小春日和
ほんのりニンジン×小春◇2006/02/05 大悪司
小原小春。
時代が戦争へと向かう中、男でも女でも、ものをいうのは腕力であった。
しかし、小春には戦闘能力はなかった。彼女の武器はその頭脳だけだった。
優れた容姿と無力な肉体を持つ小春を、力でねじ伏せ屈服させようと試みる男達も多かったが、
身体は許しても心は決して許さない小春に、多くても数回の交渉で興味を失っていく。
そんな小春が『調教師』という職業に興味を持ったのは、ただの偶然に過ぎない。
フナイにある調教用品専門店『オルターエロ』に足を踏み入れたのも、単なる好奇心からであった。
「いらっしゃいませ……おや、初めてのご来店ですね」
淫靡なオーラと紳士的な物腰を併せ持つ初老の男性が、礼儀正しく小春を迎え入れる。
「失礼とは存じますが、お嬢さんは当店の客層とは少々違うようにお見受けいたします」
「おっしゃるとおりですわ、私はまだこの世界に足を踏み入れたばかりのひよっこですから」
「ほう、貴女のような若く美しい女性が……」
店主と思われる男は、油断無く小春を値踏みする。しかし、その視線は決して性的なものではなく、
あくまで、小春がこの店の客としてふさわしいかどうかを見極めるためのものであった。
女性としてではなく、調教師の卵として評価しようとするその鋭い視線は、
粘着的ではあったものの、小春にとっては不快なものではなかった。
「ふむ、よろしいでしょう」
しばらくの観察の後、店主は大きく肯いた。
「貴女の更なる向上のため、どうぞ当店をご利用ください」
それから幾年月、オルターエロ店主の助言と自らの向上心をもって、
小春は、調教師としてその世界では揺らぐことのない地位を獲得していた。
「……あら?」
いつものようにオルターエロへ出向いた小春は、店番をしていた男を見て首を傾げる。
「いらっしゃいませ、小春さんですね、父からお噂は伺っております」
店番の男は、生のニンジンを片手に、優雅な仕草で小春に挨拶した。
その不審さに眉を顰めながら、小春も挨拶を返す。
「ごきげんよう、ところで、あの、貴男はいったい……?」
「ニンジンとお呼びください、父が隠居しましたので、当店を任されることになりました」
「そうでしたの」
オルターエロの店主、いや前店主は、おそらくは小春の亡き父と同世代だったと思われる。
調教用品専門店の主として気力・体力の限界を感じていると語っていたことを、小春は思い出した。
「まだ、父の領域には及びませんが、これからも当店をご贔屓に願います」
「こちらこそ、よろしくお願いしますわ」
見てくれこそ怪しさ満点ではあったが、前主人に似たニンジンの紳士的な物腰に、
小春は警戒心を緩めた。
調教師と調教される奴隷の間に精神的な繋がりは不用、というのが小春の持論だ。
調教には万全の愛情を持って臨むべきではあるが、奴隷の愛情もしくは信頼は、
将来の主人に向けられるものであって、調教師が受けるものではない。調教師は孤独な職業だ。
若い頃の経験のせいもあって他人に全幅の信頼を寄せる事の無かった小春にとっては、
そのドライな関係はむしろ心地良いもので、苦にはならなかった。
それでも、たまには他人との触れ合いが欲しい事もある。
そんな時、小春が向かうのはオルターエロだった。決して深くは踏み込まず、
それでいてほどほどに私的な会話も交わすことが出来る同世代のニンジンと過ごす時間は、
調教師としてではない、一人の人間としての小春を癒す貴重な時間だった。
「ウィミィに負けてしまったら、これからこの国はどうなるのかしら」
「ええ、調教師も表立っての活動は難しくなってきたようですね」
女性上位を命とするウィミィに統治されるようになったら、
主に女奴隷を育成する調教師の仕事は闇に潜るほか無い。
フリーの調教師である小春も、そろそろ仕事に限界を感じていた。
「それなんですの、いっそウィミィ本国に渡って、新しい勉強でもしようかしら」
「小春さんならばそれも可能でしょう、けれど、せっかくの調教技術が惜しくもありますね」
ニンジンは初めてあった頃から変わらない、優雅で紳士的な口調で商売換えを暗に否定する。
小春も、調教師をやめてしまえば、二度とニンジンと接することはないだろうとの思いから、
廃業を思い切ることは出来なかった。
「私の愚弟がとある組織の専属調教師を務めているのですよ」
「専属調教師……」
戦争が激化し調教師の仕事が減少してきた現在、幾度と無く専属調教師にと誘われたが、
小春は全て断ってきた。他人を信頼しない性格と独特の調教哲学から、
制限の多い専属調教師は自分には無理だと、小春は思っていたからだ。
「愚弟の主は懐の深い方だと聞いております、その方なら小春さんの長所を潰すこともないでしょう」
「……少し、考えさせていただけるかしら」
「貴女自身のことですからじっくりお考えなさい、お心が決まったら私が連絡を取りますから」
ニンジンの言葉に肯き、小春は即答を避け慎重に検討を始めた。