短編まとめ

幸運の坩堝P

一話完結系

四月の雨

いつというわけではないある日の出来事◇2008/04/01初出 2016/01/23改稿  日常

細かい雨が音もなく降る朝。昨日までの暖かさとはうってかわって肌寒くなった空気。

ランスはぼんやりと魔法ビジョンに顔を向けている。 シィルは、雨のせいで外に出せない洗濯物を、居間の隅にロープを張って干していた。 今のランスは、魔法ビジョンの通販番組よりも、シィルの一挙一動が気になっている。
洗濯機のある洗面所と居間をせわしなく行き来していたシィルが、ふうっと息を吐いた。
「ランス様、お茶入れようと思うんですけど、ランス様もお飲みになります?」
「ん、ああ」
返事を聞いて台所に引っ込んだシィルを見送り、ランスは大きくため息を吐いて、魔法ビジョンのスイッチを消した。

目の前に置かれた湯飲みを手に取り、ランスはゆっくりと口に運ぶ。 相変わらずの好みの温度、好みの濃さで入れられたお茶を一口飲むと、少しだけ頭がはっきりするような気がする。
「あのな、シィル」
「はい、何ですか?」
シィルは自分の湯飲みをテーブルに置いて、じっとランスを見る。 あまりにもまっすぐに自分を見る青い瞳から、ランスは僅かに目を逸らした。
「そろそろ……結婚でもするか」
「え……」
シィルの表情が困惑に変わる。
「どなたと、ですか?」
「どなたもこなたも、この状況ではお前しかいないだろうが」
ほんのちょっと、からかってみるつもりだった。
「それとも俺様と結婚するのがいやか?」
本気にして大喜びするか、それともからかわれている事に気づいて拗ねるか。 表情の変化の欠片も見逃さすまいと、ランスはシィルを凝視した。

「……しい、ですか?」
「ん……?」
「そんな風に私をからかって、ランス様は楽しい、ですか?」
シィルは俯いてランスと目線を合わせないまま、ぽつりと言う。シィルの表情は解らない。 抑揚のない声と同様、何の感情も浮かべていないのかもしれない。
もっと派手な変化、泣いたり拗ねたりを期待していたランスは、慌ててフォローの言葉を入れようと試みる。
「あー……何というか、もっと反応してくれれば楽しいんだが」
そう無表情だと困るというか、そう言おうとした時には、シィルはランスの目の前にはいなかった。
「え、おい、シィルっ!?」
ランスが叫ぶのとほぼ同時に、玄関の扉が乱暴に閉められる音が居間にまで響いた。

湿気を含んで重く冷たくなった服が、身体にまとわりついて鬱陶しい。 ランスはシャツの胸のあたりを掴んで軽く何度か振った。服と身体の間に空気を入れ不快さを振り払おうとするが、 冷たい雨は、すぐさま服を湿らせ張り付かせる。
「シィルの奴、どこ行ったんだ……?」
大きくなった雨粒が、ランスの髪を伝いしずくを垂らす。シィルが傘を持って家を出た様子はない。 ランスより薄手の服を着ているシィルは、今頃びしょ濡れになっているのではないだろうか。
「……風邪ひいたらどうするんだよ」
何往復目になるのか、家から商店街までの道のりを歩いていたランスの耳に、微かな音が聞こえる。 金属が擦れ合う細いもの悲しい音。雨音に吸い込まれそうな音の出所を探って、ランスは脇道に入った。

そこは小さな公園だった。
晴れた日なら小煩い子供が多数遊んでいるのだろうが、この雨の中、子供は一人もいない。 ただ小さなブランコが、か細い音を立てて何とも不器用に揺れているだけだった。
「シィル?」
他に誰もいない公園で、シィルはぼんやりとした表情でブランコを揺らしている。 シィルの頬を濡らしているのは、涙ではなく冷たい雨。ランスの耳に聞こえるのは泣き声ではなく、ブランコの鎖が軋む音。
「シィルっ!」
ランスはシィルの背後に回り、鎖を両手で掴んでブランコを止めた。 ランスがいることに初めて気づいたかのように、シィルはゆっくりと振り返った。 ランスの顔をちらりと見て、再び前を向いてしまう。

何をしているんだとランスが問おうとする間もなく、シィルはぼそりと喋りだす。
「……上手く、漕げないんです」
「ブランコか?」
「子供の時は、もっと上手に漕げたのに……おかしいですね」
ランスが鎖を握る手を弛めると、シィルは再びブランコを揺らす。 かくかくとしたぎこちない揺らし方を、ランスはじっと見ている。その視線を無視して、シィルは黙ってブランコを揺らしている。
「体が大きくなったから、足を着く位置が変わってるんだろう」
ランスは後ろから手を伸ばして、シィルの膝の位置を変えてやる。膝を前に出し手足を伸ばし気味にすると、 ブランコの漕ぎ方が少しはましになるが、それでも子供が漕ぐように滑らかな動きにはならない。
「大人になったら、どんな事でも上手くできるようになると思っていたんですけど」
シィルの肩が震え、ぺたんこになった髪からぽたりとしずくが落ちる。 濡れて張り付いた服から透けて見える肌が、ひどく白い。そして、相変わらずシィルは無表情のままだった。
「大人になったら、下手になる事もあるんですね」
あまりにも頼りない身体の線。触れたら壊れてしまいそうな身体に手を伸ばす事を止め、 ランスはシィルの手の上からブランコの鎖を強く握る。ブランコの動きを止められ、シィルが再びランスの顔を見上げた。
「そうだな、確かに今のお前のブランコの漕ぎ方は、見ていられないほどへたくそだ」
乱暴に重ねられた言葉に、シィルは俯く。
「だから」
ランスはブランコの鎖をそっと引く。
「俺様が手伝ってやる」
掌の中でシィルの手が強く鎖を握りしめたのを感じ、ランスは鎖を押し出した。

雨足はやや強くなり、芽吹いたばかりの若葉を雨粒が叩く音が、公園のそこかしこから聞こえる。
ランスは黙ってブランコを揺らしている。シィルもただ黙って、ランスが揺らすブランコに身を任せている。 ブランコは相変わらずぎこちなく揺れていたが、それでも、シィルが一人で漕いでいた時よりは滑らかな動きだ。
「……っ」
シィルの肩が震えている。シィルの頬を、冷たい雨ではなく暖かい涙が滑り落ちた。 やがて大きくなる嗚咽の声が消えるまで、ランスは黙ったままブランコを揺らしていた。