戀 いとし、いとし、と言ふ心 3
トウワの車を運転して自宅に帰りついたサツキは、持たされていた鍵でトウワの部屋の鍵を開けると、中へとトウワを導いた。
「一応、少し掃除はしておいたんだけど……」
トウワが居ない間は実家の方へ戻っていたサツキは、短くない期間あけていたトウワの部屋を見回して床に何もないことをもう一度確認する。
小さなものでも目の不自由なトウワにとって怪我の元になってしまう可能性が高いのだ。
いくらトウワががっしりとしたタイプではないと言っても、何かあったときにサツキの力で支えられるものではないから、床に何もないことを確認した。
「そう……」
家具の位置などは今までのままなのでトウワが不自由することもないだろう。
「荷物片づけてくるね」
ソファにトウワを促して言えば、トウワはしっかりとした足取りでソファに座る。
それを確認して、サツキは入院生活中に使ったものを片付けに向かう。
衣類はとりあず洗濯籠に入れておいて、その他細々としたものは元あった場所に簡単に戻しておいてリビングに戻る。
「終わったよ」
声をかけて傍に寄れば、眼鏡をかけたトウワの視線が少しだけ彷徨うようにしてサツキの方を向く。
やはり病院にいる時や外にいる時は視界がきかないせいだろう、どこか張りつめた様子だったトウワだが、自宅にいるせいかほんの少し気が緩んでいるように見えた。
そんなトウワの様子に小さく微笑んで、サツキはキッチンへと足を向けた。
「紅茶、淹れてくるね」
「……いいから、こっち」
サツキの背にトウワの声がかる。
サツキは首をかしげながらトウワを振り返った。
ぽんぽん、とトウワの手がソファを軽く叩くのにサツキは小走りにそちらへと向かう。
「何か用事? 夜凪君」
何か雑用でもあるのだうか、と不思議に思いながら傍まで寄ると、トウワの手が伸びてきて強引にサツキを座らせる。
「ひゃっ」
驚いて声を上げるサツキにトウワが小さく笑う。
「変な声」
くすり、と笑われてサツキは顔を赤くする。
トウワの隣に座れば、彼の手がサツキの手を取って僅かに握り込むのに、サツキはメガネをかけたトウワの顔を覗き込んだ。
「夜凪君?」
トウワの突然の行動に何かあるのだろうか、とその瞳を見ればすっと細められ伏し目がちにトウワが視線を落とした。
その視線を追うようにサツキも視線を落とせば、トウワの指がサツキの手を弄びながら、時折指を絡めてくる。
「……煩いったらないね」
「え……?」
呟くように言われた言葉に、サツキはトウワの顔を見上げた。
一体何のことだろう、と僅かに首を傾ければトウワが小さく息を吐く。
「あいつら」
「……東君達?」
トウワのうんざりとした声にサツキがトウワの言う『あいつら』に考え到って声に出せば、溜息混じりに頷かれた。
「皆、夜凪君のことが心配だったんだよ」
「……どうだか」
サツキの言葉に短く返すトウワにサツキは困ったように笑う。
トウワの性格を知り尽くしている三人だからトウワに対してはあまり口にはしなかったけれど、清一郎は時間が空けば様子を見にきていたようだし、ユキは目が進行中の頃から舞台の大道具に関しては色々とサポートしてくれていた。
ハルだって、ずっとトウワのことを気にかけていてくれたのをサツキは知っている。
「……夜凪君」
困ったようにトウワを見上げれば、ふいにトウワが距離を縮めてきてサツキは僅かに身体を引いた。
「……なんで逃げるの」
「えっ、だって……」
不機嫌そうに言われて、サツキは益々慌てる。
ぐっと近くに寄ったトウワの前髪がサツキの額にかかって至近距離でトウワがサツキをじっと見つめていた。
視力が落ちてしまってから、かなり近い位置でなければトウワの目が何かを映すのは難しくなっているのは知っているけれど、やはり整った顔が近くになあるのは心臓に悪い。
「あ、あの、夜凪君」
頬が火照り、耳まで熱くなっている気がする。じっと見つめるトウワの視線と目を合わせることが出来なくて、うろうろと視線を彷徨わせれば、ぴんっと額を弾かれる。
「痛っ」
「ふっ……変な顔」
くつくつと笑いながら言われて、サツキはトウワを恨みがましく見る。
「いい加減慣れなよ」
サツキの額を弾いた手が、そのまま頬にかかった髪をサツキの耳にかけて、顎のラインを滑っていく。
「……慣れない、よ」
柔らかく緩んだ目元を見て、サツキは視線を落とす。
トウワが手術を約束してから、サツキの気のせいかもしれないが、トウワの目は甘く優しい。
今まで雑用を押しつけられ、その理不尽すぎる言動にばかりサツキの目がいっていたせいで、トウワに苦手意識のようなものを持っていたサツキがあまりトウワと目を合わせることが少なかったせいかもしれない。
そして、もう一つ、手術が終ってからトウワはサツキに良く触れるようになった。
今だって、少しだけ体温の低いトウワの手がサツキの手を包み込むようにしながら、指がしっかりと絡まっている。
「真っ赤」
「……夜凪君っ」
笑い交じりに呟かれた声にサツキは声にならない唸りを上げて、トウワから視線を外した。
今まで見えていたものが見えなくなって、日常生活にも不自由するほどの視力しかないのだ。
トウワは絶対に口にしないかもしれないが、もしかして不安なのかもしれない、とサツキは思っていたから手を繋ぐことも時折軽く抱き寄せられることも、そのたびに心臓が煩いくらいに跳ねていたが、何とか耐えてきた。
「……えっと、放、して……?」
ばくばくと痛いくらいの脈動にサツキが途切れがちに願う。
けれど、ちらりと見上げたトウワは楽しそうに唇の端を上げるだけだった。
「夜凪君……」
多分、これ以上無いくらい赤い顔になってしまっているのだろう、サツキはなんとか逃れようと握られた手を自分の方に引いた。
けれど、しっかりと握られていせいでトウワの手ごと自分の方へと引き寄せてしまう。トウワの体がサツキの方へと傾き、さらりとした髪が頬に触れた。
「……放さないよ」
囁くように耳元で言われてサツキはびくりと身体を強張らせることしか出来ない。
「サツキ」
甘く呼ばれてサツキはもう抵抗することも出来ない。頬を滑っていた手がサツキの顔を軽く持ち上げた。
楽しそうに眇められた目が眼鏡越しにサツキの瞳を捕え、静かに近づいてくるのにサツキは熱を宿したその瞳を見続けることが出来なくてそっと瞼を閉じた。
トゥルルル、トゥルルル。
優しい感触が下りてくる前に電話の呼び出し音が沈黙を破った。
突然の電子音にサツキが思わず目を開ければ、別に気にした風もないトウワがゆっくりと顔を近づけている所だった。
「夜、夜凪君っ」
思わず空いている方の手でトウワの唇を手で覆う。
「……何」
不機嫌そうなくぐもった声に、サツキは慌てて辺りを見回した。無造作にテーブルに放り出されたトウワの携帯が震えながら点滅している。
「け、携帯……」
鳴ってるよ、と段々小さくなる声で言えば、ちらりとトウワの視線が音のなっている方に向く。
「放っておけばいいよ」
携帯を取るのかと思えば、視線を投げただけでまたサツキの方を向いた。
「よ、良くないと思うっ」
サツキは、トウワの口元に宛てた手を引き剥がそうとするトウワの手を避けるようにトウワの携帯に手を伸ばすと眼前に差し出した。
トウワは携帯を通り越してサツキに視線を向けてくる。サツキは負けじとその視線を見返した。
二人の間に無機質な電子音が響き渡る。
「……はぁ」
先に視線を逸らしたのはトウワの方だった。もう一度だけサツキに視線を向けると眉を寄せてサツキの手から携帯を取る。
そしてどこか乱暴な仕草で携帯を開けると、応答ボタンを押して耳に当てた。
サツキはほっと息をついて、身体の力を抜く。
『もしもーし』
すぐ近くにいるせいだろう、携帯か聞こえてきた声は五月もよく知る人物のもので不機嫌そうなトウワを見上げた。
「……、何」
暫くの間の後、億劫そうに告げられた声にサツキは小さく震えた。
電話に邪魔されたからか、それともサツキが拒んだせいか、トウワは明らかに不機嫌そうだ。
『うわっ、なになに? 超不機嫌じゃん』
「……切るよ?」
『待ってってば、まだ何も言ってないよ、僕!』
慌てるユキにトウワは深く溜息をついたようだった。
「……何」
もう一度短く呟くトウワにユキが気の毒になってくる。
『あ、もしかして邪魔しちゃったとか? 僕もまさか帰ってすぐにメガネちゃんといちゃいちゃしてるとは思わなくってさー』
そんなユキの声が聞こえて、サツキは思わず頬を赤らめる。それと同時に、ピッという音がしてユキの声が聞こえなくなった。
「夜凪君?」
「……電話終わったよ」
終わった、というより終わらせたという方が正しい気がするがトウワにそんなことを言える筈がなくサツキは曖昧に笑う。
サツキの思いを証明するように、トウワの携帯がまたけたたましい音を立てた鳴り始めた。
「ユキ君からだよね? 夜凪君」
サツキの声にまた溜息をついて、トウワは携帯に出る。
「何」
『ちょっとトウワ! 勝手に切るなんて酷すぎるよっ』
怒り心頭という風なユキの声は先ほどより大きく聞こえてくる。
『メガネちゃんとゆっくりいちゃいちゃしたいのはわかるけどさっ』
「分ってるなら、かけないでくれる?」
呆れ混じりのトウワの切り返しに、電話の向こうが沈黙するのがわかる。サツキも先ほどよりも頬が熱くなっているのを感じながら、声にならない呻きを洩らしていた。
『あーもー、僕相手に惚気ないでよ』
溜息とともに聞こえてきた声に、トウワが僅かに笑うのが見えた。
「ユキが電話してきたからだろ」
『あーあー、聞こえないっ! とりあえず明日のことだけどっ』
自棄になるようにユキが電話越しに叫ぶ。店の名前と時間を告げるユキにトウワが億劫そうに返事をしていた。
そして、最後に大きく溜息が聞こえたかと思うと、ユキの声が続いた。
『ほんっと、トウワ……』
「うるさいよ」
最後の方はほとんど聞こえなくてサツキが首を傾げれば、トウワが少し焦るように携帯越しに告げてすぐに通話を切る。
「夜凪君?」
そのまま電源も落としてしまったトウワはどこか慌てているようでもいて、にサツキは不思議に思いながらトウワを見上げた。
すると、同じようにサツキに視線を向けたトウワと目が合って、熱をを宿した瞳がじっとサツキを見つめた。
「これでいい?」
「え?」
携帯をまたテーブルへと置いて、トウワがサツキの背を抱いた。トウワの言葉の意味が咄嗟に理解できなくて、サツキは思わず声を上げた。
ぐっと近いた距離に、額同士が触れ合って焦点すら合わないほど近くにトウワの瞳があった。
「えっ、あっ」
意味のない声がサツキの唇から洩れる。くつり、とトウワが笑う音がして、トウワの瞼がゆっくりと降りる。それに合わせるようにサツキもゆっくりと瞼を落としていく。
トゥルルル、トゥルルル。
視界が瞼に覆われる前に、またしても響き渡る電話の音に、サツキはまた瞼を上げた。
「夜、夜凪君、電話が……」
先ほどトウワの携帯は切ったばかりなので、今度鳴っているのは家に備え付けられた電話の方だった。
困ったようにサツキは告げる。先ほど、トウワに電話に出るように言って不機嫌にさせてしまったので今度は強く言うことが出来ない。
戸惑うように見上げれば、トウワは大きく溜息をついてサツキの方に傾けていた身体を起こした。
背に回されていた腕が離れ、握られた手が緩んだのにサツキはおずおずとトウワを見上げる。
トウワはと言えば、やはり不機嫌そうにサツキに視線を落とすと、くいと顎で音のする方を指し示す。
つまり、サツキに出ろということだろう。
サツキはソファを離れて受話器を取ると耳に当てた。
「もしもし」
『夜凪様のお宅でしょうか』
「あ、はい」
はきはきとした声にサツキは慌てて返事をする。
『わたくし、大都劇場の……』
名乗る相手の言葉を聞きながら、サツキはちらりとトウワに視線を移した。
退院して家に帰ったばかりなのに電話をしてきた相手に何故わかったのだろうと不思議な気持ちになるが、どうやらかなり以前から電話をしてくれていたようだった。
『トウワ様はいらっしゃいますか?』
「はい、少々お待ちください」
サツキは保留ボタンを押すと、トウワの傍に寄る。
「夜凪君。 大都劇場の方から電話なんだけど……」
「大都?」
サツキの言葉にトウワが首を捻る。何度か電話を頂いていたみたい、と告げればトウワの方は全く気にしていない様子で立ちあがる。
サツキはトウワの手に自分の手を重ねると危ないわけではないのに電話の所へと誘導してあげた。
トウワの手に受話器を渡し、保留を解除する。
「お待たせしました、夜凪です」
そうトウワが口を開くのを聞いてサツキはソファへと戻る。
大事な話であれば、サツキが聞くわけにはいかないだろうという配慮だったが、一体何の話なのだろうとちらりとトウワに視線だけ向ける。
「はい、……はい……」
トウワは短く返すばかりで一体どんな話をしているのか推測することも出来ない。
サツキは一人ソファに座ったままトウワの電話が終るのを待つ。暫く話しをしていたトウワがやはり短く相手に返して受話器を置いた。
それと同時にサツキはトウワの傍に寄るとトウワの手を取る。
「何かあったの?」
若いながらも演出家として評判の高いトウワはステラ歌劇団だけでなく様々な所から依頼を受けていた。
目のことが周知の事実になり、ステラ歌劇団を除くすべての契約が打ち切られたが、その際の契約の問題だろうか、とサツキは心配を隠せずトウワに問う。
トウワはサツキの言葉に首を振って吐き捨てるように告げた。
「違う。 仕事の依頼」
「……え?」
トウワの言葉にサツキは目を見開く。仕事の依頼だと言うトウワの言葉を確かめるようにじっとその瞳を見上げた。
胸の奥が震え、言葉が喉の奥につまったようになってしまう。
「……何?」
じっと見上げるだけで黙ってしまったサツキを訝しんだトウワが問うのにサツキはトウワの手を強く握る。
「良かったねっ」
視力が失われていくというハンデがありながらヒカリのトップ就任講演をやり遂げたトウワをずっと見ていたサツキにとって、トウワの努力が認められたのだということが嬉しくて仕方ない。
思わず涙ぐみそうになりながら、満面の笑みを浮かべる。
「……お前ね……」
サツキとは裏腹にトウワは呆れたようにサツキを見て、短く息を吐いた。
「だって、夜凪君のことが認められたんだよ? また演出家としての夜凪君の舞台が見られるんだよっ」
この嬉しさをどう伝えていいか分からず思いつくままに告げるサツキにトウワは本当に呆れたように溜息を吐く。
「断るよ」
そして、その後に続けられた言葉がサツキは初め理解出来ず、ぽかんとしてしまう。
「……断る?」
トウワの言葉をそのまま繰り返してやっと、それが依頼を断ることだと分かってサツキは目を見開いた。
「えっ、夜凪君っなんでっ」
「……あのね、見えない人間に演出は出来ないでしょ」
慌てるサツキにトウワが淡々と告げる。
いつもより感情のないその声にサツキは更に目を見開いた。
「でもっ」
トウワは全く見えないわけではないのだ。
視力はあまりよくない状態ではあるが、保たれているし、そんな状態でもトウワはあの舞台に素晴らしい演出を行ったのだ。
「夜凪君はっ」
きゅっと気持ちをぶつけるようにトウワの手を握りしめる。
視力と引き換えに舞台の演出を行ったトウワ。
人にも物にもあまり執着というものを持たないトウワだが、鈍いサツキにだってトウワにとって舞台の演出を行うことが特別なのはわかる。
トウワだって、本当はまだ演出を行いたいとそう思っているのに何故断るなどというのかサツキにはわからなくてトウワの顔をじっと見上げる。
トウワはサツキの視線を受けても表情すら変えず、そのまま一歩足を進めた。
「二度も邪魔が入るなんてね」
はぁ、と先ほどの話を打ち切るようにトウワが言葉を紡ぐ。
危なげない足取りで、サツキの手を引くようにソファに身を鎮める。
「夜凪君……」
これ以上、依頼の話はしないという意思表示だろう。トウワの言葉にサツキは戸惑うようにソファに座った彼を見下ろした。
「何をする気も失せたよ。 サツキ、お茶淹れて」
はぁ、とため息をつきながら言うと目を閉じたままサツキに告げる。
「あ、う、うん」
トウワの言葉に反射的に頷くと、サツキは小走りに台所に向う。
その途中、ちらりと後ろを振り返ればトウワはソファの背もたれに身体を預けて、片手で顔を覆っていた。
顔というよりも両目といった方がいいかもしれない。
あっ、と小さく声が出そうになって慌てて口を閉じる。
疲れているのか、それとも先ほどの電話のせいか。きっと後者のせいだろう、天を仰ぐようにしているトウワにツキッと胸が痛んだ。
サツキはそっと目を逸らすとお茶を淹れる為に台所へと急いだ。