第二話

 午前八時。新幹線の改札を抜けた二人は、まず、駅構内の本屋に立ち寄った。市内の地図を開き、目的地を探す。
「三須戸……み……み、470……465、あった、ここだ。」
 夏印は顔を上げ、隣に立つ瀬知に地図を示した――かったのだが、瀬知がいない。
「瀬知? おい……」
 夏印は地図帳を片手に店内をうろうろさまよう。と、会計を待つ列の中に文庫本を抱えた瀬知を見つけた。
「いきなりいなくならんでくれ。……ところで、何買うんだ?」
「ゴメンゴメン、シリーズで集めてるやつの新刊が出てたからさ。」
 悪いなどとは微塵も思っていない調子で瀬知は手にした本の表紙を見せる。
「……………………”幼妻調教シリーズ”……って……」
「最近デビューした女性作家なんだけど、文章が繊細で面白いんだよね。夏印も後で読む?」
「お前っ……涼しい顔してそういう物買うなよ!」
 瀬知はレジに本を出すと、会計嬢に微笑みかけた。
「領収書お願いします。」
「経費で落とす気か!?」
 夏印は思わず瀬知の肩を掴んだ。瀬知は眉根を寄せて振り返る。
「必要経費じゃなくても5000円未満なら雑費として計上してくれるはずだけど?」
「そ、そうなのか!?」
 愕然とする夏印を横目に、瀬知は溜め息を付く。新入社員ですら知っているような事を、入社して何年も経つこの男は知らなかったらしい。きっと、今までかなりの額を自腹で払っていたのだろう。
「ほら、地図も一緒に買うから。」
 瀬知は夏印の手から地図帳を抜き取り、レジに提出した。

 三須戸村465番地は、商店街を少しはずれたところにぽつねんと建つ一戸建てだった。
「何だか緊張するな……。」
 夏印は乱れてもいないスーツの襟を正す。
「そう。じゃあ、気晴らしにここ見てご覧よ。」
 言って、瀬知は扉の脇に掛かる木札をつついた。
「表札がどうかしたのか?」
「ほら、ここの家主の名前。」
 雨風の浸みた表札の中で、一際立派に書きつけられた名前。
「竜田鯛丹……タッタタイタン……」
「何だか愉快な響きだよね。」
 先入観を植え付けられた夏印の脳裏で鯛が舞い踊る。何処か遠くへ旅立った夏印を脇に押しやり、瀬知は呼び鈴を押した。
「すみません、男爵商事の者ですが。」
 扉が開く。エプロンを纏ったなかなかになかなかな若奥様は、営業用スマイルの瀬知と私用スマイルの夏印を交互に眺め、首を傾げた。
「あの、何のご用でしょうか……」
「このたびは男爵商事をご利用いただき誠に有り難う御座います。お約束の品をお届けに上がりました。」
「私……男爵商事さんには何も頼んでませんけど……。」
 なかなかになかなかの若奥様は、困惑顔で足下にじゃれつく幼い少女をあやす。瀬知はすかさず応答パターンを切り替えた。
「おめでとうございます、貴女は当社のキャンペーンに見事当選されました。ささやかですが、賞品を送らせていただきます。」
「いえ、ですから、男爵商事さんを利用した覚えは無いんですけど……。」
 これでもダメか――。仕方なし、瀬知は封筒を開け、中身を取り出した。
「おめでとうございます、貴女は全国一億人の中から選ばれた幸福なご婦人です。」
 よりにもよってこんな怪しい文句に頼る自分を情けなく思いつつ、瀬知は指輪を翳した。
「つきましては、こちらの指輪を無償でご奉仕いたします。どうぞ!」
 言いつつ、明後日の方向を飛んでいる夏印の脇腹をどつく。夏印ははっと我に返り、ぱしぱしとやる気なさげな拍手を始めた。
「おめでとうございまーす。」
「と言われても、あの、本当に困ります……。」
「さあどうぞ、遠慮なさらず、指にはめてご覧になって下さい。」
 これではまるで押し売りだ――。もう一人の自分の突っ込みを黙殺し、瀬知は高々と指輪を掲げた。
 眩い太陽光が指輪にはめられた紅玉の中心を抜け、庭に差し込む。その光線の先には、運悪く、今時珍しい猫避けの水入りペットボトルがあった。
 収束した光は熱を生み、薄いレースのカーテンに――
 気弱そうに見えてなかなかねばる若奥様を相手に玄関先で押し問答していた瀬知は、ふと異臭を感じた。
「何か……こげくさくないですか?」
「え? そうかしら……」
 振り向いた六つの瞳に燃え上がるカーテンが映る。三人の頭は、しばし正常な思考を放棄した。
「も……燃えてるよおい!!!」
 悲鳴のような夏印の声が沈黙を破る。
「消防車だ、早く!!」
 辺りは瞬く間に阿鼻叫喚の地獄――とまではいかないが、とにもかくにも大騒ぎになった。商店街から歩いて一分というデンジャラスな場所に位置する火災現場は、何処から湧いたのか不審に思われるほどの野次馬部隊に取り囲まれる。
 押し寄せる人波に呑まれ、見物人の外周まで押し出された瀬知は、はぐれた夏印の行方を探すことを諦め、とりあえずその場を後にしようと決めた。
 決して夏印に放火の罪を被せようなどという不埒な考えあってのことではない。
 商店街を迂回し駅へ向かおうとした瀬知は、ふと視界の下から袖を引かれた。見下ろすと、なかなか以下略宅にいた幼い少女が、涙をいっぱいに溜めた瞳でこちらを見ている。瀬知の顔から血の気が引いた。
「ど、……どうしたの?」
 何とか笑顔を取り繕い、優しさ仮面で少女に語りかける。少女は、今にも声を上げて泣き出しそうな表情でおずおずと口を開いた。
「迷子になっちゃったの……。」
「そう、迷子か。そうかぁ……ふぅ、それは可哀相に……。」
 一生分の鼓動を打ち尽くした気分で、瀬知は少女の頭を撫でる。
「君、名前は?」
「あたし梨泥亜……」
「りでぃあ、か……。暴走族みたいな名前だね、ご両親のセンスを疑うよ。それはさておき、一緒に来てくれるかい? 梨泥亜……。」
 もちろん、目撃者であるこの子をうまく丸め込んでしまおうなどという不埒な考えあってのことではないし、仮に捜査の手が及んだとしても、迷子になった幼児を手厚く保護していたとなれば執行猶予がつくだろうなどという甘い考えあってのことでも、断じてない。
 そう、ただ純粋に、家を失ったこの少女を不憫に思ってのことである。如何なる時でも人情を重んじなければ、厳しい競争社会を生き抜くことなど出来はしないのだ。
 それ以前に、これは誘拐ではないのか――。もう一人の自分の突っ込みは、やっぱり黙殺する。
 愚かに思えても、人間やらねばならぬ事があるのだから。

 子連れで男爵商事へは帰れない。瀬知はひとまず、梨泥亜を伯母の家へ預けることにした。
 三須戸から都電を乗り継ぎ、隣市の貝歩で降りる。駅から歩いて10分の、静かな住宅街にある伯母の家に辿り着いた瀬知は、途中で駄々をこね背負いざるをえなかった重い荷物を玄関先で下ろした。
 呼び鈴を押して待つこと暫し。扉が開き、エプロン姿の中年女性が現れる。
「おお、瀬知。」
 久しぶりに見る伯母の顔は蒼白だ。何だか今日は行く先々で事件が起こる気がする。
「どうしました?」
 あまり知りたくないのだが、聞かないわけにもいくまい。疲れたとごねる梨泥亜をとりあえずその場に座らせ、瀬知は様子を問うた。伯母は憂い顔に手を当て、ふぅと嘆息する。
「いやねぇ、何だか知らないけど、見たこともないお嬢さんがいらしてね……」
 瞬間、瀬知は頭から冷水をかけられたような気がした。
 慌てて伯母をおしのけ、奥の間へ走る。
「しッ……薔子ッッッ……」
 客人用布団にくるまれ、苦しげな吐息をつきつき眠る女性は、間違いなく薔子その人である。乱れた足音にうっすら目を開けた薔子は、瀬知の顔を虚ろな瞳に捕らえた。
「うーん……瀬知……死なないで、瀬知……!」
「っていうか君の中の僕は一体何処へ行ったっていうんだい……。」
 それ以前に、薔子に実家を教えた覚えはないのだが――お節介な夏印あたりが薔子に頼まれ、仕方なく口を滑らせたに違いない。そうに違いない。きっとそうだと思いたい。
「道に倒れてお前の名前を呼び続けていたんだよ……。連れてきてやらないわけにはいかなかったんだけど、正直、ちょっと気味が悪くてねぇ……。」
「すみません伯母さん。……すぐ連れていきますから。」
「そうかい……。おや、こっちのお嬢ちゃんは?」
 地獄に仏を見たような安堵を浮かべた伯母は、ようやく甥が連れてきた客人の存在に気付いた。
「あたし梨泥亜ー!」
 梨泥亜は誇らしげに7才、と手で示す。
「おお、おお、梨泥亜ちゃんかい、お利口だねぇ。お前の娘かい?」
 えびす顔になった伯母は、中年女性にありがちな詮索を口にした。
――薔子の瞳がカッと見開かれる。
「違いますよ。仕事先の知り合いのお子さんで、今ちょっと預かっているんです。」
 薔子の瞳は何事もなかったかのようにそのまま閉じられた。この様子を目撃してしまった梨泥亜は、しばらく恐ろしい夢にさいなまされることになる。
「ねえ瀬知、安土利尾薬局に薬を頼んであるから、留守を頼んで構わないかい?」
「あ、僕が行きますよ。薔子をお願いします。」
 一瞬伯母は泣きそうな顔をした。だが、瀬知は心を鬼にして、梨泥亜の手を引き実家を後にした。