戀  いとし、いとし、と言ふ心 2




それから暫く経過を見て、問題もないようだったことも有り、予定より少しだけ早い退院の日。
元々あまり長期の入院になるわけではなかった為、私物は大きめの鞄一つに収まってしまった。
サツキはバッグを持つと、ベッドに腰かけたままのトウワを振り返る。
「終わったよ」
サツキの声にトウワは「そう」と小さく返事をすると、緩慢にベッドから腰を上げた。
「じゃあ、さっさと帰るよ」
「あっ……」
言葉の通りに病室を出ようとするトウワにサツキは思わず声を上げた。
「……何?」
短く問われ、トウワの目がサツキを映す。手術が成功したとは言っても、かなり悪くなってしまった状態での現状維持。
僅かに視線がぶれて、トウワの目が少しだけ伏せられる。サツキは鞄を持ったまま近づくと、そっとトウワの手に己のそれを重ねた。
「退院、おめでとう」
サツキの言葉に、トウワは小さく笑いを洩らす。
「今更?」
「だって、言ってなかったから……」
身の回りの整理をしていたから言いそびれてしまっていたのだ。
どのタイミングで言うべきか迷って、思わず声を上げてしまっていた自分に、サツキは思わず視線を下ろす。言わなきゃ良かった、と後悔しても遅い。
「へぇ……」
小さく呟くようなトウワの声にからかうような響きを聞き取り、サツキは条件反射のように重ねた手を放そうとした。
しかし、離れようとした指先をトウワの体温の低い手に握りこまれ、サツキは思わず視線を上げた。
「なんで離そうとするの?」
どこか不機嫌そうに問われ、サツキは頬を染めた。
「だって……」
無意識だったなんて言える筈もなく、そこから先が言葉にならずに黙りこんでしまう。
二人の間に沈黙が落ちた。耐えきれなくて視線を下せば、トウワの手に握りこまれた自分の手が目に入る。
少しだけ腕を引けば、強い力で握られた。はぁ、と大きなため息と共に沈黙を破ったのは、トウワの方だった。
「あの……、夜凪君?」
困ったように視線を上げれば、トウワはじっとサツキを見ている。
その探るような瞳を真っ直ぐ見返すことが出来ずにサツキは思わず視線を彷徨わせた。
おどおどしているサツキの様子があまり見えないでも分ったのだろう、トウワはまた一つ嘆息したようだった。
「いいから、帰るよ」
ふい、とトウワが視線を逸らしサツキの手を引いた。引かれるままに一歩踏み出して、サツキは慌ててトウワの横に並ぶ。
扉を開け、時折声を掛けながら出来る限りさり気無くトウワを誘導する。
病室を出て、病院の玄関口の前まで来た時、サツキは思わず立ち止まった。
花束を持った看護士が数名と、見間違う筈もない友人達の姿。
「何?」
同じく足止めたトウワが短く問うのに、サツキは小さく笑った。
「皆が退院のお祝いに来てくれたみたい」
その言葉を聞いて、トウワが僅かに顔を歪めた。
「……、暇な奴らだね」
皆、という言葉に誰か瞬時に分かったのだろう、溜息混じりに言うトウワにサツキは気づかれないように笑う。
「東君もユキ君も日下部君も、心配してたんだよ」
サツキはそう言うと手を放して先導するように歩こうとしたが、再度手を握りこまれて後ろに引き戻される。
「夜凪君……」
困ったように見上げれば、トウワは気にも留めていないように歩きだす。サツキは慌てて横に並ぶと先ほどと同様にトウワを誘導した。
玄関を出れば、喜びをしっかりと顔に刻んだ友人達、そして綺麗な看護士達がトウワとサツキの周りを取り囲む。
「いやぁ、目出度い。 退院おめでとう、トウワ」
清一郎が満面の笑みで言うと、トウワの肩を叩く。
「セイ……」
ちょっと加減したらどうなの、とため息交じりに言うトウワの声には険はない。
「本当、入院する前はどうなることかと思ったけど、おめでとう!」
にこにこと、明るく言うユキにハルも頷く。
「うん、良かった。 おめでとう、夜凪君」
控え目に祝いの言葉を告げるハル、そしてユキに視線を流してトウワは小さく息をつくと口を開いた。
「……ありがとう」
その言葉に、ヒューっとユキが小さく口笛を吹く。
「ほんっと、丸くなったよねぇ」
感心するようなユキの言葉に、トウワが僅かに唇の端を歪めた。
「ちょっ、ユキ君」
困ったようにハルがユキの肩を引いてあわあわと慌てる。
「……ユキ」
「夜凪さん、退院おめでとうございますっ」
トウワが一言ユキに言おうと口を開いた瞬間、待ち構えていたように看護士達が花束と共にトウワに押し寄せる。
そんな女性達に押し退けられるようにサツキは看護士達が取り囲んだ輪の外へと押し出されてしまう。
態勢を崩しかけて、何とか踏みとどまるとサツキはほっと息を吐いて離れてしまったトウワを見つめた。
差し出される花束を受け取るトウワに何となく複雑な気分になっていると、直ぐ横からユキの声が聞こえた。
「丸くなったよねぇ、セイ」
「だな」
驚いて横を見れば、今度は反対側から清一郎の声が聞こえて慌ててそちらを向いた。
清一郎は、両腕を組んでうんうんと頷いている。
サツキが何のことだろう、と首を傾げればユキが軽く手招きする。
「あのさ、トウワってば、ああやって囲まれるの凄い嫌いだったし、贈り物とかも結構酷いこと言って受け取らなかったりね」
ユキが清一郎に目配せすれば、肯定するように清一郎が深く頷く。
「あいつは俺と違って器が小さいからな、ありがとうなんて言葉、俺は初めて聞いたぞ」
しみじみと言う清一郎の言葉に、サツキは困ったように笑う。
同じような笑いがやはり近くから聞こえて来てそちらを見れば、困ったようなハルと目が合った。そして目が合ったまま二人で苦笑してしまう。
「ねぇ、メガネちゃん」
軽く肩を叩かれて、ユキを振り返ればすいっとユキの指がサツキの目の前を通ってその先を指す。
指の差す方向を辿るように視線を移せば、まだ談笑するトウワと看護士達の姿があった。
「やっぱさ、あれ複雑?」
「……え?」
問われてサツキは思わず小さく声を上げた。
「綺麗なお姉さん達に囲まれて鼻の下伸ばしてるし」
「夜凪君、鼻の下は伸びてないけど……」
ユキの言葉にハルが困ったように付け足した。確かに、喜んでいるわけではないのだろうトウワを視界に入れたままサツキは苦笑する。
確かにユキの言う通り、胸の中にもやもやとしたものがあるような少し複雑な気分だった。
けれど、サツキにはトウワがどんな行動を取ろうと止める権利はない、と思う。
「こんな健気で可愛い彼女を放っておいてさー、酷いねぇ、全く」
怒っているような口調のユキに、思わず笑いそうになってサツキは、はたとユキの顔を凝視した。
「か、かの……っ」
思わず流しそうになってしまった彼女という単語に思わず頬を染めればユキが楽しそうに笑う。
「うわっ、真っ赤。照れちゃって可っ愛い」
からかうように言われて益々頬が熱くなる。
「ずっと尽くしてもらって、男の風上にもおけんな」
同じように清一郎までが言うのに、サツキはまるで金魚のように口をぱくぱくと開閉させた。
「ユキ君、東君……からかっちゃ、可哀相だよ……」
サツキを気遣うようにおろおろと二人を止めるハルに、ユキは楽しそうに笑い清一郎は頷く。
「だって事実だし」
「そうだな」
ユキ、清一郎、そしてハルの顔を順に見て、サツキは慌てて首を振った。
「わ、私、彼女じゃ……」
「……何してるの」
漸く衝撃から抜け出して三人に反論しようとしたサツキの声を遮るようにトウワの声が被る。
同時に、ひやりとした手がサツキの手に重なった。驚いてトウワを見れば、もう一方の手には大きな花束を抱えている。
「トウワー、メガネちゃん寂しそうにしてたよー」
「そうだ、健気なメガネを放っておくなど、勘弁ならん」
笑い交じりのユキに続いて、うんうんと何度も頷いて清一郎も賛同する。
「へぇ、寂しかったんだ」
僅かに目を眇めて言われて、サツキはそんなことないという言葉を発することが出来ずに、ぱくぱくと唇だけが動くに留まる。
「二人とも……」
困ったように二人の後ろから留めるように言うハルのことなどやはり気にも留めないユキと清一郎に、ハルはおろおろと四人の顔順に見ることしか出来ないようだった。
トウワは慌てるサツキの顔を一瞥すると、小さく息を吐き出す。
「……ほら、帰るよ」
トウワの言葉に、サツキは「う、うん」と戸惑いながらも頷く。
「えー、折角トウワの退院祝いしようと思ってたのにー」
そこに、ユキがつまらなそうに口を挟む。
「ユ、ユキ君、夜凪君は退院したばっかりで、疲れてるから……」
「えー、どうせ病室で暇してたんだって」
「ユキ君……」
おろおろとハルがユキの名を呼ぶ。
「……退院祝いなんていらないよ」
二人の会話を聞いていたトウワが、溜息混じりに言えばユキが肩をすくめる。
「うわっ、そーいうこという?」
「夜凪君、折角お祝いしてくれるって言ってるんだし……」
呆れたようなユキの声にサツキが慌てて取り成すように声をかければ、トウワは、はぁ、と一つ息を吐く。
「……悪いけど、今日は疲れたから帰るよ」
その言葉に、ユキが少し驚いたようにトウワの顔を見て、にこりと笑う。
「じゃ、明日か明後日ね」
予定空けといてよ、というユキにサツキはほっとしながらも頷いた。同じようにハルが頷き、清一郎が勿論だ、と請け負う。
「では、俺が人力車で送っていって」
「遠慮するよ」
胸を張って言う清一郎が送って行ってやろうと言い終わらない内に、トウワがばっさりと告げる。
「なんだとっ、断ると言うのか」
トウワの言葉に、むっとしたように言う清一郎にトウワは平然と返す。
「当たり前だろ」
溜息混じりに言うトウワに清一郎は苛立つように眉を跳ね上げた。
「お前は昔から、何故人力車の良さを認めんのだ」
トウワに向かって言った後、清一郎がサツキを向く。ぐっと一歩迫られてわずか体が後ろに引いた。
「人力車は素晴らしいだろう?!」
「え、……あ、うん」
清一郎の勢いに押されて思わず頷いてしまう。そんなサツキに清一郎が満足そうに頷いてみせた。
「そうだろう。 ほら見ろ、メガネは乗りたいと言ってるぞ」
そうしてまたトウワに向きなおった清一郎に、サツキは慌てる。
確かに人力車それ自体は素晴らしいと思っているけれど、この近辺で乗るとなると話しは別だ。
向き直られたトウワはといえば、心底呆れたように深いため息をつく。
「……別に、乗りたいなんて一言も言ってないよ」
サツキの気持ちを代弁するように呆れ混じりにトウワが言うのに、清一郎は眉間にしわを寄せた。
「そんなことはない! なぁ、メガ……ネぇ?!」
突然裏返った清一郎の声にサツキはびくりと体を震わせる。ぱくぱくと金魚のように口を開閉し、震える手がトウワとサツキの間を指した。
「なっ、なっ、なっぁっ」
様子の可笑しい清一郎に、ユキとハルの視線も清一郎の指す方向へと向いた。
「あー……」
小さくなっていく、ユキの呆れ混じりの声に重なって、ハルの「手……」という呟きが聞こえる。
三人の視線を辿って、それが繋いだままの手にあるのに気付いて、サツキは慌ててその手を引き抜こうとする。
けれど、その瞬間にきゅっと僅かに力が込められたトウワの手に遮られてしまう。はっとしてトウワを見上げれば咎めるような視線がサツキに向けられた。
「……これ?」
トウワが握った手を軽く上げてみせる。上がった手を追うように、三人の視線も上がった。握られた指先が熱い、とサツキは思わず俯いてしまう。
「お、お前っ」
わなわなと清一郎が繋がれた手からトウワの顔へと指先を向ける。
鼻先に突きつけられた指は視野が狭まっているトウワの目にも映ったのだろう、嫌そうに顔を歪めた。
「……人を指ささないでくれる」
僅かにだが苛立ちを含んだトウワの声に、サツキは困ったように向かい合う清一郎とトウワを交互に見た。
「トウワの偽物ではあるまいなっ?!」
「……馬鹿も休み休み言ってくれる?」
ビシっと言い切った清一郎に、トウワが呆れたように溜息を零す。
サツキはといえば何で清一郎がそんなことを言うのか分らず、一人訳が分らないという風に清一郎とトウワの顔を見ることしかできない。
「……セイの言いたいこと、わかるかも……」
ぼそり、と苦笑交じりに聞こえた声にサツキがそちらを向けばユキが肩を竦めた。
「一体、どういう事……?」
清一郎の意味不明な発言に困惑することしか出来ないサツキは答えを求めてユキを見るが、ユキは肩を竦めるだけで答えてはくれなかった。
その横でおろおろと、見守っていたハルがサツキとユキの様子を見兼ねたのだろう、おずおずと口を開く。
「あ、あのね、夜凪君が人前で……手、繋ぐの初めて見た……から」
困ったように教えてくれるハルにサツキは思わず顔を赤くする。
「そうそう、今までのトウワを見てたら絶対に有り得ないし」
ハルの説明に付け足すようにユキが漸く口を開く。
言われてみれば確かに、サツキ自身だって、こうしてトウワと手を繋ぐことが日常になるとは思いもよらなかった。
きっと、トウワが目の病気等にならなければ、サツキと手を繋ぐことなんて一生なかったような気もする。
ユキとトウワの言葉に、サツキが苦笑いで返せば、くいと手が引かれた。
「帰るよ」
短く言われて、そのまま手を引かれる。
「え、夜凪君っ」
引かれながらちらりと今まで居た場所を横目見れば、愕然とした様子の清一郎が、かぱりと口を開けて固まり、ユキとハルがひらひらと手を振ってくれていた。
「あ、東君……大丈夫かな」
控え目にユキとハルに向かって手を振り返しながら、小さく呟けば、耳聡いトウワがちらりとサツキに視線を送った。
「あいつらがいるから平気だろ」
そう言うトウワを困ったように見上げれば何だか不機嫌そうで、サツキはそれ以上口を開くのを止めた。そして、少しだけ体温の低い手をそっと握り返したのだった。