握りしめた。