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◇◆  The dream inside a dream ◇◆
 夢の中で眠りにつき、夢の中で夢を見た。
 我ながら、特異体質だと思うけれど、夢の中の自分が夢を見て、その夢が余りにもリアルなものだから、夢から覚めても、現実と混同してしまうことが結構ある。
 というか、夢の中の夢なのだから、夢に覚めるべきだと思う。
 それなのに、夢の中の夢から覚めるときは、夢をすっ飛ばして、現実に戻る。
 だから、可笑しなことになるのだと思っても、こればっかりは、操れないから仕方がない。きっと。

 夢の内容までは話さないけれど、この特異な話をすると、本間や亮ちゃんは挙って、夢の中の夢は、意外と現実だったりするのではと言いますが、それ、有り得ません。
 何故なら、夢の中の夢に登場する人物は、毎度必ず、克っちゃんだからです。
 あの、実情に即して判断をする、確固たるリアリスト男が、あんな言動を起こすはずが有りません。
 そして今日も、夢の中で夢を見ました。
 何やら恐ろしく、目覚めが悪いのですが、こんな夢を見た自分が気の毒です。
 さらに、そんな夢に登場させられたこの人は、最大の被害者かも知れません……

「なんで朝っぱらから、そんな、あからさまに目を逸らすんだ」
 洗面所にて、電動ハブラシに歯磨き粉を付ける克っちゃんが、嫌疑をかけた瞳で私を見下ろす。
 そんなことを言われても、あんな夢を見た後で、堂々と直視などできるはずがない。
 だから目を逸らし続ければ、確信に満ちた言葉を、克っちゃんが唱え始める。
「まさかまた、お前は……」
「ち、違うよ? 克っちゃんにキスされる夢を見ただけっ」

 全国の克っちゃんファンの皆さんご免。この男、今、吐き出しました。げほっと。
 さらに、口の周りについた白い練り状物体を、拭うことも忘れて固まってます。あんぐりと。
「うぃや、や、その、う、上手かったよ? すっごくネチっこくて」
 その後の雷を回避しようと、しどろもどろで褒め称えたものの、回避するどころか直撃です。
「現実に起きた出来事のような、言い草はやめろっ」

 今日見た夢も、いつもの夢だ。夢と言っても、数年前、本当に起きた出来事なのだけれど、克っちゃんに対して疚しさを抱くと、何故か決まってその過去再現夢を見る。
 しかも、夢の中で眠りについた後の妄想が酷い。
 否、なんと言うかその、夢の中の夢で、私は克っちゃんとキスをする。それも濃厚なやつ。
 さらにそこで、克っちゃんとのキスに溺れながら、私はいつも同じ台詞を吐く。
『克っちゃん行かないで…美也を置いて行かないで……』
 すると克っちゃんは、やっぱりいつも同じ台詞を、返して寄越す。
『行かないよ。美也がそう望む限り、俺は何処にも行かない――』

 そう考えると、昔から私は事が起きる度、この言葉を克っちゃんへ投げ続けている。
 最古の記憶は、小学校の低学年時で、ただ一人、学童保育に預けられたときだ。
 さらに中学生の頃、偏差値が足りず、秀和を受験することができなくなった私は、同じように泣き喚き、克っちゃんに縋り付いて事切れた。
 そしてそのときも、夢の中の夢で、私は克っちゃんとキスをした。こちらは淡白なやつ。
 だから、ファーストキスの相手は、克っちゃんなのだと断言する。
 否、妄想だけど、これを省くと、お相手が日改くんになっちゃうから、出来れば克っちゃんということで。

 しかし、何故こんなにも、克っちゃんに置いて行かれるのが、怖いのか解らない。
 多分、何かの心的外傷が絡んでいるのだと思う。いわゆる、トラウマってやつだ。
 そしてそれは、実母の死に関係するのではないかと思うのだけれど、何せ幼稚園時代の話だから、記憶が定かじゃないので、完全に推測だ。
 けれどこの、思い詰めると無意識に出る言葉が、克っちゃんを縛り付けている気がしてならない。
 現に、林くんの一件で、独立するはずだった部屋を、克っちゃんは解約した。
 だけどあのときは、夢の中で喚いただけで、実際にはこの言葉を吐き出していない。
 あれ、言ったのか。否、言ってないはず……まぁ、私の頭は、いつもこんな程度だ。悲しいけど。

 それでも、もういい加減、克っちゃんを解放してあげたいと思う。
 夢の中の夢と、夢と、現実が、ごちゃごちゃになっている気もするけれど、それはそれだ。
 いつも克っちゃんは、誰かのために自分の気持ちを押し殺し、誰かのために我慢する。
 性分とも思うけれど、もっと我が侭に、もっと自己中心的な生き方をしたって、誰も怒らないはずだ。
 だから、克っちゃんのお荷物から、私を下ろして欲しいと願う。
 自分で言うと、物凄く情けないけれど、多分、最大のお荷物はこの私だ。多分だよ、多分。

「克っちゃん? あ、あのさ……私を置いてっていいよ」
 何の脈略もなく、切れるほど鋭い単刀直入加減で、本題を告げる。
 すると驚いた克っちゃんが、全ての動きを止めて、無表情のまま口だけ動かした。
「それって、もう俺は、必要じゃないってこと?」
 これまた予想外の展開だ。ちゃんと説明しようと思っていたのに、克っちゃんの言葉と無表情の所為で、上手い言葉を見失う。
「そ、そうじゃないよっ。そうじゃなくて……もっと我が侭に」
 それでも、どうにか伝わったらしく、立ち去る間際、私の頭を小突きながら、克っちゃんが明言した。
「お前に言われなくても、そうするつもりだ」

「おはよう。兄貴は何を、そうするつもりなの?」
 克っちゃんと入れ違いに、洗面所を訪れた亮は、明らかに、出社するつもりが無いといった具合の出で立ちで、歯磨き粉に手を伸ばす。
「あれ? 亮ちゃん、今日会社お休み?」
 タオルで顔の水滴を拭い、亮の格好を上から下まで眺めて告げれば、亮の眉毛がひくと持ち上がる。
「この間、言ったよね? 今週末は、ジムの合宿だからねって」
 そんな話を、聞いた記憶もあるような。ということは、明日の土曜、私はDVD三昧ですね。
 もっと早くに思い出させてくれよ。レディースデーじゃないと、レンタル料金が高いのに。

「亮ちゃん、そういう話は、木曜日に念を押してくれなきゃ」
 自分の物忘れを棚に上げ、亮に文句を呟いたところで、亮が上から言葉を被せる。
「美也? 日曜の昼には帰ってくるから、それまで……」
 目の前で、薄っすらと口を開き、キスを強請るような、首の傾け方が堪らない。
 これはもう、この週末、私に悶々と疼いていろと、強いている気がしてなりません。
「それまで、何っ?」
 憤りを露に、亮のお腹を拳で殴るけれど、殴った手の方が痛かった。何、このお腹。
 そこで、痛さを誤魔化そうと手を振れば、亮が笑いながら、妙なことを言い出した。
「まぁいいや。本間さんが、土曜に美也と飲むって言ってたし」

 そんな話、全く聞いてません。あれ、聞いたか。否、絶対に聞いてない。多分……

 桜の蕾が膨らみ、もう春ですね。あ、否、もう散り始めましたか。
 ですが、本間さんの蕾は膨らんでおりますよ。こちらは年中春爛漫ですが。
「ほ、本間お前、ま、まさかノーブ……」
「いやだ、みゃあ、付け乳首だってばぁ!」
 付け爪や付け睫毛などは、知っておりますが、流石にそれは初耳です。
 お洒落と呼ぶには、何かこう、程好い抵抗を感じるのですが、これは貧乳の僻みでしょうか。
「何故そんな、意味のないことを……」
「おっきいけど、垂れてないのよスー。って意思表示?」
 意思は、確と刻みました。けれどそれは、立派な詐欺でしょう。
 ということで、こちらはオレオレ詐欺ではなく、ユサユサ詐欺と命名します。はい決定。

 亮の宣言通り、本間と飲むことになったけれど、これで私の記憶は、確かだと立証された模様。
 何故なら、今日、本日、当日、お誘いのメールが送られて来たからだ。
 当然、私に用事など無く、昼過ぎから赴いたビデオ屋さんで、七和をからかいがてら、DVDを選んでいるときに、そのお誘いメールが届いた。
 さらに、文面を音読してしまったため、隣に居た七和の伊達眼鏡が妖しく光る。
「松本さん、そこの店なら、パパゲーナですよ。チョコクリームリキュールと生クリームのカクテルで、モーツァルトのオペラ魔笛に登場する娘の名から……」
 相変わらず、あの男は本当にトリビアだ。雑学的な事柄や知識が、無駄に多い。無駄にデカイし。
 けれど、絶対に飲みますパパゲーナ。太りそうだけど。

 お花見シーズンが、終了してしまったからなのか、異常な人数の熱気に包まれる店内。
 ボックス席には座れず、長テーブルに仕切り板といった具合の、相席と相成りました。
「で、どういった経緯で、その四人がネズミーに行ったわけ?」
 七和お勧めのパパゲーナを、メニューから見つけて、ほくそ笑む。
「ん? 萩乃ちゃんとナナワが、互いに二枚ずつチケットを当てたからだよ」
 けれど、キスミークイックも捨て難い。今直ぐキスしてだよ? どんな味かは知らないけれど。
「てことは何? 七和がみゃあを誘って、女狐が弟くんを誘ったってこと?」
 そこで漸く、メニューから顔を上げ、聞き捨てならない言葉に反論を試みた。
「失敬な。萩乃ちゃんは私を誘ったのっ」
「やっだぁ、それじゃぁ、七和はヤオイじゃない」

 確かに七和は、ヤマなし、オチなし、意味なしな男ではあるが、本間は完全に、やおいの使い方を間違っている。やおいの文化を嘗めたらあかん。三千のど飴っぽく。
「あのね、ヤオイってのは、男性同性愛者を指す言葉ではなく、純粋なる……」
 けれど、やおいのいろはを、熱く語ろうと口を開いたところで、本間が話を摩り替えた。
「まぁいいわ。それで、その話が、どうしてああなっちゃうのよ?」
 ああなっちゃうの、ああが、何を指すのか知らないけれど、七和はやおいではなく、キムチです。
「いや、それがさ? ナナワはレモンを超えたキムチな男でね?」
「な、なんだか、大人の恋物語みたいだわね……」
 やはり本間だ。話が早い。そのくせ、やおいを知らないから、ムカツクけれど。

「キスミークイックを、クイックで」
 可愛らしい店員さんを捕まえて、飲み物を頼む。ここまで生粋のオヤジギャグを飛ばすと、流石の店員さんも、笑い出すから止められない。
 こういった可愛らしい娘さんの、握り拳を鼻に当てる仕草は、萌えだよ、萌え。
 それなのに、この萌えが解らない女は、店員さんが可愛いだけに、素の口調で文句を垂れる。
「ちょっとみゃあ、恥ずかしいから、止めろっつってんだろ」
「なにがだよ? あ、娘さん、パパゲーナも、序にパパっとよろしくね」
 けれどここで噴出したのは、本間でも店員さんでもなく、お隣の席の方だ。
 仕切り板の合間から、お隣さんを覗こうかとも思ったけれど、店員さんが、注文を復唱しはじめたから、それを忘れて萌えに走る。

 萌えな店員さんが立ち去っても尚、メニューを覗き込む。
 人間とは、注文を終えた後も、なんとなくメニューを覗くものだ。多分。
 そんな私に、おしぼりで手を拭く本間が、訳知り顔で言い出した。
「ははん。また余計なことに首を突っ込んで、克っちゃんに窘められたんでしょ?」
 今日は、甘い物に目が行く。キャラメルポップコーンが、やけに輝いて見えるよ。追加しようかな。
「いや、克っちゃんにはされてないよ? 亮ちゃんにはされたけど。毛布じゃ無理って」
「あっ? や、いいわ。やめとく。面倒そう」
 面倒とは何事だ。別に、面倒な話などでは全くない。説明するのは面倒だけど。

「ねぇ、もうちょっと詳しく説明してよ」
 話に集中させようと、私からメニューを取り上げ、本間が吠える。
 けれど取り上げられる間際、桃っぽい画像が見えたものだから、怒りを込めて言い返す。
「だからぁ、萩乃ちゃんが兄に電話を掛けたら、ミヤさんが出たんだよっ」
 ところが本間は、克っちゃん並みの、とんちんかんな言葉を瞬時に放って、嘲笑う。
「さては、また酔っ払って、石岡兄の携帯を着服したな?」
「何故そうなる。なんだその、克っちゃん思考は」
「誰だってそう思うわよ。あんたを知ってりゃ」
「失敬な」

 自分をミヤさんなどと呼ぶものか。けれどまた、ミヤさんの苗字を忘れちゃったから、どうしようもない。
「ミヤさんは私じゃなくて、ほら、薔薇のような、耶馬台国のミヤさんだよ」
「棘のある呪術師?」
「違うよ、美しい花のコブラっ!」
「コブラぁ? まさか、あんのアキバカッのこととか言わないわよね?」
 はっきり言いすぎだろそれ。しかもコブラで閃くな。言ったのは私だけど。
 けれどそこで、二つほど、はっきりした事柄がある。一つはミヤさんの苗字で、もう一つは……
「本間、やっぱりお前がマングースだったんだね」
「無礼者っ」

 本当に、クイックで届いた、キスミークイック。
 オレンジ色に輝くそれを見て、心踊りながら一口啜る。が、とてつもなくショックです。
 豚の角煮を、食べている気分になるのは何故でしょう。あ、解った、これ八角だよ。八角味。
 八角入りが発覚したカクテルを、テーブルの奥に押し遣って、項垂れながらパパゲーナを引き寄せる。
 七百円もするのに、飲まないのは勿体無い。けれど、素面じゃこれは飲めない。
 とりあえず、酔っ払って味が解らなくなった頃に、もう一度挑戦しよう。勿体無い。
「てゆうか何? マジで、あのアキバカが絡んでんの?」
「萩乃ちゃんは、そう言ってるんだけど、ナナワが何かを知っている気がするんだよね」

「あぁ? 七和とアキバカも繋がってんの? あ、やつらも秀和か」
 ココア色のパパゲーナは、匂いからして、チョコレートだ。
 少しだけ不安になりながら、それをコクンと飲めば、こりゃ旨い。もう最高。
 カクテルというより、デザートに近い。なんというか、生チョコを食べているみたいな感覚だ。
「うん、そう。何でも、亮ちゃんと七和で、ミヤさんを取り合ったんだって」
「ちょちょっと、もしかして、この間の勘違いは、それが原因なわけ?」
 キュキュットは知ってるけど、チョチョットは知らないな。
 さらに、パパっとパパゲーナを一気飲み。否、マジで旨いから、これ。

「本間くん、一体私が、何を勘違いしたと言うのかね?」
 七和がこの場に居ない今、もう間違いは犯したくない。
 だから、定番のモスコミュールを頼んだ。ジンジャエールに間違いはない。しかも安いし。
「みゃあが、泣いた理由だってば」
 本間は何を言っているのだろう。私が泣いたのは、勘違いや間違いではなく、花粉の所為だ。
「あれは、花粉と寒さが原因だよ。あ、あとティラミス」
 真実をはっきりと告げたのに、本間は、あのティラミスを食べたときのような顔で、私を凝視する。
 全く、本間の美的感覚には、やれやれだ。何故、あの綺麗さが解らないのだろう。
「ミヤさんは、お美しいでしょ? 蜜に群がる蜂が多いに決まってるじゃん」
「はっ? ウンコにタカル蝿の、間違えでしょ?」
 なんて下品な物の喩えなんだ。けれど、蝿からしてみれば、素晴らしいご馳走か。

 しかし先程から、お隣の方のリアクションが、気になって仕方がない。
 妙に静かで、けれど、厭に良いタイミングで、何かを噴出す。
 だから、仕切り板に手を掛けて、お隣を覗こうとしたけれど、やっぱり今度も未遂で終わる。
「でも面白そうね。アキバカの弱点を見つけたかも」
「ん? 今みっつくらい、話が読めないのですが」
「石岡兄とアキバカには、何か裏があるってことでしょ? 七和と女狐もだけど」
「ちょっと待ったぁっ! ナナワはどうでもいいけど、萩乃ちゃんのどこに裏があるのかね?」
 ミヤさんを悪く言うのは、ライバルだからということで認めてやろう。
 けれど、我が妹は駄目だ。そればっかりは、例え本間であろうと許せない。

 ところが本間は、私のモスコミュールに手を伸ばし、一口啜ってからクイズを出した。
「あら、では問題。みゃあが克っちゃんと喧嘩をしました。さて、みゃあは、誰に連絡を取る?」
 有り得そうな事件加減が、何やら虚しい。それでも、克っちゃんと本気で喧嘩をしたら、私はこいつに連絡を取るだろう。不本意だけど。
「ほ、本間……」
 そこで、優越感に浸る表情を、一瞬だけ私へ向けた後、更なる課題を本間が告げる。
「あたしが不在で、捕まらなかったら? 異性限定で」

 異性限定と言われると、とても困る。兄妹喧嘩の愚痴を、異性に聞かせるのってどうよ。
 それでも、克っちゃんと私を良く知っていて、愚痴を言える異性と言えば、家族しか居ない。
 だけど、父さんに話すと、かえってややこしくなりそうだから、止めておこう。
「それなら、亮ちゃん」
 すると本間は、難問数学を教え終えた教師の如く、鼻高々に断言する。
「ほら、そういうことよ」
 本間は理数系が苦手なんだな。人のことは言えないが、九九からやり直した方が良いと思う。
「何がそういうことなのさ? 本間、お前は昔から、本当に数学が苦手だよね」

 本間の鼻頭に幾筋もの皺が入り、呆れたように、首を何度も横へ振りながら溜息を吐く。
 ところがそこで、何かを閃いたらしい本間は、意地になって難題克服を強要する。
「じゃあ逆なら? 弟くんと喧嘩をしました。さて、誰に助けを求める?」
 これは簡単だ。亮との関係を知っていて、さらに私の味方だと言ってくれた、兄しか居ない。
 だから、きっぱりと断言すれば、原型を留めないほど顔を歪めて、本間が喚く。
「それは、石岡兄」
「ほら、そういうこ……えぇ? みゃあ、あんたそれ絶対おかしいよ」
「え? なんで?」

 この問題は未知数だ。じっちゃんの名にかけても、解けやしない。
 けれど本間は、私の苦手な普通という言葉を駆使して、いけしゃあしゃあと、難問を片付ける。
「普通は、気になる異性に、態と連絡するもんでしょうが」
「えぇっ? 私、石岡兄と結婚するつもりだったけど、そんな邪な想いは抱いてなかったよ?」
 その言葉で、本間の鼻の穴が大きく横に広がり、目も細まる。
「あんたを例えにした私が悪かった。ごめん」
「いや、謝らなくてもいいけどさ」

 謝ったのだから、本間の解答は間違いだったと言うことだ。
 大体、萩乃ちゃんが、七和に好意を持つなど、私が許さない。えぇ、私が。
「だからさ、萩乃ちゃんは、たまたま、ナナワに電話しただけだよ」
「そう? でもちゃっかり、七和の部屋に上がりこんでたじゃないの」
「それはナナワの、ふた〜つ、不埒な出来心っ」
「何その、桃の侍めいた台詞……」

 思い出したら、腹が立ってきた。もう少し私の登場が遅ければ、どうなっていたことか。
「ナナワ貴様、やはり私の萩乃ちゃんを、あわよくば……」
 憤懣やる方が無い私を尻目に、本間は鼻の穴を広げたまま、携帯を耳に当てる。
「あん、七和くん? いやん。今スー、ネズミの街で飲んでるんだけどぉ」
 改めて思う。何故、私の周りは皆、互いの番号やアドレスを知り尽くしているのだろう。
 私など、最近知り合えた人物中で、番号を交換したのは、萩乃ちゃんくらいなものだ。
 ところがそこで、怪訝な顔をした本間が、携帯をずいっと私へ押し付けた。
 何かとても厭な予感がするけれど、相手は七和だから、ま、いいか。

「もしもし?」
 戸惑いながらも携帯を耳に当て、お決まりの文句を、吐き出した途端に響くツッコミ。
「本間さんに説教を食らうの、俺なんですからねっ」
「な、何だいきなり…相変わらず、煩いやっちゃな」
「やっちゃ言うなやっちゃ。で、今度は何をやらかしたんですか。あ、解った。パパゲーナを、パパっと持ってこいとか、言ったんでしょ?」
「何にもやってないよっ。そ、そんなことも、言ってないよ?」
「嘘吐けっ。じゃ、なんで語尾が疑問符なんですか」
 解っているなら聞くな、問うな、ツッコムな。この未だ未だキング。否、未だキング。

「松本さん、お願いですから、そこを動かないで下さい」
 どうしてこんな懇願を、七和にされるのかは解りませんが、そんな気は毛頭ありません。
「誰が動いてやるものか。まだ一杯しか飲んでないんだぞ。二杯頼んだけど」
 すると七和がまた、絶好調な千里眼を発揮する。
「また、ネーミングに惹かれて、キスミークイックなんか頼んだんでしょ?」
「な、なぜ、それを……」
「やっぱりかっ」

「とにかく、もうそっちに向かってますから、頼むから動くな」
 頼んでいる割に、命令形なのは何故でしょう。微妙に腹立つな。
 それでも、この言葉を最後に、通話が断ち切れたため、濁った心のまま本間へ告げる。
「ナナワ、もう此処に向かってるって」
「こ、行動の早い男ね……」
「行動が早いって、本間がナナワを呼んだの?」
「当たり前でしょ? みゃあの話じゃ、埒が明かないじゃないっ」
 明くよ、明くだろ、明快なまでに。というか、オレンジジュースが飲みたいな。百パーの。

 濃厚そうなオレンジジュースの画像を見つけ、店員さんに注文した。
 ネジ回しってな名前は、どうかと思うけれど、オレンジジュースなら、それで良し。
「で、みゃあは、どうしたいの?」
「え?」
 突然問われ、訳が解らず聞き返せば、胸の谷間を深めて、本間が切り出す。
「いやだってさ、あんたいつも、こういうときに、なんちゃら大作戦とかって」
「あぁ、それは……」
 キャッツアイ作戦が失敗し、本当は次に、魅惑のチキチキ作戦も考えたのだけれど、萩乃ちゃんの傷を見たあの日に、決行することなく幕を閉じた。

 萩乃ちゃんを想うからこそ、邪魔をしたい。
 萩乃ちゃんは若い。今なら未だ、深く負った心の傷も、その若さで回復できると思う。
 けれど、石岡兄はどうだろう。そう思ったら、動けなくなってしまったんだ。
「萩乃ちゃんが傷ついたら、沢山の味方が、守ってくれるでしょ?」
「まぁ、ここぞとばかりに、男が群がり守るわな」
「でも、石岡兄が傷ついたら、誰が守ってあげるの?」
 石岡兄は強い。それでも、強いからって、傷つかないわけじゃない。

「たとえ私が手を差し伸べたとしても、石岡兄は絶対にその手を掴まない。本間もそうだよね」
 石岡兄や本間だけじゃなく、克っちゃんも、きっとそうだ。
 いつだって助けてくれるのに、助けようとすると、軽く躱される。
「だから、石岡兄の好きなように、させてあげたいの」
 そんな私が出来ることなど、何もない。ただ見ているだけしか出来ないからこそ、何よりも望むことを、自ら選択して欲しいと願うだけだ。
「そして松本さんは、好きなようにした兄を、徹底的に責めると」
「そう。責める。だって私は、萩乃ちゃんの味方……ってナナワ?」

 通話を閉じてから、十分も経っていない気がするのですが、何この速さ。
「俺は、どちら側に座れば良いでしょう」
 こいつは、千里眼だけでなく、瞬間移動の技も取得しているんだな。
「みゃあの方に座りなさい。あんたも説教」
 本間のその言葉で、憤慨した七和が、何故か私に絡みだす。
「ほ、ほらやっぱり、俺が説教食らうんじゃないですかっ!」
「わ、私の所為じゃないだろっ」
「おだまりっ! ほら、莫迦ども正座っ!」
 なんで私まで正座なんだ。でも、ユサユサに圧倒されて、つい正座しちゃったけど。
 というか、このオレンジジュースは美味しいね。美味しさの余り、クラクラするよ。

 七和の注文序に、私もオレンジジュースの御代わりを注文した。
 否、それよりも何よりも、気になって仕方がないのは、七和の注文したカクテル名だ。ラッシーってお前。何それ、犬味?
 そんな私の思考は余所に、本間のお説教が始まった。えぇ、未だ正座で聞いてます。
「さて七和、何故お前は、私を居れずに、あの女狐は部屋へ入れた?」
「それは、本間さんが女で、石岡さんは妹だからです」
 確かに本間は、もうすんごいほどの女だが、萩乃ちゃんの喩えは、確実に違う。
 だから、隣の七和に文句を叫ぶけれど、言い終わらぬうちに、本間得意のクイズが出題された。
「言っとくけど、萩乃ちゃんは私の妹であって、お前の妹じゃな」
「ほお。じゃ、みゃあは?」

 納得はいかないが、女、妹とくれば、私は姉だ。間違いない。
 ところが七和は、全くの予想外な解答を放つ。
「松本さんは、ハラハラです。こう、ハラハラ」
 ちょっと待て。七和貴様、それは既に、人を表す言葉じゃないだろ。
「何だそれっ、冗談じゃ」
 当然、七和の胸倉を掴んだけれど、言い掛けた途端に、本間が納得の意を表明する。
「あら七和、あんた意外と見る目があるわね?」
「当然です。ま、俺がハラハラするんですから、松本兄なんて、胃潰瘍ものですよ」
「克っちゃんを、勝手に病気にすんなっ」

 腹立ち紛れに、オレンジジュースを一気飲みすれば、脇から、七和のトリビアが飛び出すけれど、そんなものはどうでも良い。
「松本さん、それスクリュードライバーじゃないですかっ。そんなもの一気に飲んだら」
 七和の頼んだラッシーは、名犬色ではなく、牛乳色に輝いている。
「ナナワ、お前のこれは、もしかして……」
 しかも、そこから放たれる芳醇な香りは、紛れも無く、大好物の代物だ。
「そうですよ? ヨーグル…あっ、何すんだ、あんたっ」
「いいじゃないの七和、牛乳系を飲めば、大きくなれると信じてるのよ。未だ」
 どういう意味だ。しかも、胸の谷間を寄せて言うな。嫌味ったらしい。

 そんなことよりも、ラッシーは名犬を超えた。どう超えたのか解らないから、名誉犬ってことで。
 そこでいそいそと、メニューを眺めて、ラッシーの種類を確認しながら、七和へ切り出した。
「あ、兄で思い出した。なんでナナワは、石岡兄を知ってるの?」
 すると、同じようにメニューを覗き込み、言いづらそうに七和が答える。
「面識はないんですけど、小耳に挟んだことがあるんですよ」
 小耳に挟むという言い方からして、余り良い噂ではなさそうだ。
 それでも、どんな噂を巻かれたのかと考え込んだところで、解答へ辿り着いたらしい本間が、毒のある笑いを浮かべて、予想を告げた。
「アキバカ絡みででしょぉ? スー、何となく解ったから、もういい」

 自分だけ、把握できないことに苛立ちながら、メニューを勢いよく閉じて文句を放つ。
「よくないよ。何にも解んないよ。なんだよ二人して」
「だからぁ、アキバガにとっての石岡兄は、みゃあの日改と同じってこと」
 そんな本間の返答に、思い出したくない過去、プレーバック。
「日改? 日改ってあの、学生ボクシングチャンプだった日改ですか?」
「チャンプでもジャンプでもいいけど、多分それ」
 七和と本間が、ごちゃごちゃと語り合っているけれど、聴きたくない話は、遮断する方向で。
「すみませ〜ん、ピーチラッシーくださ〜い」

 七和が否定しなかったことからして、ミヤさん脱処女のお相手は、石岡兄なのだろう。
 二人に、どういった繋がりがあるのかは知らないが、なんとなくショックだ。
 あの石岡兄に限って、ミヤさんを強姦したとは思わないが、あの石岡兄だからこそ、異性関係のそういったこととは、無縁だと思っていた。
 七和が知っているということは、萩乃ちゃんも、この噂を耳にしている確立が高い。
 だからあの日、携帯にミヤさんが出て、萩乃ちゃんはパニックに陥ったのだと思う。
 なんだか、愛憎相半ばの乱れ乱れた人間関係に、溜息が出る。
 こういうときこそ、徹底的に飲んだ暮れて、現実逃避するのが最高だ。七和が居るし。

「よし、今日は近所住民が居ることだし、記憶がなくなるまで飲むぞっ!」
 七和の部屋は、秘密基地から一分。自宅からは十分も掛からない場所にある。
 したがって、ここに七和が居れば、酔っ払っても、自宅まで帰り着くこと確実だ。
 それなのに、げんなり顔の七和が、自称送り狼宣言を呟いた。
「松本さん、もうちょっと危険を感じてくださいよ。俺だって男なんですから」
「んまっ、酔ったワタクシを、あの部屋に連れ込もうなどと?」
「いや、松本さんちの方が近いんで、それは有り得ません」
「ほら平気じゃん。では、本気で飲む前にトイレ」

 座敷から降り立ち、化粧室へ向かったけれど、満員御礼の店内は、トイレも行列だ。
 仕方なく、列に並びながら自分の席を振り返ると、怪訝顔の本間が、七和に語り出すのが見えた。
「本当に送り届ける自信が、お前にはあるのかね?」
「バッチリありますよ。今は」
「今は? 言っとくけど、みゃあは、掴まらないよ?」

 七和がカクテルに目線を落とし、グラスを回しながら、何かを呟く。
「松本さんは、征服欲を掻き立てる。だけど逃げ足が速いから、心よりも先に身体で縛ればいい」
 そこで負けじと、本間もグラスを回して対抗する。というか、あれって真似したくなるよね。
「あら、自分がそんなことをできると思ってるの?」
「いえ、それをやったのは亮。そして、遣らせたのは本間さんでしょ?」

 本間が、ちらと私を見ながら、グラスに口を付ける。
「何か誤解してない? みゃあは昔から、弟くんのことが好きだったのよ」
 だから、ボディビルダーの如く、筋肉ポーズを決めたけれど、あっさり無視されて、ちょっと悲しい。
「そうですか? 俺は兄の方だと思ってましたよ。だけど兄妹だから、亮を使って引き離させた」
 そこで今度は、七和が私の方を見た。しかも、筋肉ポーズ付きだから、ちょっと嬉しい。
「だから亮は、今でも必死だ。でも本間さんは、松本さんさえ傷つかなければそれでいい」

 とりあえず、ここは、ヒゲダンスを踊ろうと思う。列に並ぶ、他の方の視線が痛いけど。
「松本さんの過去に何が遭ったのか。亮が空手からボクシングに転向したことを考えれば、日改の被害に遭ったが妥当でしょ」
「七和、お前…それをみゃあに言ったら、殺すよ」
 すると七和は、変なおじさんアクションで、切り替えしてきたから、なにか悔しい。
 仕方がない。究極の奥義、パラパラを披露するか。曲は勿論、バッキーのテーマで。

 けれど、列後方に佇む日焼けギャルが、拍手を打って爆笑するから、なにか恥ずかしい。
 それでも解る。お前、この曲を踊れるな。けれど、この私についてこれるかな。
「本間さんは頭が良い。その領域に兄は入ってこれない。そして松本さんは、その領域が怖くて抵抗できない。さらにそれが亮であれば、怖さが緩和されて、新たな感情を生む」
「えぇ〜何のことだか、スーにはサッパリわからな〜い」
 このギャル、なかなかやるな。ならば、ネズミーマーチ、ユーロで勝負だっ。

 どこかで、派手にテーブルが叩かれる音が聴こえてくる。
 それでも、漸く順番が巡って来たから、音の原因を知ることなく、いそいそと個室に入り込んだ。
「こんばんは。あ、七和くんは、はじめましてですね」
「い、石岡あにぃ? ってことは…まさ、か……」
「ま、松本兄……」
 なにやら、春の嵐が訪れそうな展開を、用足し中の私が知る由もない――
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