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◇◆ A spring storm ◇◆
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彼との出逢いは
春の嵐のように突然舞い込んで、うたかたの幻のように消えた―― ◆ Before half a year 「最近さぁ、すごく疲れちゃって、なんにもやる気が起きないの。夜もよく眠れないし……」 カウンターに片腕だけを伸ばして突っ伏しながら、私を見上げるように仁美がつぶやいた。 ティーカップに残る水の雫を念入りに拭き取り、ため息混じりに仁美を見下ろして 「仁美ってば、毎日そんなこと言ってない?」 片眉を上げながらそう言ってみたけれど、仁美の耳は、都合の悪いことが何一つ聞こえないらしい。 「ということで、トリプルローズティーをプリーズ!」 呆れた様に白目を剥いてから、後ろの戸棚に向き返り、 ローズヒップとローズレッド・ローズピンクのハーブが入ったキャニスターを取り出した。 私がまだ幼い頃、ガーデニング好きの母が始めたハーブの栽培。 そんな母の真似をして、自分でも色々と試すようになったのが中学生の頃だった。 在学中に両親が事故で他界し、進路や学費のことなどを考え、途方に暮れていた私に、 高校時代からの親友『仁美』から電話があったのは1年前の春のこと。 「パパがさ、ケーキ屋の隣でハーブティーの喫茶店を開くらしいんだけど、香里にお店を頼めないかだって!」 仁美のパパは、葉山で有名なパティスリーを営んでいて、仁美もそこで修行を積んでいる。 元々店内の一角に、小さな喫茶コーナーを設けていたのだけれど、 隣のテナントが空いたので、それを期に喫茶コーナーを別部門として展開したいとのことだった。 いくら雇われ店長だとしても、経営学は無知に等しいし、接客業にも自信がない。 だから最初はその有難い申し出に躊躇したけれど、仁美のパパの一言で、やってみようと決心した。 「香里ちゃん? 店の名前は『Source of aroma』にしたんだよ」 私の名前は、源 香里(みなもと かおり)。 そして『Source of aroma』とは、『香りの源』という意味の名前。 ハーブティー専門の喫茶店であり、お客様の要望でハーブ薬やアロマオイルを調合したりできる店。 ハーブが大好きな私のために作ってくれた、仁美のパパの優しさの詰まったお店だった。 そんな経緯で『Source of aroma』が開店したのは4ヶ月前。 お隣のケーキがそのままの値段で食べられて、自分のオリジナルハーブティーが作れるという口コミで、 昼下がりのお店は繁盛していた。 ケーキセットが主流のこの店は、夕方になると客足が途絶える。 忙しい時間帯だけアルバイトを数人雇ってはいるけれど、閉店の作業は私だけで行う。 既に隣のパティスリーも閉店しているため、柔らかい波の音が聞こえるほど静かな店内。 時計を確かめてから、ドアに飾られているトールペイントで描かれたお気に入りのOPENボードをひっくり返す。 ロールカーテンをいつものように端から下ろし始め、椅子をテーブルの上にあげ始めたとき、 来客を告げるドアベルが、心地よい音を響かせながらカランと鳴った。 「申し訳ありません。本日はもう……」 そこまで言ってから振り返り、それから先に続く言葉を失った。 30歳前後の男性が、老婆のように体を屈めながら眉間にしわを寄せ、 陣痛の起きた妊婦さんのごとく、浅く深くの呼吸を繰り返し、腹部を押さえてうずくまっていた。 「だ、大丈夫ですか? きゅ、救急車を呼びますね!」 カウンターの中にある電話まで、急ごうとした私の腕をつかみ 「頼むよ。ただの胃痙攣だから、直ぐに治まると思うんだ。だから少しだけ休ませてくれないか……」 男性が痛みに顔を歪ませながら、声にならない声で囁いた。 息を止めていることにも気づかず、了解の意味のうなずきを何度も繰り返した後、 パニックで頭の中がグルグル回りながらも、なんとか店内のソファーへと男性を導きそこに寝かせた。 カウンターに急いで戻り、ハーブレシピの書き込まれたノートをすぐさま広げる。 人差し指で『胃痙攣』という文字を追い、目的の箇所を見つけてメモを取ると、 続き扉の向こうにある、小さなハーブの温室へと急ぐ。 メモに書いたハーブを摘み取ってまた店へ戻り、それをすり鉢で丹念にこすり合わせた。 優しいとは言いがたいキツイ香りが立ちのぼり、思わずその匂いに咽ながら、 ハーブの精油を少々加えてとろみを付け、出来上がったものをガーゼに塗り、それをまたガーゼで挟む。 依然として、規則正しい変な呼吸を続けている男性のそばに駆け寄り、右手で鷲づかみしている腹部を見やる。 そっと男性の手をどかせ、その箇所にたった今作ったハーブの湿布をあてがろうとして、 これから自分のやろうとしていることに、大いに躊躇した。 「湿布を作ってみたはいいけど、貼るにはシャツを脱がせなきゃだよね……」 独り言をブツクサ言って散々迷った挙句、結局湿布をテーブルに置く。 代わりに、男性の鼻腔にセントジョーンズワートオイルを、チョンと指先でなすりつけた。 「うっわ、なんだよこの匂い!」 朦朧としながら、男性が言葉を発する。 鋭く怒鳴っているつもりらしいが、痛みに耐えているのでほとんど言葉になっていない。 手で鼻についたオイルを拭おうとするので、それをやめさせようと男性の両手を握り塞ぐ。 「黙って。それと、拭いちゃだめ! 文句はこんな店に入り込んできた自分にすることね」 私の言葉に唖然とし、口をあんぐりと開けている男性の顔に噴出しそうになりながら、 覚悟を決めて、ハーブ湿布を貼ろうと男性のシャツのボタンに手を伸ばした途端 「やめろよ。 そんな元気、今はないって」 片側の口先を少しだけ吊り上げて、男性が意味深なニヤケ顔をした。 「はいはい。それだけの口が利ければ問題ないわね」 そう言いながらも、恥ずかしさで頬が熱くなる。 けれどめげずにボタンを外し、丁度胃だと思われる辺りにハーブ湿布をあてがった。 妙なうめき声を発する男性を無視して、防寒用のひざ掛けをそっと男性の上へとかけると、 男性の瞼がゆっくりと閉じられて、今度は本物の規則正しいゆっくりとした呼吸に変化した。 男性が眠りについたことを確認してから、ようやく安堵のため息をつく。 それから男性を起こさないように、まだ残る仕事へと取り掛かった。 そっと店内の後片付けを済ませた後、半年前に買ったノートパソコンを起動させる。 ネットでのハーブ販売は、仁美の提案だった。 メールで詳細を話し合い、その方に適したオリジナルハーブを調合して販売する。 メールアイコンをクリックし、アウトルックを立ち上げると、本日のメールは16件。 どのメールも、お得意様からのものだった。 ちょっとした自作のカルテに、やはり自作の処方箋を打ち込み、それを見ながら注文のハーブの調合を始める。 時折ソファーで眠る男性の様子を垣間見るけれど、相変わらずよく眠っているようだった。 最後の調合を開始したとき、不意に耳元へ息を吹きかけられた。 驚きの悲鳴とともに、持っていたハーブ缶を放り投げる。 「なんだか魔女みたいだね」 すっかり元気になったらしい男性が、見事にハーブ缶をキャッチして、笑顔で私を見下ろしている。 「ビックリするじゃない!」 鼻にしわを寄せて文句を言えば 「そういう顔をすると、更に魔女っぽいよね」 今度は痛みではなく、笑いをこらえるために胃を押さえながら男性が言っている。 「こんなやつ、助けるんじゃなかった!」 つぼに入ったらしく、笑いが止まらないらしい男性にイライラしながら時計を見れば、 既に22時を回っていた。 つられたように男性も時計を見やり、ようやく笑いを止めて驚きながら言った。 「いつもこんな時間まで仕事をしているのかい?」 ここまで遅くなることはないけれど、なんだかんだと21時頃までは店に居る。 でも、彼のせいで遅くなったと思われるのがなぜか悪い気がして、彼の言葉に頷いた。 「そうね、大体このくらいの時間かな。それより、すっかり元気そうね?」 「おかげさまで。どうやら、この恐ろしく臭い『黒魔術風湿布』のおかげらしい」 親指と人差し指の2本でつまみあげた湿布をふりながら、男性が言う。 「それはどうも」 目を合わせず辛辣に返答しながら、ポットに数種類のハーブを入れる。 カルダモンとジンジャーをベースにした、胃に優しいハーブティー。 お湯を注ぐと優しい香りが漂い、ついその香りの上で深呼吸を繰り返した。 そんな私を見ていた彼が、うさんくさそうな顔でポットを指差しながら聞いてくる。 「で、その魔女のお茶を飲めば、不老不死になれるとか?」 「そうよ。世界征服も夢じゃないのよ?」 そう言いながら、1つのカップを彼の前にコトンと置くと 「女の飲み物だろ?」 軽く匂いを嗅いだ後、しかめっ面で文句を言い出す彼。 けれど一口すすった後は、予想外の出来事に困惑しているようだった。 「意外とおいしいでしょ?」 歯を剥きだした、わざとらしい笑顔で彼に言えば、絶対に褒めるもんかとばかりに話題を逸らす。 「君の店? 『香りの源』って名前、めちゃくちゃ安易だな」 確かに安易な名前だけれど、誰にもそれを指摘されたことがなかったから聞き返す。 「なぜ?」 「だって君の名前は、源 香里でしょ?」 カウンターに無造作に置かれた手紙の山を指差しながら彼が言う。 彼の洞察力に驚いて、目をクルリを回す。 けれど彼が無意識に胃をさすっているのを見て、顎で彼の胃を指しながら言った。 「病院にいったほうがいいわよ?」 「行ってるさ。けど、究極のストレスを感じると、こうやって胃痙攣を起こすのさ」 両手を上に上げて肩をすくめる。 「究極のストレスって……いったいどんな仕事をしているの?」 眉間に皺を寄せて彼を見れば、彼がにこやかな顔で抽象的に答えた。 「ただの公務員だよ」 公務員といっても、色々な職業がある。 彼の身なりは、オーダーではなく、どこででも買えるポリエステルのスーツにオーソドックスな茶色の革靴。 けれど先ほど湿布をあてがうときに見た腹部は、筋肉で腹筋が割れていた。 どんな職業なんだろう? そんなことをボケっと考えていると、彼がいきなり言い出した。 「そろそろ閉めるんだろ? 遅いから、部屋まで送るよ」 「それは、送ってくれてどうもありがとう! と、先に言ったほうがいいわね」 指で天井を指しながら、嫌味ったらしく彼に言えば 「え? ここに住んでるの? それは、その……すごい通勤便利だね」 立ち上がり、ポケットから財布を取り出しながら、言葉に詰まる彼。 そんな彼の様子を見て、次に何を言うのかが解った私が先に申し出た。 「あ、お金はいらないわよ?」 「そんな訳にはいかないよ!」 「今回は特別。次回からはちゃんといただきますから」 手のひらを彼に向って押し出すと、少しためらった後、笑顔で彼が言った。 「じゃあ、また明日くるよ!」 それから毎日、彼は閉店間際の店にやって来ては、 くだらない会話と、小ばかにしながらも2杯のハーブティーを飲んで行くようになった。 土日には早い時間から店に現れて、店を手伝ってくれたり、仁美ともふざけ合ったり…… そして帰り際には、必ず同じセリフを吐いた。 「じゃ香里、また明日ね!」 こうして、時間は穏やかに過ぎて行った。 なのに私は、彼のことを何一つ知らなかった。 名前が『望月大樹』だということと、職業が公務員だということ以外は何一つ。 だから彼がパッタリと店に現れなくなって、最初は病気を心配したけれど、 現れなくなった時間が長くなればなるほど、くだらない妄想がこみ上げて、 彼はもうここにこないと確信するようになっていった。 彼が最後に現れた日の、最後の言葉。 「香里、またね……」 そう。『明日』 という言葉だけが抜けていたから―― プロローグ 1 END |
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