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◇◆ Evidence 1 ◇◆
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その日の朝の出来事は、何故か鮮明に覚えている。
口の周りにケチャップを付けたお姫様が、くりっとした瞳を更にくりっとさせながら俺に告げた。 「克っちゃん、今日美也ねぇ、梅干を掘るのよぉ」 「梅干は掘らないよ。ほら美也、んー。して」 「んー」 間違いを訂正しながら、食卓に置かれたティッシュでお姫様のケチャップを拭う。 すると、少し離れた場所から、パシャパシャとシャッター音が響きだす。 「お母さん、直ぐそうやって写真撮るの、止めてよ!」 実母は俺が幼稚園に上がる頃から、写真撮影に凝り始めていた。 スクープスクープと騒ぎながら、決定的瞬間を写真に収めたがる。 「いいじゃないのぉ。減るもんじゃあるまいし」 「減るよ!」 突然、トイレのドアを開け放たれ、『克っちゃん、初めての立ちション!』という題名で写真を撮られた日から、俺は写真を撮られることに嫌悪感を覚えていた。 だから即座に言い返せば、口を尖らせた実母が言い訳を口にする。 「だって今日、美也ちゃんの遠足で、梅の実狩りに行くんだもん」 「行くのは美也で、お母さんは行かないでしょ?」 そこに、小さな弁当箱を片手にした父が現れ、朝からハイテンションにて騒ぎ出す。 「美奈ぁ、何これ! 美也ちゃんのお弁当、チョー可愛い!」 「でしょでしょ! 気合い入れたもん。あ、キンちゃんのも作ってあるよ」 興味を惹かれて弁当箱を覗けば、バターロールを車に見立てた、可笑しな弁当が目に入る。 車に乗る人の頭はうずらの卵。洋服はハム。けれど、タイヤが明らかにバナナだ。 「うぇっ……」 思わず小さな声で文句を呟いた。すれば、不思議そうなお姫様が、そんな俺へ語り掛ける。 「克っちゃん、バナナとマヨネーズって美味しいよね?」 「えぇ? 美也お前……」 それから、騒がしくも朝食を食べ終え、ランドセルを背負って玄関へ向う。 すると、見送りに出てきた実母が、俺の耳元でそっと囁いた。 「克っちゃん、例の写真。大きく引き伸ばして、克っちゃんの机に置いてあるから」 例の写真。それは、お姫様の思いつきから始まった騒動の集大成だ。 今直ぐ二階へ上がり、写真を見たいと思うほど嬉しいけれど、照れ臭い方が先に立つ。 「どうせまた、ピンボケ写真なんじゃないの?」 「失敬なっ。見て驚くなよっ」 だからそんな気持ちを隠すように靴を履き、捨て台詞を残して扉を開ける。 「はいはい。じゃ、いってきます!」 「気をつけてね? ちゃんと左右を」 「確かめなきゃいけないのは、お母さんの方でしょ?」 これが、実母と交わした、最後の言葉だった。 なんでこんなことしか言えなかったのだろうと、今になって悔やむ。 そして、どうして実行してくれなかったのだと、少しだけ母を恨む。 まるで、絵に描いたような、幸せの家族だったと思う。 少年のような父が居て、何処かハラハラさせる母が居て、そんな母にそっくりな、お姫様の美也が居て、賑やかで穏やかに毎日が過ぎて行く。 其処に在るのが当たり前で、無くなることなど考えもしなかった。 けれど今、戻りたいかと問われれば、そうは思わない自分が居る。 この後、俺たちが築いた軌跡。それは、決して楽なものではなかったけれど、それが在るからこそ、今の俺が居て、美也が居てくれるのだと思うから…… それでも、お姫様の梅狩りは、ちゃんと行われただろうなどと笑いながら、いつものように帰宅する。 けれど、いつもなら開くはずの玄関扉が、今日は鍵が掛かっていて開かない。 きっとこの雨で、お姫様のバス到着が、遅れているのだと思った。 だから傘をたたみ、軒下に隠れて激しくなる雨を遣り過ごす。 どれほど、その場で待っただろう。 血相を変えた隣の植田さんがやってきて、俺を見るなり雨に負けじと声を張り上げる。 「克っちゃん大変! ママが事故に遭って、坂ノ上病院に救急車で運ばれたの!」 胸がバクンと大きく揺れる。今朝、嫌味交じりで放った言葉が、現実に起きたんだ。 衝動的にランドセルを放り投げ、濡れた傘を広げて走り出す。 「気をつけるのよ克っちゃん! 後でおばちゃんも行くから!」 俺の背中に叫ぶ植田さんの声に、無言で肯き、止まることなく病院へ急ぐ。 帰宅を促す音楽が、町中のスピーカーから流れ始めている。 六月のチャイムは五時半だ。それでも、雨が降っているにも関わらず、外はまだ明るかった。 坂ノ上と言うくせに、坂の下に建つその病院は、総合病院と呼ばれる、この辺りで一番大きな病院だ。 何処に在るのかは知っていたけれど、受診したことは一度も無い。 それでも、あちこち濡れたまま自動ドアを潜り、受付だと思われる場所へ駆け込み、がなる。 「すみません! お母さんが、ここに運ばれたと聞いて、松本です! 松本美奈です!」 どう見ても小学校低学年の俺が、一人でやってきたことに不安を隠せないその人は、持ち場を誰かに預け、俺の手を引きながら、母が治療を受けている場所まで案内してくれた。 階段を上り、迷路のような通路を何度も曲がる。 そして、最後の角を曲がったとき、父とお腹の大きな女性が、抱き合って泣いているのが見えた。 「由布子ちゃん、大丈夫だ。大丈夫だよ。圭亮は死んだりしない。美奈だってそうだ」 「でも、でも!」 「大丈夫。パパになることが待ちきれない男なんだ。この子に会うまでは死ぬわけがない」 記憶にある限り、その女性に面識はない。それでも話の内容からして、互いに知り合いなのだと思う。 そして、父の態度から、母の按配が良くないことを本能で感じ取った。 「お、お父さん」 ここまで案内してくれた女性の手を振り解き、父に向かって走り出す。 すると、何故俺が此処に居るのかが解らないといった具合で、父が俺の名を呼んだ。 「……克也?」 「植田の小母さんから、お母さんが事故に遭ったって聞いて、それで」 「大丈夫。お母さんは大丈夫だ……」 それは、俺にではなく、自分自身に言い聞かせるように発せられた言葉だった。 それでも、この言葉を俺は信じた。父は嘘を吐かない。だから母は大丈夫なのだと…… 最初に手術室から出てきたのは、母ではなく、知らない男性だった。 「圭ちゃん!」 その男性は、どうやら父と抱き合っていた女性の身内らしく、男性の乗った動くベッドに縋るようにして、その女性は去っていく。 けれど、母は一向に手術室から出てこない。 こんなときは、お姫様を抱き締めれば安心する。 だから、何処かへ預けているのだろうお姫様の所在を、父に聞いた。 「お父さん、美也は何処に居るの?」 ところが、父の反応は予想だにしなかったもので、その大きく見開かれた目が、確実に、お姫様の存在を忘れていたと物語っていた。 「克っ! 待て!」 父の声が、走る俺の背中に突き刺さる。だけど無理だ。どうしたって走ることを止められない。 夏至が過ぎたばかり頃だった。それでも外は真っ暗で、依然として雨も激しく降っている。 こんな中、一人置き去りにされたお姫様は、何を想っているだろう…… 傘の存在も忘れ、無我夢中で走り続けた。 お姫様の通う幼稚園が視界に入ると同時に、エプロン姿の先生が門前に立っているのが見える。 「克也くん!」 先生は俺を見つけると、タオル片手に走りより、今にも泣き出しそうな声で告げた。 「お父さんから電話があった! 無事でよかった。克っちゃんまで……」 そんな話は聞きたくない。そんな話はどうでもいい。今は何よりも、お姫様が大事なんだ。 「先生、美也は? 美也は!」 お姫様は、母が迎えにくるはずの園庭を、ただ一心に眺めていた。 小さな掌を、ぺっとりと窓に押し当て、真っ暗闇を見つめていた。 「美也っ!」 俺の呼ぶ声で、掌を窓にくっつけたまま、お姫様が首だけ振り返る。 途端に、くりっとした瞳がみるみる潤み、そしてお姫様は、こう言った。 「ご、ごめんなさい。克っちゃん、ごめんなさい……」 「何で美也が謝るんだ!」 瞳を大きく見開いて、涙が零れ出さないように踏ん張るお姫様は、ちらと足元に視線を投げて、つっかえつっかえ話し出す。 「だって、美也…梅干、あんまり、だから…ママ怒って」 お姫様の視線を追えば、透明のビニル袋に詰まった、緑色の実があった。 実の数は、ざっと二十個ほどだと思う。そこで、朝の会話を思い出す。 『美也たん、ママに百個は、お土産持ってきてね!』 『百個って、どのくらい?』 『こ〜んくらい!』 『美奈それ、美也ちゃんよりデッカイじゃん……』 お姫様は、母の期待に応えられなかったと泣いている。だから母が怒っているのだと。 これが、置き去りにされたお姫様の想いだ。こんなことをずっと考えて、悔やんで…… 堪らず、暗闇を見つめ続けたままのお姫様に走りより、後ろから抱き締めた。 「大丈夫。大丈夫だよ美也。もう大丈夫だから」 言葉が見つからなくて、それでも安心させてやりたい気持ちが、そんな言葉を吐き出させる。 「大丈夫、大丈夫。美也はもう大丈夫なの?」 「そうだよ。美也は、もう大丈夫」 忙しなく動き回る大人たちとは裏腹に、俺と美也は、邪魔だからと隅に追いやられ、ただ二人寄り添いながら、母の葬儀が終わって行く。 呆気なく母は燃え、バラバラの骨になって壷の中へ納まった。 父は母の死から立ち直ることが出来ず、骨壷を寝室に置いたまま、いつまでも埋葬できずにいた。 それでも、母の居ない生活は否応無くやってきて、時が経つに連れ、軌道に乗るどころか、苦痛ばかりを伴うものに姿を変える。 正直言って、自分に課された大役が重かった。美也のことも、疎ましいとさえ思えた。 なんで俺ばかり、こんな目に遭うんだと、日を追う毎に、苛立ちは募るばかりだった。 何も解っていない美也は、親鳥に餌を強請る雛鳥のようで、ぴーぴー泣いては何かを強請る。 最初のうちは、絵本を読む美也の隣へ座り、読み間違いを正してやったりもした。 けれどそれが度重なると、俺の苛立ちも重なって、結局は美也に八つ当たりをする。 「違うよ! 何度言ったら解るんだよ!」 すると美也は縮こまり、絵本を胸にぎゅっと抱く。 そして数秒後、いきなり立ち上がり、けろっとした顔で明るく言い出すんだ。 「克っちゃん、ちょっと美也、おトイレに行って来るね?」 小学生になってからの美也は、嘘のように物静かになって、幼稚園の頃から大事にしている人形で、黙々とゴッゴ遊びをするのが日課になっていた。 そんなある日、何か違和感を覚えて美也を見れば、どす黒く頬を火照らし、人形を抱き締めたまま丸まる姿が目に入る。 「美也? お前、具合が悪いのか?」 それでも美也は丸まったままで、決して口を開こうとしない。 だから頭を掻き毟り、苛立ちながら体温計を押し付ける。 「早く測れよ! 脇の下に挟むんだよ!」 案の定、酷い熱を出していた。それでも俺の心は歪んでいて、そんな美也に怒鳴り散らす。 「なんで、具合が悪いって言わなかったんだよっ!」 そこで漸く美也が顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見る。 それは、あの時と同じ顔だった。何もかも自分の所為だと思い込み、只管謝り請う顔だった。 『ご、ごめんなさい。克っちゃん、ごめんなさい……』 けれど、そんな顔をしているだけで、発せられる言葉は無い。 そこではたと気がついた。何時頃から美也と口を聞いていなかっただろう。 風呂へ入れ。飯を食え。歯磨きしろ。そんな一方的な命令を叫び、美也はそれに肯くだけだ。 それでも俺には、美也を気遣う余裕など何処にもない。 だから俺は、そのことに気がつきながらも、気がつかないふりをした。 結局、美也はおたふく風邪に掛かっていたことが解り、長く学校を休むことになった。 けれど、その旨を報告しに行った先で、美也の担任から、思わぬ話を聴かされる羽目になる。 「あ、そうだ、丁度良かった。あのね、美也ちゃんのことなんだけど……」 「あいつが何か?」 不貞腐れ気味に視線を投げれば、担任は気拙そうに喋りだす。 「実はね、美也ちゃん、上履きが小さいんだと思うのよ」 「え?」 「それから鉛筆がね……」 ショックだった。母は居ないけれど、うちは貧乏じゃない。 だからそんなことを申告されて、恥ずかしさでいっぱいになった。 今日という今日は、父さんへ全部言ってやる。 俺に美也を押し付けるな。俺だって遣りたいことが沢山あるんだ。父さんばっかり狡いよ! そんな苛立ち全開で家に戻れば、美也の看病で居るはずの父さんは何処にも居ない。 「何で美也、一人なんだよ! 父さんは!」 それでも美也は答えない。虚ろな瞳で俺を見上げるだけで、何一つ語ろうとはしない。 「美也、俺のこと困らせて楽しい? 言ってくれなきゃ解んないよ!」 俺が怒鳴っても、美也の態度は変わらない。ただ、ふーふーと荒い呼吸を繰り返すだけだった。 結局これだ。結局俺だ。訳の解らない感情が爆発し、気づけば叫んでいた。 「もう、美也なんか死んじゃえっ!」 美也の熱が下がり始めた頃、俺の耳の下が痛くなりはじめた。 ちょっと首を動かすだけで鋭い痛みが走り、動かさなければ脈のリズムに合わせて痛み出す。 意識が朦朧として苦しくて、痛くて心細くて、それでも介護してくれる人間など何処にも居ない。 不意に掌に温もりを感じ、浅く早い呼吸を繰り返しながら横を見た。 すると其処には美也が居て、俺の手に頬を乗せる美也が居て、そんな美也の瞳が必死で語っていた。 『克っちゃん大丈夫? 痛い?』 胸が苦しくなった。美也も痛かったんだ。美也も苦しかったんだ。 それなのに俺は、一人部屋へ置き去りにして、死んじゃえとまで吐き捨てて…… 「美也、ごめ、ん…ごめんね美也…っ」 あの日、俺は美也に大丈夫だと告げた。それなのに、美也はちっとも大丈夫なんかじゃない。 本心からそう告げた。偽る気などなかった。それなのに、俺はその約束を果たしていない。 「俺、もう絶対…もう絶対、に」 俺はもう二度と、出来ない約束はしないと誓う。 だからもう一度だけ、俺を信じて欲しいと願う。 大丈夫だ。大丈夫だよ美也。美也はもう、絶対に大丈夫なんだ―― その日から、俺と美也の新たな一歩が始まった。 よく、顔色を窺うと言うけれど、美也の場合もそれで、打算でもなんでもなく、本能が俺の苛立ちを嗅ぎ取っていたのだと思う。 こうさせてしまったのは、紛れも無く俺で、そんな俺が、美也に喋らせようとすることは、ただの無理強いな気がした。 だから、美也が俺に合わせるのではなく、俺が美也に合わせれば良いのだと考えたんだ。 「美也、ジェスチャーゲームをしよう?」 美也は驚いていたけれど、返答を待つことなく俺がジェスチャーを始めると、慌てて立ち上がり、洗面所から歯ブラシを取って来る。 「すごいじゃん。美也、正解!」 美也の得意気な笑顔。それは、長い間忘れてしまっていた、お姫様の笑顔だった。 歯を剥き出し、口脇で握り拳を上下する。これは歯磨きのジェスチャーだ。 そしてそれは、日を追う毎に動作が小さくなり、最後には、『い』の口をするだけで、それが歯磨きの暗号だと伝わるようになって行った。 それと同じように、二人だけで通じる沢山のサインが生み出され、いつしか俺も、学校から帰宅すれば口を開かなくなっていた。 『美也、連絡帳を出して』 『あっ、しまったっ!』 『しまったって、美也お前……』 母の三回忌が過ぎる頃には、美也はもう俺の一部になっていた。 口を聞かないお姫様が心配で、あいつを解ってやれるのは俺しか居ないと思い込み、ランドセルを放り投げては、また学校へ向かう。 学童へ預けられた美也は、いつも何をする訳でもなく、ただ校庭を眺めている。 一人取り残されたというトラウマを抱えるあいつは、また同じ目に遭うのではないかと、不安を通り越して恐怖に駆られるんだ。 『傍に居るよ。傍に居る。だから美也は大丈夫だ』 校庭で遊びながら、窓越しに語る。すると美也は、鼻を窓に押し付け目で叫ぶ。 『克っちゃん見て! 豚っ!』 『……そっくりだね』 けれど、雨の日は無理だ。学童内へ立ち入れない。校庭でも遊べない。 だから必ず、植田の小母さんと一緒に美也を迎えに行き、帰宅した後、膝に乗せる。 「美也、アーって言って」 「あぁ、あぁあぁぁ」 唯一、美也が俺に放つ言葉。ころころとしたその声が可愛くて、釣られて俺も笑うんだ。 美也が学童を卒業し、俺が最高学年に成った時には、誰の目にも、依存を超えて癒着と化している俺達が映っただろう。 互いに互いにが不可欠で、片時も離れることができなかった。 現に、言葉は全く必要ない。 瞬きの速度や瞳の動き、唇の描き方。そんな小さな仕草と、これまでの思考回路パターン。それらを繋ぎ合わせれば、何を言っているのかが直ぐに解るんだ。 さらに美也は、模写が得意だった。テレビのコマーシャルやアニメやドラマで、印象的なシーンの表情を無意識下で習得する。 だから俺がそのシーンを知ってさえ居れば、美也の思考は手に取るように解った。 そんな俺たちを目の当たりにした父は、今更ながら異常なまでに怒り出し、俺たちを引き離そうと躍起になった。 父は美也に甘い。それは、美也が実母に似ていることも関係するのだろうけれど、それだけではなく、あの日、完全に美也の存在を忘れてしまっていた自分の呵責に苛まれているからだ。 美也も美也で、父には全く懐かない。 口を開くどころか、笑顔すら見せることなく、俺の後ろに隠れたがる。 逆に父は俺に厳しい。どうやら俺は、父の短所ばかりを受け継いでしまったらしい。 だから、事ある毎に、俺へ怒鳴り散らす。 そして必ず、自分の過去を引き合いに出し、美也と距離を置くよう念を押す。 『克、頼むから美也と距離を置け。でないと、俺みたいになっちまう……』 『美也が本当に大切なら、お前から距離を置け。俺みたいに、失ってからじゃ遅いんだ』 何故、こんなことを言われるのかが、当時の俺には解らなかった。 失いたくないから傍に居るのに、離れなければ失ってしまうなんて、納得できるはずがない。 だから俺は、父の言うことをきかなかった。美也もそれに習えだ。 そしてそれが父の不安を煽り、俺たちの生活は、大きな転機を迎えることになる…… そう。この女性は紛れもなく、あの事故の日、父と抱き合っていた女性だ。 きっと、あのときお腹にいた子が、この男の子なのだろう。 亮と呼ばれるその男の子は、異国の血が混ざっているような、稀に見る端正な顔立ちだった。 そして出逢った瞬間から、その子の瞳は美也に釘付けで、その視線が癪に障った俺は、思わず美也を引っ張り、自分の背中へ隠す。 女性の自己紹介は独創的で、名前を名乗ることなく、名称を告げた。 「初めまして、母さんです。母さんと呼んでね。で、こっちは亮!」 咄嗟に、美也の眉毛がぴくりと跳ね、瞬きを素早く三度繰り返してから目で語る。 『克っちゃん、この人、何言ってるの?』 『そのまんまの意味だろ。きっと』 だから、戸惑いながら返答すれば、美也の眉毛がハの字に下がる。 『でも、お母さんは死んじゃったんだよ?』 『新しいお母さんってことだよ……』 初めての出逢いから数週間後、互いに再婚だからと、式を挙げることなく、父とその女性は結婚した。 そして俺たちの間に、歳の離れた弟ができた。 母さんと言う名のその女性は、事ある毎、朗らかに俺へ言う。 「克也くん、もう克也くんは、好きなことを沢山していいのよ?」 そうやって、炊事も洗濯も美也の面倒を見ることも、俺は一切する必要が無いと退ける。 そんな変化に、数週間は戸惑い、数ヶ月は満喫し、半年後には苛立った。 自分でも、可笑しなものだと思う。 あれほど煩わしく、逃げ出したかった現状が、良い方向へ改善されたはずなのに、それが苦しい。 その原因は美也だ。美也が俺の隣に居なくなった。そして、美也の隣に亮が居る。 自分の居場所を奪われたような、小さな嫉妬が芽生えたと思う。 けれどそれを誰に言えるはずもなく、そんな姿を見るのが厭で、俺は自室に籠もるようになる。 お姫様がお姫様らしさを取り戻して行く。 美也が苛められていることを知っていた。俺に助けられることを嫌がっていることも知っていた。 だから助けなかったんだと自分自身に言い訳したところで、疚しさは付き纏う。 俺だけのお姫様で居ればいい。俺だけがお姫様だと知っていればいい。 そんな独占欲に満ちた考えが、この頃にはもう、頭の中を埋め尽くすようになっていた。 お姫様を取り戻してからも、苛められた経緯から、美也は自分を過小評価する。 誰が見てもお姫様なのに、自分は小間使い以下だと、本気で蔑む。 俺はそれを良しとした。邪な想いから、美也を決して褒めなかった。 逆に亮は、有りの儘を口にする。そんな亮の言葉に、美也は照れ笑いを浮かべていたけれど、鵜呑みにはしていない。 『克っちゃん、亮ちゃんのお話って、本当だと思う?』 『それは解らない。俺は亮じゃないから』 我ながら、なんて卑怯なやつだと思う。 けれどそれを認めてしまったら、益々、美也が離れていってしまうようで怖かった。 現に母さんから、目ではなく、口で話すようにと、何度も指摘をされ続けた美也は、俺の声が読み取れず、首を捻る回数も増えている。 いつか、お姫様は王子様の下へ嫁いで行くだろう。そんなことは百も承知だ。 そしてその王子様が、決して俺ではないことも知っている。 だから俺たちは、この転機を利用して、互いに距離を置かねばならない。 そうやって、自分に言い聞かせ続けていたけれど、年を追う毎に、それが難しくなって行く。 俺の宝物は美也だ。はっきりとそう気がついた時、父の言いたいことが漸く解った。 失いたくなければ距離を置け。距離を置かなければ、宝物は壊れてしまう…… 八つ切り用紙に引き伸ばされた、遠い昔の写真。 それは、突然のプロポーズから始まった。 『克っちゃん、美也と結婚して!』 『えぇ? なんで急にそんな』 『克っちゃんを愛してるからだよ? だから結婚するのよ?』 『だからって……』 今考えれば、母が美也に、真っ白なワンピースを買ってきたのが発端だと解る。 お嫁さんみたいだとか、なんだとか騒ぎ、美也をその気にさせたのだろう。 それでもこの、『愛してる』には、面食らった。 さらにその、強気で強引なプロポーズにも、たじろいだ。 『じゃ、克っちゃんは美也を愛してないの?』 『い、いや、あ、あ、愛してるよ?』 『よし。じゃ、今から結婚式ね?』 『えぇ? み、美也、ちょっと待って……』 宿題のワークブックを放り投げ、ちょこまかと走り去る美也を追いかけ、階段を下りる。 すると、最後の数段を下りる美也が、居間にいるであろう母へ向けて叫びだす。 『ママー! 美也、今から結婚するから、ママは神父さんね!』 普通なら止める。けれど、母に普通という言葉は当て嵌まらない。 だから当然、ひょっこりと現れた母は、真顔で美也にこう言った。 『いいけど、美也ちゃんのお相手は誰? パパは駄目よ。ママのだから』 そして、その血を大量に引き継いだ美也もまた、普通と掛け離れた言動を撒き散らす。 『違うよ。克っちゃんだよ? あたしたち、愛し合ってるから』 結局俺は、入学式のスーツへ強引に着替えさせられ、美也はレースのベールを被せられ、母の構えるカメラ写真の中へ収まった。 大人になった現実では、有り得ない構図。 最初の内は、ただ思い出を懐かしむために、眺めていたと思う。 けれど何時頃からか、この写真を違う理由で眺めている俺が居た。 そしてそれが確信に至るのは、俺たちが互いに高校生となった頃だった―― |
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