表面張力


ざわめく店内。古びたラジオからは大音量でジャズが流れている。

カウンターの中にいる店主の趣味だろうか。ご機嫌に鼻歌など歌いながら酒瓶を傾け客に出す。
しかしテーブルに付く者達の中で、そんなものに耳を傾ける輩などいない。

好き勝手に笑い、歌い、叫び、酒を喰らう。

ある寂れた町のたった一軒しかない酒場で、ウルフウッドとヴァッシュは一つのテーブルを挟み、
酒を酌み交わしていた。




「珍しいやんか、おどれが飲みに行こうやなんて」
ゆったりと椅子にもたれて煙草を燻らせながら、ウルフウッドは言う。

「ん?たまにはいいだろう?キミと差しで飲むことなんか、そうそうないことだし」
小さく首を傾けて、穏やかに微笑みながらヴァッシュは返事をした。

「ま、そうやな。どっかのジイさんは、いっつも『眠い、眠い』言うて、さっさと寝てまいよるからなぁ」
 ウルフウッドはそう言いながら、グラスを持ち上げると、グイと琥珀色の液体を飲み干す。

「誰がジイさんだよ。そっちが夜通し飲み歩くような破戒牧師なんだろ!僕はいつだって、
 清く正しく美しい生活をだねぇ…」

「はいはい、分かった分かったがな。せっかくのお誘いやしな、勿論おんどれの奢りなんやろ?」

食ってかかろうとしたヴァッシュをさらりとかわし、ウルフウッドは空のショットグラスを掲げて
片目をつぶる。

「ちょっ、誰がそんなこと言ったよ。うわ!それにコレ、結構高い酒じゃないか。
 勝手に何頼んでんだよ!」

ボトルのラベルを見て、ヴァッシュは慌てる。

「まぁまぁ、たまにはええやん。おどれと差しで飲むことなんか、そうそうないことやし、なぁ?」

「!・・・全くもう。しょうがないなぁ。今日だけだよ?」

先ほど出した言葉をそのまま返され、ヴァッシュは苦笑を浮かべる。あまり酒が強いわけでは
ないが、明るく賑やかな雰囲気が味わえる。

この『場』がヴァッシュは好きだ。何の気兼ねも無く交し合うこの男との会話が、今はとても
心地よく楽しかった。

コトリ、とウルフウッドが空になったグラスをテーブルの上に置く。
指がそこから離れていくのを見送ってからヴァッシュは酒瓶を手に取り、相手のグラスへと傾ける。

小さなショットグラスは、あっという間に琥珀色の液体で一杯になった。



「うお!何しとんねん」

「あはは、ごめんごめん。上手に飲んでよ」

酒はグラスの縁ギリギリのところまで盛り上がっており、あと一滴でも注ごうものなら零れ落ちて
しまいそうだ。

そこから溢れ出ることを頑なに拒むように、ゆらゆらと揺れる液体の表面をヴァッシュは
じっと見つめる。

「ちっ。しゃーないなぁ」

ウルフウッドがゆっくりと手を伸ばした。節のある太い指がグラスに触れる。そっと持ち上げられ、
男の口元へ運ばれていく。琥珀色の水面が大きく揺れ、あっ・・・と思った瞬間。






「・・・好きだよ」



ヴァッシュの口から言葉が零れ落ちた。



ぽたり。



ウルフウッドの持つ小さなショットグラスから一滴の雫が落ち、テーブルの上を濡らす。

「何・・・やて?」
その雫を見つめていたヴァッシュは、ウルフウッドの声に視線を上げる。

「キミのことが好きだ」
今度は深蒼の瞳を捉え、ヴァッシュはゆっくりと微笑みながらも、はっきりと言う。



ぽたり、とグラスからもう一滴、雫が落ちた。



「ああ・・・零れちゃったね」

再びヴァッシュはテーブルの上に視線を戻して呟く。



一度堰を切って溢れ出してしまったものは、もう戻らない。
絶えずそこから零れ落ちていくに違いない。次から次へと留まる事を知らずに・・・。

胸の奥が、小さく軋むように痛んだ。






「・・・唐突やな」
長い沈黙の後、ようやくウルフウッドが口を開く。

もしかしたらほんの僅かの時間だったのかも知れないが、ヴァッシュにとってはとてつもなく
長い時間に感じられた。

「そう・・・かな」

「ああ、そうや」

そしてまた、そう言ったきり黙りこむ。店内は相変わらず騒がしく、ジャズの音色もかき消されて
しまう。目を閉じてその音をヴァッシュが拾おうとした時、目の前の空気がゆらりと動いた。

どきり、と心臓が大きな音をたてて跳ね上がる。恐る恐る瞼を開けると、目の前に置かれている
ヴァッシュのグラスに酒が注がれているところだった。

「あ!ちょっ・・・何してんだよ」

小さなショットグラスに並々と注がれた琥珀色の液体。男は口元を吊り上げて、楽しそうに笑った。

「おお、スマンスマン。上手に飲みや?」

ヴァッシュは一瞬目を見開いて男の顔を見た後、小さく笑う。

「仕返しのつもり?キミ、子どもみたいだよ」

「やかまし。おどれなんぞ、ガキそのものやないか」

「もう。ヒドイ言い草だなぁ・・・」

またいつも通りの会話ができたことに、ヴァッシュは少し躊躇いながらもホッと息をついた。


そっとグラスに指を伸ばす。零れないようにそっとそっと持ち上げる。ゆらゆら揺れる水面を見て、
また小さく胸が痛んだ。

それに気付かない振りをして、口元に運ぼうとした瞬間。






「・・・好きやで」



ぼたっ。



ヴァッシュの手元のグラスから大きな雫が零れ落ち、再びテーブルの上を濡らした。



「何・・・言って・・・」
ヴァッシュが視線を上げると、ウルフウッドは真っ直ぐにこちらを見つめていた。

「おんどれのことが、好きや」
そう言って、ゆっくりと濃紺の瞳を細めて笑う。



ぼたぼたぼたっ。



グラスから次々と琥珀色の液体が落ちていく。テーブルの上には小さな水溜りが出来ていた。






「ああ・・・零れてもうたなぁ」



ウルフウッドが呟き、ヴァッシュはビクリと身体を震わせる。その弾みにまた、雫が落ちた。






「・・・唐突、だねぇ」
搾り出すように、ようやくヴァッシュは口を開いた。

「そうか?」

「うん・・・。そうだよ・・・」
顔を歪めながらも、何とかヴァッシュは笑顔を浮かべる。

しかし、手元のグラスは小刻みに震えていた。

「なぁ、溢れちゃったじゃないか。どうするんだよ」
ついに顔を上げていられなくなり、ヴァッシュは俯く。

両手で小さなグラスを包み、力一杯握り締めた。

そう、溢れてしまったのだ。これから先、次から次へと零れ落ちるに違いない。
それまでどんなにギリギリのところで堰きとめられていたとしても、だ。

このショットグラスの中の酒がそうであったように・・・。

溢れ出てしまった後は、一体どうなるのだろう。どうしたらいいのだろう。もう一時だって
止める事もできないのに。






「どうする、て。こうすればええんやろ?」

「え・・・あっ!・・・」

ウルフウッドは、自分の手元にあった僅かに分量の少なくなった液体を一気に飲み干した。
タン、と小気味良い音をさせてグラスを置く。

「簡単なことや。ちゃうか?」

言いながら、ウルフウッドは楽しそうに笑う。

「また、注いだらええやん。受け止めたるわ」

「なっ・・・」

「全部、受け止めたる。」

「ウル・・・フ・・・ウッド・・・」

真摯な蒼い双眸が不安げに揺れる碧いそれを捉える。胸の奥から熱いものが込み上げてきて、
ヴァッシュは泣き出したくなった。



ああ、どうしてこの男はこうなのだろう。



いつだって知らない振りをして、気付かない振りをして、実は最初から何もかもお見通しなのだ。

初めて会ったあの時のように、するりと心の中に入ってきては自分自身ですら自覚できていない、
一番深い奥底の部分を揺さぶる。






「おんどれは?」

ハッとヴァッシュが我に返る。

「飲まへんの?」
ウルフウッドは頬杖をつきながら、グラスを爪で弾いた。

「の・・・飲む、よ」
ヴァッシュもまた、自分のグラスを口元へと運び、一気に飲み干す。

まず喉元が焼け、胸元を通過して腹に落ち、そこから全身へ熱が伝わっていく。
そして、ウルフウッドがやったように、タン!と音を立てさせてグラスをテーブルの上に置いた。

いいのだろうか・・・この男に酔っても。

本当にいいのだろうか。でももう・・・きっと止まらない。

顔を上げれば、優しい表情で自分を見つめる瞳と出会う。

のせいではない熱が、じんわりとヴァッシュの身体を覆い、指先まで痺れさせていった。
瞼の奥にもそれは伝わり、ヴァッシュの視界をぼんやりと滲ませる。



「もう一杯、いくやろ?」
既にヴァッシュのグラスに酒を注ぎながらウルフウッドは言う。

「…うん。そうだね。」
ヴァッシュもまた酒瓶を傾け、ウルフウッドのグラスに酒を注いだ。




テーブルの上には琥珀色の液体が一杯に注がれたグラスが二つ。

それを二人は零さないようにそっと持ち上げ、ゆっくりと近づける。



カチン。






お互いのグラスが触れ合った部分から、また新たな雫が零れて混ざり合い・・・落ちていった。



 

 


インテ大阪合わせのコピー誌『MELLOW/SWEET』より。
甘いんだか甘くないんだか、よく分からない話になって
しまいました。ああ、そうじゃなくて!いや、違うんだ!と
ぐるぐる悩みながら書いた作品。同じ題材で是非リベンジが
したいですね。か〜ちくしょう!もっと上手くなりたいなぁ。