桜の姫
◇2006/03/18
──桜の姫に心奪われてはならぬ
大陸から切り離された島であるJAPAN、そこを治める山本家の当主にだけ、
ひっそりと語り継がれる家訓がある。
RC年代、幾度と無く起きた大陸諸国の戦乱にもJAPANがさしたる影響を受けなかったのは、
その地理的条件もあったが、何より、
山本家の祖が魔王ランスの血をひいていると言うことが大きかっただろう。
魔人領とは対極の位置にありながら、魔王の直轄領といっても差し支えない立場の国だった。
しかし、それをよしとしない他国あるいは国内の集団は、常に存在している。
事が起きた時はもとより、平時でも年に一度は魔王の使者がJAPANを訪れ、
人魔共存のモデルケースとしてのJAPANを管理していた。
使者を務めるのは、大抵が人魔共存派の筆頭である魔人ホーネットだった。
戦闘力・指導力ともに優れた資質を持つものの、お嬢様育ちが災いしてか、
かつては今ひとつその能力を発揮出来なかったホーネットだったが、
ランスにJAPANの管理を任されたことで、後に魔王として新たな時代を築く素地を養うことになる。
希に、ホーネット以外の魔人がJAPANを訪れることがある。
筆頭魔人シィル、彼女がJAPANを訪れるのは、当主の元服式や大きな問題が起きた時、
あるいはランスが直接視察に訪れる時の随行としてだ。
◇◇◇
十四代目当主山本無銘の元服式が執り行われた年も、シィルはJAPANにやって来た。
桜咲く季節、桜色の髪の魔人シィル。少女のような彼女の笑顔に、
思春期に差し掛かったばかりの無銘は釘付けになった。
ぽうっとなってシィルを見つめる無銘に、無銘の父は影の家訓を伝えた。
「桜の姫に心奪われてはならぬ、彼女は魔王のものなのだ」
父に言われるまでもなく、無銘は理解していた。シィルは人間ではない。
大陸の頂点に立つ魔王ランス、その筆頭魔人であり妻といえなくもない立場のシィルを、
ただの人間である無銘がどうこう出来るものではないことを。
理性では納得出来てもなおシィルから目が離せないのは、彼の遺伝子を受け継いでいるせいなのだろうか。
「山本無銘、十四代JAPAN当主ですね」
魔王からの祝辞だと、シィルは書状を無銘に渡す。
「これからも佳くJAPANを治めてゆくことを、魔王様は望んでいらっしゃいます」
「謹んでお受けいたします」
シィルに見とれていた無銘は慌てて頭を下げ、書状を受け取り教えられたままの口上を返した。
無銘の治世には、さしたる混乱は起きなかった。
魔王ではなくシィルの期待に応えたいと、無銘は尽力した。
とりわけ美しく桜が花開いた年には、ランスがシィルを伴って花見に訪れる。
当主として花見の宴を取り仕切る無銘に、シィルお手製花見弁当が下賜されることもあった。
JAPANとは違う食文化に素直に驚き賛辞を贈ると、シィルは元服式の時と変わらぬ笑顔で喜んだ。
シィルへの思いを胸に秘めたまま時は過ぎる。
妻を娶り跡継ぎを作る、当主としての務めを無銘はこなす。
妻子を愛していることは疑うべくもないが、シィルに対する気持ちはそれとはまた別のものだ。
その人生の節々に、ランスとシィル、あるいはシィルが訪れるのが、嬉しくも辛い。
そして幾度めかの桜の季節。無銘の子供である無欲が元服式を迎える年が来た。
式の支度の合間に、無銘は一着の着物を作らせていた。
届いた桜柄の着物を広げ、無銘は感慨深げに眺めた。
「父上、その着物は……?」
ふと通りかかった無欲が、その着物に目を落とす。
「ああ、魔人様への贈り物だ、お前の元服式に出席していただく御礼だ」
「ホーネット様、でしたっけ、あの方はあまり和服が似合うとは思えませんが」
「ホーネット様ではないよ」
そういえば、無欲が生まれた時以来シィルがJAPANを訪れたことはなかったと、無銘は気付く。
「お前の名付け親でもある、魔人シィル様だ」
満開の桜の下、桜色の髪のシィルが桜柄の着物を着ている姿を、無銘は想像する。
無欲もまた、自分のように桜の姫に心を奪われてしまうのだろうか。
「無欲、次期当主のお前に伝えねばならぬ事がある」
亡き父も、今の無銘と同じ気持ちで同じ言葉を口にしたのかも知れない。
──桜の姫に心奪われてはならぬ
JAPANの当主が山本であったRC年代、継承され続けた影の家訓を、
無銘は十五代目当主たる無欲に語り始めた。