■徳島城:徳島市徳島町城内
徳島城は、豊臣秀吉から阿波国を与えられた蜂須賀家政が、吉野川河口の標高62mの渭山(いのやま)[現在の城山]に築城したのが始まりで、
山頂の本丸や東二の丸、西二の丸、西三の丸からなる詰の城部分と、本丸御殿が置かれた麓の「御屋敷」と呼ばれた部分からなる、
戦国時代を思わせる縄張りであった。初代の天守は元和年間(1615-1624)に取り壊されたと言われ、その後天守は山頂の本丸ではなく、
一段下がった東二の丸に建てられたが、これは極めて珍しい例であった。城内を巡る石垣は「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩によって
築かれており、徳島城の特色のひとつである。「御屋敷」には「表御殿庭園」がつくられたが、現在も当時のまま残り、国の名勝庭園に
指定されている。2004年の日本経済新聞社調査「何時間でも飽きない日本庭園」では10位に入っている。
平成元年には、城の大手門にあたる鷲の門が再建され、徳島城のシンボルとなっている。鷲の門は黒門外側の三木廓に構えられた門で、
明治8年(1875)の廃城令による解体後も唯一残されていたが、昭和20年(1945)の戦災で消失した。
■蜂須賀家墓所 ●興源寺墓所:徳島市下助任町2-45 / 萬年山墓所:徳島市佐古山町諏訪山
徳島藩主蜂須賀家墓所は、徳島藩主蜂須賀氏とその一族および重臣の墓所である。指定された墓所は、
下助任町の興源寺墓所と、佐古山町の萬年山墓所の2箇所である。
所在地:徳島市一宮町
1338年(延元3年)に阿波守護である小笠原長房の息子の小笠原長宗が築城。長宗の子孫は一宮氏を名乗り、
戦国時代まで一宮城を居城としていた。その後、土佐の長宗我部元親に一宮氏は滅ぼされた。そして、
長宗我部の家臣が城代となっていたが、豊臣秀吉の四国征伐の際に開城した。後に、豊臣秀吉から
阿波国を与えられた蜂須賀家政が徳島城を築城している一年ほど、一宮城を居城としていた。
阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていたが、一国一城令によって
1638年(寛永15年)に廃城となった。現在も石垣や空堀の跡が比較的よく原型をとどめており、
中世の城跡としては徳島県で一番見応えがあると思う。
所在地:板野郡藍住町勝瑞
勝瑞城(しょうずいじょう)は、南北朝時代に細川詮春が築城したのに始まり、戦国時代には畿内一円に勢力を有した
戦国大名・三好氏の居城となった。中世城郭は山城が圧倒的に多い中で、中富川の水運を利用した平城の勝瑞城は全国的に
貴重な城郭として注目され、近年発掘調査が進み、全国最大規模の中世城郭であることが判明した。西隣の三好義賢の
居館跡とみられる勝瑞館跡と共に国史跡に指定されている。蜂須賀家政が徳島城を築城する際に、廃城となった勝瑞城から
石材や建造物の一部を持ち去ったと云われている。勝瑞城跡は旧本丸の部分と云われ、三好氏の菩提寺である見性寺の境内にあり、
土塁と堀が残るのみで、本来の勝瑞城はほぼ田んぼや市街地化してしまっている。今は誰が見ても、この地が四国の中心地で
あったことは想像できない。
所在地:鳴門市撫養町林崎
撫養城(むやじょう)は、別名で岡崎城、林崎城と呼ばれ、築城年代は不明、徳島城を守る阿波九城の一つだったが、
一国一城令により寛永15年(1638年)に廃城となった。城跡のある妙見山は、妙見山公園として整備され、頂上付近に
模擬天守があり、城とは関係がない鳥居記念博物館(鳴門市出身の人類考古学者、鳥居龍蔵の業績を記念した博物館)になっている。
本来の撫養城には天守閣は無かったという。
所在地:阿南市富岡町殿町
牛岐城(うしきじょう)は、別名で富岡城、浮亀城と呼ばれ、現在は「牛岐城址公園」として整備されている。
築城年代は明らかでないが、細川氏に従っていた新開実重が、阿波国に入った際に築城した説が有力といわれる。
蜂須賀家政が設けた徳島城を守る九つの城・阿波九城の一つであった。現在は日亜化学工業によるLEDのイルミネーションで
有名になりつつあるが、それまでは地元でも存在すら知らなかった城である。なぜか写真中央に「すだちくん」の
オブジェが置かれていた。
所在地:小松島市新居見町
城址碑が立つのみではっきりしたことは分かっていない山城。新居見城趾は、1185年源平合戦・屋島の戦いで
源義経軍が阿波国勝浦(小松島市)に上陸した後に、平氏のいる屋島まで道案内した近藤六親家の居城跡だという。