夢が終わって
シィルの絶対服従が解けている事をランスが知ったら?◇2005/10/10 日常
事の始まりはちょっとした言い争いだった。
いつもはランスに口答えする事の少ないシィルが、珍しく食い下がる。
だからつい、ランスも言い返してしまったのだ。
「随分突っかかるなあ、そろそろ絶対服従の魔法を掛けなおさんといかん時期か?」
軽い冗談のつもりだったのに、反論しようとしていたシィルが顔を伏せてしまう。
「……ランス様、ご存じだったんですか?」
部屋の中が静寂で満たされる。それ以上、問わなければよかった。
「本当に……もう解けているのか?」
シィルもランスの言葉に肯かなければよかった。そうすれば、いつまでも夢を見ていられたのに。
シィルに掛けられた、絶対服従の魔法。
全ての女性は俺様に惚れるべき、が、ランスの信条だ。
なのに、魔法で縛っているからシィルには何をしても怒らないのだと、
シィルを失う事など決してないのだという、『夢』の拠り所にしている絶対服従。
「魔法が解けているのに、なんで……」
逃げようとしないのかと言おうとするが、口がうまく回らない。
俯いたシィルは、ランスの様子に気付かぬまま、ぽつりと呟いた。
「そんなの……好きだからに決まってるじゃないですか」
その言葉が、ランスの動きを封じる。
立ち尽くしているランスをそのままに、シィルが部屋を出て行ってどの位経つだろう。
ランスの前に戻ってきたシィルは、いつもとは違う地味な服に小さな鞄を手にしていた。
「ランス様」
ランスの正面に立ったシィルは、じっとランスの目を見つめた。
「今までありがとうございました、ランス様にお会い出来て、シィルは幸せでした」
過去形の感謝の言葉にランスの力が抜ける。口の中がからからに乾いていた。
「それと……今まで嘘を付いていてすみませんでした」
絶対服従の魔法が解けていないふりをして、ずっとランスの側にいた事を、シィルは詫びる。
「私、ゼスに帰りますね」
そう言ってランスに背を向けるシィル。一歩また一歩と離れていくシィルの背中を、
まるで夢の中の出来事のように見ていたが、シィルの白い手がドアノブにかかった瞬間、ランスは動いた。
どん、と大きな音がした。ランスがシィルを力任せに抱きしめ、そのまま壁に押しつけたのだ。
「……っ!」
きつく腕をまかれ、シィルは息をするのもやっとだ。
ランスは何も言わず、いや言えずに、そのままの姿勢で動けなかった。
──俺の事が好きなら何故離れる?
そう言ったら、シィルは思いとどまってくれるのだろうか。しかし、それでも拒絶されたら。
──俺は何を恐れている?
今まで、さんざんシィルのいやがる事をしてきた。
たまには優しくしてやる事もあるが、そうでない事の方がはるかに多かっただろう。
なのにシィルは、ランスの事を好きだという。疑問が次々と現れては、明確な形を為さずに消えていく。
ランスは黙ったまま、シィルを抱きしめているより他に何もできなかった。
ランスの腕の中で、シィルは目を閉じていた。
「……苦しいです、ランス様」
いくらランスの力が強いとはいっても、振りほどこうと思えばシィルには振りほどけたはずだ。
なのにそのまま抱かれているのは、シィルも同じ『夢』を見ていたから。
──今なら、まだ魔法は解けてないって……言える?
魔法のせいで従っている事にすれば、きっといつまでもランスの側にいられるだろう。
もうこれ以上ランスに嘘を付き続けたくないという気持ちとの狭間で、シィルは迷っていた。
例えその嘘が、ランスが望む嘘であったとしても。
◇◇◇
ランスとシィルの金縛りを解いたのは、遊びに出ていたあてな2号の声だった。
「あっ、ご主人様またシィルちゃんと遊んでるれす、シィルちゃんばっかりずるいー」
慌ててシィルを離したランスに、あてなが抱きつく。
「いやその、遊んでいたわけでは……」
言い訳しているランスから離れたシィルは、小さな鞄を部屋の隅に置く。
そして、いつもの買い物籠に愛用のがまぐちを入れて、部屋を出ようとする。
「お、おい、シィルっ!」
「夕飯のお買い物に行ってきます」
そう答えるシィルはいつものほんわりとした笑顔なのに、ランスの不安をかきたてる。
「俺も一緒に行こうか?」
「大丈夫ですよ……ちゃんと帰ってきますから」
夕飯のへんでろぱに口を付けたランスは、首を捻った。
「……?」
ひどく不味いというわけではないが、何かが違う。
いつもなら、不味いと怒鳴ってシィルの頭をぽかりとやるところだが、
絶対服従の魔法が解けていると知ってしまった今、そうする事もできない。
そっとシィルの様子を窺うと、シィルもやはり腑に落ちない顔でへんでろぱを口に運んでいる。
「シィルちゃん、今日のへんでろぱおいしくないれすよ」
「あ、あてな……」
あてなのストレートな物言いに、ランスはいらぬ気を回してしまう。
しかし、シィルは、肯きながらあてなに応えている。
「うん、あてなちゃんもそう思う?何がいけなかったのかなあ……ランス様、どう思います?」
「えっ、や、俺は料理の事はよく解らんが」
いきなり話を振られて混乱するランス。
「……その、なんだ、次はもっと美味く作れ」
出て行くなと、ずっとここにいろと、遠回しに言ってしまっ事に、シィルは気付いているのかどうか。
ランスは一人、ベッドの上に横になっていた。
そろそろ風呂から上がるだろうシィルを呼ぶべきか、
呼んだとしてそのままいつものような夜を過ごしてもいいものか。仕事前よりも綿密に計画を練り
何度もシミュレートを繰り返すが、完璧なプランにはほど遠いように思える。
堂々巡りを繰り返すうちに、シィルとあてなの会話が聞こえてくる。
ランスは深呼吸をして起きあがり、シィルを呼んだ。
ベッドの端に腰掛けているランスと、その前に立っているシィル。
「……されるのですか?」
「ん……お前はどうなんだ、したいのか?」
「ランス様が望まれるのでしたら」
抑揚のない言葉。シィルの表情は読めない。小細工を弄するのは諦め、ランスは直球勝負に出た。
「そりゃあ、お前とならいつだってしたいさ……でも、無理矢理はよくないだろ、なあ?」
「ランス様、絶対服従の魔法が解けたのは、昨日今日の事ではないですよ」
シィルが薄く笑う。寂しそうな悲しそうな笑顔に、ランスの胸がぎゅっと痛む。
いつだって強引にランスはシィルを求めてきた。シィルが拒む事はまず無かったが、
本当にいやな事ははっきり拒絶したし、ランスも強要しなかった。
「ランス様……私、ランス様にそんなふうに変に気を遣われるのはいやです」
はっと、ランスは顔を上げた。シィルの顔は、相変わらず無表情ではあったけれど。
「そうか……そうだな、では、俺のやりたいようにやるか」
ランスは手を伸ばすと、シィルの腕を掴んでベッドに引っ張り込んだ。
明かりを消して、毛布の中でシィルを抱きかかえる。
「ランス様……?」
それ以上、何もしないランスを訝しんで、シィルが僅かに動く。
「ん、どうした?何かして欲しいならしてやるぞ」
敢えていつもの意地悪な調子でランスは囁く。暗闇の中、シィルがふっと笑ったように見えた。
そして、シィルの方からランスにぴったりと寄り添ってくる。
「じゃあこのまま、朝まで眠らせていただいてもよろしいですか?」
◇◇◇
翌朝。
目を覚ましたランスは、右肩がやけに寒いのに気付いて飛び起きた。
きっちり一人分空いている右側。シーツに触るとやけに冷たい。
「シィル!?」
慌ててベッドから抜け出そうとしたランスの耳に、聞き慣れた足音が聞こえた。
「お、お呼びですか、ランス様」
はあはあと息を切らせて、シィルが寝室のドアを開けた。手にはおたまを持ったままだ。
「あ……ああ、飯作ってたのか」
「ええ、あと少しなんですけど、それまでお休みになってます?」
返事をするシィルの顔は、いつもの顔だ。
「いや、目が覚めてしまったからもう起きる」
「はい、ランス様」
シィルは来た時と同じように、ぱたぱたと派手な足音を立てて台所に戻っていった。
(昨日のアレは……夢だったのか?)
ランス好みの朝食を笑顔で給仕するシィル。あまりにもいつもの光景に、ランスは首を捻った。
だからといって、改めて絶対服従の魔法の事を問いただすのも躊躇われる。
まだ、しばらくの間は、二人で同じ夢を見続けるために。
(それでもまあ、保険は掛けておくべきか)
「シィル」
「何ですか?」
「飯が終わったらギルドに行ってくる、そろそろ仕事でもするとしよう」
ランスが考えつく限りでシィルが喜びそうな事を提案する。
満面の笑顔になったシィルを見て、ランスもようやく胸のつかえが下りる。
「じゃあ冒険の準備をして待ってますね!」