7.シャングリラ帝時代
◇2004/05/02
リーザス王退位宣言からシャングリラ帝即位までの半年間、皇帝は立場上独身であった。
世を騒がせた一言は、厳密には退位宣言ではなく、リアへの離婚通告であったからだ。
その為、独身ではあるが、地位としてはリーザス王のままだったのだ。
とはいえ、その身はリーザス城にあり、リーザス王時代のハーレムも残されていたため、
リアが正妻でなくなったという点以外では、女性関係はそれまでと変わる事はなかった。
──「泥棒猫」と、顔を合わせるたびにリア様に罵られる。
離婚したからといって、ランス様は別にリア様を邪険に扱う事もないし、私を優遇する事もない。
それでも、ランス様を愛しているリア様にとって、私は手近にいる恨みの対象なんだろう。
でもたまに思う事がある。ランス様に会ったのは私の方が先なのに、と。
こんな小さな事で優越感を持ってしまう自分が嫌い。
◇◇◇
──他の女に言い寄られるのが面倒になったからとりあえずおまえと結婚しておく、
それがランス様からの求婚の言葉だった。相変わらず不機嫌そうな顔だった。
どう答えていいか迷ってると、断る事は許さんと、やっぱり相変わらずの鉄拳。
もちろん断るわけないけれど、なんだか現実感がない。
即位直後、皇帝は結婚を宣言する。シャングリラ初代皇妃シィル誕生である。
シャングリラ宮殿にもハーレムは設けられた。
その規模は最大時でリーザス王時代の3倍とも言われ、皇帝の行状も相変わらずであったようだ。
だが、リーザス王時代との大きな違いは、ハーレムの女性は皆自ら望んで入内したという点であろう。
──リーザスの後宮をシャングリラに移したい、と、神妙な面持ちでランス様が言った。
少しは私に気を遣ってくれているのかと、嬉しいような可笑しいような気持ちだ。
無理強いはしないように、と表現に気を遣いながら、答えておいた。
かつては好みの女性を手当たり次第集めていた皇帝だが、皇妃に釘を刺された事で、
相手の意思を尊重するようになったと言われている。結果として、皇帝を心から敬愛する女性ばかりが
集まる事になり、皇妃は可愛らしくやきもちを焼く事になった。
また、皇帝は、各国の統治者あるいはそれに準ずる女性とも積極的に交渉を持ち、子を成している。
各国中枢に近い女性が産んだ子供も側室が産んだ子供も区別することなくかわいがり、
意外な子煩悩ぶりを発揮した皇帝だが、皇妃が産んだ皇女と皇子は、手元で育てた事もあって
やはり別格だったようだ。
◇◇◇
──妊娠を告げてから、どうもランス様は落ち着かない様子だ。 もう、何人もの子供の誕生を見ているのだから、そろそろ慣れてもいい頃なのに。
──臨月に入り、私は覚悟が決まってきたけれど、ランス様はやっぱりまだそわそわしている。 日に何度もお腹を触って、動いたと言っては飛び上がっている。なんだか不思議な感じだ。
──今日から五十六さんがしばらくシャングリラに滞在してくれることになった。 経験者がいてくれると、やっぱり心強い。ランス様も経験者のはずなのだけど。
後の二代目シャングリラ帝である皇女の誕生に、皇帝はことのほか喜んだという。
──子供の名前が決まった。彼女の名前はホーリィ。一応、私が付けた名前、という事になっている。
ランス様に相談をしたら、とりあえず私が考えた名前を言ってみろ、と言う。
以前から、女の子だったら「ホーリィ」がいいなあと思っていたのでそう答えたら、その場で決まってしまった。
ランス様が公務に戻った後、お手伝いに来てくれたマリアさんに名前を聞かれたので答えたら、
結局はランス様が決めた名前にしたんだ、と言われてしまった。なんでも、男の子だったら「ブレス」
女の子だったら「ホーリィ」にすると言っていたらしい。
ランス様と同じ名前を考えついた事がなんだか嬉しい。
後に生まれたブレス皇子(後の自由都市連合議長)も、 正史の上では皇妃が名前を付けた事になっているが、この日記からすると皇帝の案なようだ。
◇◇◇
皇帝似の皇女と皇妃似の皇子、二人の子供に恵まれ、皇帝と皇妃の生活は順風満帆であった。
しかし、50才の誕生日を迎えた直後、皇妃は急な病に倒れる。
──大陸一の名医と言っても過言ではないアーヤ先生も、打つ手無しの様子。
ただの病気ではなく、なにか呪術的な力が作用しているのではないか、との事だった。
昔、ランス様がリーザス王だった最後の日私にくれた呪い封じの指輪は、先日ホーリィに譲ってしまった。
やはり、誰かに恨まれ呪われているんだろうか。
そして日記は、最後の日だけ普通の文字で書かれている。
──私はランス様に出会えて幸せでした。ずっと先の話、ランス様がこちら側にいらっしゃる時は、 必ず迎えに来ますから、ゆっくりお出でになってくださいね。
◇◇◇
皇帝は、生涯ただ一度だけ、皇妃に「愛している」と言ったという。それは、皇妃が息を引き取る間際であった。
その後、皇妃の遺品を、皇帝は全て処分してしまったと伝えられている。
実際、このたび日記と共に大量に発見されるまで、皇妃の私物とされる物は何一つ見つかっていなかった。
見るのも辛く、かといって完全に処分してしまうのも忍びなく、宮殿の地下にあった隠し部屋に
皇妃の遺品を全て封じ込めてしまった皇帝の心境は、どのような物であったのだろうか。
87才という当時稀に見る高齢で崩御した、統一シャングリラ帝国初代皇帝ランス。 かの皇帝の最期を見取った魔人サテラは、当時の事をこう述懐する。
◇◇◇
「窓を開けてくれ」とランスは言った。サテラが窓を開けると、暖かい春の風が部屋に入った。
ふと、風に乗って蝶が迷い込んできた。あの子の髪と同じ、ピンク色の蝶だった。
蝶は迷わずランスの枕元に向かい、顔の前でくるくると舞った。
それを見たランスは満足そうに微笑んで「約束通り迎えに来たのか」とだけつぶやき、そのまま目を閉じた。
ランスの死を確認すると蝶は再び窓をすり抜け、新緑の森へと飛び去っていった。