1.溶けたもの解けないもの
◇2008/04/28
寒い。
ものすごく寒い。
何で私はこんな寒い所にいるの?
あまりにも寒くて、身体が動かない。目も開かないし、喋る事も出来ない。
耳の奥ではぶんぶんと大きな虫が飛び回っているようで、何も聞こえない。ぐらりと身体が傾いたような気がする。
あっ、このままじゃ倒れちゃう……でも、指先一つ動かす事も出来ない。どうしよう……そう思った瞬間、
暖かくて大きな手に抱きとめられた、ような……気がする……でももう……
…………私は…………
「……っくしゅんっ!」
うう、なんかまだ寒気がする。自分のくしゃみで目が覚めてしまった。ここはどこだろう。
そっと目を開けると、すぐ横に、茶髪の男の人がいる。瞳も茶色だ。ちょっと口が大きいけど、かっこいい。
「ん、起きたか」
男の人はじっと私を見ている。誰だろう……でもやっぱりかっこいいなあ。知らない人、だよね?
友達のお兄さん……にしてはちょっと年が離れてるような気もするし。
「あの……」
「何だ?」
ここはどこ?と聞こうと思ったけど、その前に自分で調べられる事は調べなくちゃ。体を起こして周りを見る。
和室だ。それに、私も温泉宿みたいな浴衣を着ている。寝ていたのはお布団だし、何だかすごくJAPANっぽい。
そういえば、茶髪の人も浴衣を着て、丹前?っていうんだっけ、上に一枚羽織っている。
「シィル?」
わ、びっくりした。どうして私の名前を知ってるんだろう。
「何ぼんやりしてるんだ?」
茶髪の人は手を伸ばして、私の頬に触れる。あっ、さっきの暖かくて大きい手……
お父さんの手みたいに安心する手だ。でも、指がごつくて、たことかまめが潰れた跡とかある。
魔法使いでしかも役所勤めのお父さんとは、全然形の違う手。剣とか、武器を扱う手、ってかんじ。
そうだ、ここがどこか、よりも、この人が誰か、を先に聞いてみよう。
そう思った時、部屋の襖がからりと開いて、かわいい女の子が入ってきた。
「シィルさんの様子、いかがですか?」
あれっ、この女の子も私の名前知ってるの?JAPANのお姫様のような和服を着た女の子が、どうして?
「ああ、目は覚めたんだが、何だかぼんやりしていてな」
「まあ……シィルさん、大丈夫ですか?」
うん、ちょっと寒気がする以外は大丈夫、だと思うんだけど。そう答えたら、後でお医者様を呼んでくれるって。
かわいいだけじゃなくて親切な子だな。あっ、そうだ、さっきから聞こうと思ってた事を聞かなくちゃ。
「ありがとうございます、ところであの……あなた達は誰ですか?」
女の子が困った顔をする。私、何か変な事言っちゃった?少しして、目から火花が。
「ふざけた事言ってんじゃねえ!」
「きゃあ、ランスさんいきなり何してるんですか!」
い、痛い……茶髪の人にいきなり殴られた……さっきはかっこいいと思ったけど訂正、訂正、
こんな乱暴な人、顔が良くてもかっこわるいよ!というか、そうか、この人の名前は『ランス』っていうんだ。
「香ちゃんもこうやって心配してくれてるのに、何寝ぼけた事言ってやがる」
香ちゃん……このかわいい女の子の名前かな。
「シィルさんしばらくの間凍ってましたし、もしかしたら一時的な記憶喪失かも……」
「凍ってた……って、私が?」
アイスやこかとりすのお肉じゃあるまいし、私がかちんこちんになってたとか?それとも、何かの喩えなのかしら。
「……本当に覚えてないのか?」
「えっと、ご自分の名前はわかりますか?」
「シィル・プライン……」
記憶喪失……ううん、ちゃんと覚えてる。自分の名前も、生まれた日も、両親の事も。
ランスさんと香ちゃんに聞かれるまま、私は次々と答えていく。そう、ちゃんと覚えてる。
魔法応用学校の入試に合格した事、春から学校がある町に通う事。
「その後は?」
ランスさんが何だかいらいらしているように見える。また殴られたらいやだなあ。でも、『その後』って……?
私は応用学校を卒業して、官僚になるつもり。そして、ほんの僅かでもゼス王のお手伝いをして、
ゼスの悪習である身分制度を撤廃できたらいいと思っている。でも、それはあくまで私の夢だし。
「……」
ちょっとランスさん、夢を語らせておいて黙り込むってどうなの?確かに、
実現させるには気の遠くなるような努力が必要な夢だとは、自分でも思うけどさ。
「一級市民、二級市民の区別なら、とっくに無くなってるぞ」
「えっ、うそ、いつ!?」
それが本当なら嬉しい事だけど、そんな話聞いた事もない。
「ゼスに魔軍が侵攻してきた事がきっかけになってな……LP4年の事だ」
「え、LP……?」
LPって何……?今はGIじゃないの?いつ年号が……魔王が変わったんだろう。
というか……私もしかしたら本当に記憶喪失なの?
頭ががんがんする。息が苦しくなる。落ち着こうと自分の胸に手を当て……っ、えええー!?
「む、胸が大きくなってるー?」
「え……」
びっくりしている香ちゃん、ご、ごめんね、びっくりしすぎてついうっかり変な事言っちゃった……
「どれどれ」
もぎゅ。
いっ、いやあああああっ、ら、ランスさんがいきなり胸触ったーっ!いや、触ったなんてかわいいもんじゃなくて!
「凍る前と変わってないぞ、大きさも揉み心地も全く同じだ」
私もびっくりしてるけど、香ちゃんが唖然を通り越して呆然とした顔になっている。かわいい顔がもったいない。
でもランスさんは全然気にしない様子で、手をわきわきと動かしている。あ、左利きなんだ……じゃなくて。
「な、な、何ですかいきなり!」
「何って、お前がサイズ気にしてるから調べてやっただけじゃないか」
だからっていきなり揉まなくても……それに、そんな一回揉んだだけでわかるようなもんじゃないでしょ!
「何だ俺様のこの超感覚を信じてないのか?」
「ちょ、超感覚って……」
「うむ、一度揉んだ胸は全て覚えてるぞ」
う……うわあ……
「ましてや、しょっちゅう揉んで手に馴染んだお前の胸がわからいでか」
この人……すっごい下品だ……
「あーでも一度だけ、お前の胸と間違えた女がいたな、ピンク仮面というやつでな」
「ら、ランスさん、もうその辺でやめておいた方が……シィルさんも困ってますし」
困っているというより、呆れてるんです、はい。
「あの、それより気になる事が……シィルさん、今おいくつですか?」
「え、応用学校の試験受けたから15才なんですけど」
あれ?香ちゃんもランスさんもまた変な顔してる。でも、今ってGI1015年だから15才……
あっ、そういえば年号がLPに変わったってさっき言ってたっけ。しかもLP4年に身分制度撤廃されたってことは、
現在は少なくともそれより後って事なの?それじゃあ今は一体何年なんだろう。
「お前が凍ったのはLP5年の誕生日後だ、凍っていた間年を取らなかったとしても、少なくともお前は二十歳になる」
「二十歳……」
二十歳って言ったら、もう大人だよね。うーん、信じられない。でも、LP5年で二十歳って事は、
GIは1015年までしか無かったんだ。そんな事、今考えてもしょうがないけど。そういえばさっきから。
「『凍ってた』って、どういう意味ですか?」
「言葉の通りだ、お前は美樹ちゃん……魔王リトルプリンセスに凍らされてたんだ」
魔王!?何で私が魔王に?今ここにいる事と何か関係があるの?そういえばここは一体どこ?
ランスさんは大陸の人だと思うけど、香ちゃんは純粋なJAPANの人みたいだし。さっき、襖を開けた時見えた庭は、
大陸のお金持ちがたまに作るJAPAN風庭園とは違って、本当にJAPANっぽかったし。
聞きたい事が多すぎて、頭の中をぐるぐるしている。何から聞いていいかわからない。
「なあシィル、今までの話を総合すると、お前の記憶はゼスにいた所から途切れているようだが」
「ゼスにいた所から……って、私、他の国に行った事無いんですけど……」
確かに、ゼスの厳しい身分制度を嫌って他国に出る人も多い。
でも、私はゼスを変えたいと思っていたから、外には出ないつもりだった。
私に一体何があったんだろう。
「……奴隷商人の事は覚えているか?」
奴隷商人?ゼスでは『人材斡旋』を建前に二級市民を奴隷として売買する組織がいくつかある。
あ、今は身分制度が無くなったから、『あった』というべきかな。
でも、うちではおじいさまも両親もそういうのを嫌っていたから、使用人はいたけれど、
人間を道具として扱うような業者の出入りは固く禁じられていた。
だから私も、奴隷商人の話は知っているけど、実際に見た事は一度もない。
そんな事を、うまくいえたかどうかわからないけれど説明すると、ランスさんが難しい顔になってる。
そういえばランスさん、魔法使いじゃなさそうだけど、まさか、奴隷商人が私のうちに売り込みに来たとか……?
ぽかっ。
「ひーん、また殴ったあ!」
「逆だ、逆!」
ランスさんに殴られて出来たたんこぶに、慌ててヒーリングを施す。回復魔法が使えてよかった。
「奴隷商人に売られていたお前を、俺様が全財産はたいて買ってやったんだ、ほんっとーに覚えてないのか?」
私が、奴隷商人に売られていた……?
「だいたい、何で都合良く俺様に会う直前からこれまでの記憶が綺麗さっぱり抜け落ちているんだよ、
奴隷から解放されたくて嘘をついてるんじゃないのか?」
混乱して呆然としてる私に一通り捲し立てた後、ランスさんは不愉快だと言い捨てて部屋を出て行った。
不愉快、って言われても、本当に覚えてないのに。悔しいんだか何だかわからない涙で、視界がぼやける。
「シィルさん、大丈夫ですか」
香ちゃんが、慰めるように私の手を握ってくれる。本当にいい子だなあ。
「あのですね、ランスさん、本当に怒ってるわけじゃないと思いますよ」
「え……?」
「確かにランスさんは、いつもシィルさんの事奴隷呼ばわりしてましたし、シィルさんもそれを受け入れていましたけど」
「受け入れてたんですか……私」
「あう、えと、ですけどね、私たちからは、ちょっと意地悪な彼氏とけなげな彼女にしか見えなかったんですよ」
でも、さっきから短い時間に二回も殴られてるし、乱暴で下品な人だし……
「ランスさんはシィルさんの氷を溶かす方法を探すためにヘルマンまで行ったんです」
「ヘルマン……?」
「はい、ここJAPANから遠く離れた北の大国、ですよね」
そっか、ここはJAPANなんだ。凍った私を溶かすためにわざわざヘルマンに行って。
帰ってきて氷を溶かしてみたら私がランスさんの事全く覚えてなかった、じゃあ、確かに怒るよね。
記憶がないのは私が悪いわけじゃないけど、でも。あっ、だめ、また涙が出てきちゃう。
「あっそうだ、シィルさんお腹減ってないですか?」
私の気を紛らわそうと、香ちゃんは話題を変えてくれた。
「えっと、ちょっとだけ減ってる……かな?」
「でしたら、何か口当たりのいいもの持ってきますね、その間お医者さんに診てもらいましょう」
「記憶が一部無い事以外は外傷もありませんし大丈夫ですよ、ただ、疲れが溜まっているようなので、
おいしいものを食べてゆっくり休むといいでしょう」
「ありがとうございます」
香ちゃん……ううん、JAPANを統べる尾張の国主だから香様と呼ぶべきだね……が呼んでくれたお医者様は、
私を一通り診察すると、そう結論を出した。記憶が……ランスさんに会ってから今までの記憶が無いのはきついけど、
魔法はちゃんと使えるみたいだし、なぜか生涯変わらないはずの才能限界は伸びてるし、健康ならきっと何とかなる。
……うん、きっと。
「シィル、入るぞ」
お医者様が出て行った襖の向こうから聞こえたのはランスさんの声。とりあえず不機嫌そうではない。
ランスさんは私の返事を待たずにお医者様と入れ替わりに部屋に入ってきた。手に持ってるマグカップは何だろう。
「あの……」
「ああ、さっきは怒鳴って悪かったな」
ばつが悪そうな顔。やっぱり悪い人じゃないのかな?
「いえ、私の方こそ、何も覚えて無くてごめんなさい」
ランスさんは布団の上で正座している私の横に座ると、手で私の頭をぽんぽんと軽く撫でた。
「何かのきっかけでまた思い出すだろう、気にするな」
ランスさんは笑っていたけど、ちょっと寂しそう……本当にごめんなさい。
「ああそうだ、これ」
もう一度私のもこもこ頭を撫でてから、ランスさんはマグカップを渡して寄越す。りんごのいい匂い。
「えっとなんだっけ、そうそう、フルーツ葛湯というものらしい、冷めないうちに飲め」
これ、飲み物なんだ。カップに口を付けてみる。とろとろのりんごジュースという感じ。
「甘くておいしい……それに体が温まるみたい」
「風邪ひいて食欲が落ちた時に飲むものらしい、香ちゃんが作ってくれたんだ」
香様が……後でお礼言わなくっちゃ。
甘くて暖かいものを口にしたせいか、とろんと眠気が襲ってくる。ランスさんに聞きたい事はいっぱいあるけど。
「眠いなら寝ていいぞ」
「うん……お休みなさい、ランスさん」
ランス『さん』か……ってちょっとだけ聞こえたけど、今は眠くて眠くて仕方ないから、その意味を聞くのは後にしよう。