第三話

 奥戸満模州商店街。夕方の値下げサービス目当ての主婦でごった返す中を、子連れの瀬知が行く。はぐれ確率レッドゾーンを振り切るこの時間帯、僅かでも目を離したが最後、梨泥亜の姿を二度と見ることは無いだろう。それでも、実家にいるよりは遙かに安全なのである。
 蛸象四丁目の角まで来たところでようやく人混みから解放され、瀬知はほうっと大きな溜め息をついた。
「ねぇー、さっきのお店にチョコボンがあったよ。梨泥亜、チョコボン欲しいー!」
「ええっ!?」
 子供の千里眼に心臓を止めるほどの勢いで驚いた瀬知は、混んでいない時に買おうね、と曖昧な約束を吐き下ろす。とにもかくにも今ある命に感謝して、安土利尾薬局への旅を続けなければ。
 気分一新、梨泥亜の手を握り直した瀬知は、勇んで曲がり角を折れる。と、突然目の前に何物かが立ちはだかった。
「うわああっ!!」
 今度こそ、瀬知の心臓は0.02秒の停止を記録する。
「これ若者! 道ばたで老人が蹲っておったら声を掛けんかい!!」
 行く手を阻んだものはどうやら生物……もとい、手にした杖がファッショナブルな溌剌老人だった。似ている芸能人はと聞かれたら、閻魔大王と答えたい風貌である。
「あ……すみません。急いでいたもので。」
 瀬知は、叔母の身を案じるあまり周囲に目が行かなかった旨を詫びた。決して老人の姿を道ばたに不法投棄された半透明ゴミ袋と見間違えたわけではない。
 チョコボンチョコボンと喚く梨泥亜を掴まえつつ、老人に捕まった瀬知は、誘導されるままにうっかり自分の行き先を白状してしまった。瞬間、老人の目がぎらりと輝く。
「ほぅほぅ、主も安土利尾薬局へ行くんかい。こっちの大学へ入った儂の娘がそこで奉公をしておってのう。久しぶりに会いに来たんじゃ。」
「奉公……? アルバイトですか?」
「おお、それじゃそれじゃ。ハイカラ言葉はよう分からん。」
 と、それまでのんきに”チョコボンのうた”を口ずさんでいた梨泥亜が、瀬知の手を引いた。
「はいからってなーに?」
 梨泥亜の攻撃。
「今風の言葉だよ。」
 瀬知は説明した。
「いまふうってなーに?」
 梨泥亜の攻撃。
「……後でね。」
 瀬知は逃げ出した。
「まあ、ここで会ったのも何かの縁じゃ。瀬知とやら、儂を安土利尾薬局まで案内してくれい。」
「……もしかして、道に迷っていたんですか……?」
「うむ。都会の若モンは冷たくてのう、声を掛けても皆逃げて行くんじゃ。まったく、躾がなっとらん躾が!」
 躾の問題というより、度胸の問題ではないだろうか――などと思ったりはしない。いついかなる時でも敬老精神を忘れては、社会人失格なのだ。

 少しでも気を抜くと人波に呑まれる梨泥亜を抱え、糸の切れた風船のような寺井老人の手を引いて歩く瀬知の目には、安土利尾薬局の青い看板が天啓のように映った。
 自動扉の前に立ち、ほっと一息……したのもつかの間、
「何ぃ、薬がねぇだとぉ!?」
 店の中から飛び出して来た怒声に、瀬知は横殴りの衝撃を受けた。
――生きてる内に使える運を、自分で出し入れできたらいいのに……
 いつだか前の流行歌に脳内を占領されつつ、瀬知は覚悟を決める。天に見放されたというのなら、とことんまでお天道様に背を向けてやろうじゃないか――企業戦士には、悲壮な決意を即座に固める能力が必須なのだ。
 何だかんだ考えながら何とか二の足を踏み続けていた瀬知は、ふと、片手が空いていることに気付いた。
 はっと顔を上げると、裁きの間に臨む閻魔大王もとい寺井老が、先ほどの怒声の主であろう中年男と入れ違いに店へ突撃していく光景が見える。
――ヤバイ……!
 この警句は、これから起こる事態に対してのものか、それとも走り出してしまった自分に対してのものか。
「何じゃ何じゃこの店は! 客に売る商品もないような店に杏奈は勤めとるんか!」
 寺井老の一喝が、頭上に絶え間なく浮かぶ『逃げられない』ダイアログを吹き飛ばした。
「あ、あなたは……杏奈君のお父様ですか……?」
 空っぽの棚の前でため息を吐いていた若い男が、おずおずと顔を上げる。
 瞬間、寺井老の全身から真っ赤なオーラが立ち昇った。瀬知は素早く胸ポケットの携帯に手を伸ばす。脳溢血は一刻も早い通報が生死を分けると聞いた。
「ああああ杏奈君、じゃとう!? なんと馴れ馴れしい、”寺井さん”と呼べ!!!!」
「は、はい、あの、杏奈く……いえ、寺井さんには、昨日限りで辞めていただきまして……」
「何じゃと!!!!」
「て、寺井さん、落ち着いてっ」
 瀬知は慌てて沸騰寸前の寺井老を止めに入る。このままでは流血沙汰になりかねない。そして何よりも、このまま放っておいたら寺井老の命が危ない。
 一方、口撃の矢面に立たされた青年は、死人のような顔色で亡霊のごときため息を吐き出した。寺井老のテンションと、この青年のテンションを、足して二で割ったらちょうどいいのに――瀬知の思考が遠くの空を旋回しはじめる。
「もう、杏奈君に給料を払えるかどうかも分からないんです……。男爵商事から一方的に商品の卸を拒否されてしまって……僕は一体どうしたら……」
「何じゃ何じゃ情けない!!!! ”薬局なのにギターなんかもやっちゃうカッコイー店長”とは、こんな情けない男だったんか!! もういい! 儂ゃ杏奈のところへ戻る!! 世話になったの、葉日君。」
 わめくだけわめくと、寺井老は憤然と店を後にした。
 ようやく、本来あるべき静寂を取り戻した薬局内に、気弱そうな青年のため息が響く。
「僕だって……本当は杏奈君をクビになんてしたくなかったんだ……。でも、でも、店を継いで間もない僕に、取引先に文句を付ける事なんて出来やしない……」
「あの、葉日ですが、頼んでいた薬を受け取りにですね……」
 瀬知の言葉などまるで耳に入らない様子で、青年はカウンターの裏からギターを取り出し、つま弾き始めた。
「二人で一緒に店を切り盛りしていこうねって約束したのに……ああ、杏奈君、クリスマスキャンドルの灯は燃えているかい……」
「すみません、あの、薬を……」
「よわむし!!!」
 今の今まで存在を忘れていた幼女の声が、瀬知の言葉をかき消した。
「お兄ちゃんのよわむし! あたしだって、あたしだって、お家燃えちゃって悲しいのに、うわあぁぁぁーん!!」
 もう、動揺する気力がない。火が付いたように泣き出す梨泥亜の手を握り、瀬知は天井を仰いだ。
――勘弁してくれ……
「お客さんだね……いらっしゃい。でも、ご覧の通り薬は無いんだ……」
 青年は、今にも大きな川を渡ってしまいそうな笑みを見せる。瀬知はぐすぐすとぐずる梨泥亜を背負い、青年に負けず劣らずの笑みを浮かべた。
「いえあの、薬を受け取りに来たんですが。」
「ああ、葉日さん……サバクノヒカリ糖衣Aだね……何に使うんだい?」
――何故、客が薬屋に商品の用途を説明せねばならないのか。
 もう一人の自分からの冷静なツッコミを黙殺し、瀬知は穏和な笑顔を作り直す。
「あの、知り合いがインフルエンザにやられまして。」
「そうか……君の大事な人なんだね。分かった、僕も行くよ。」
 白衣を脱ぎ捨てた青年は、ギターを背負って力強く頷いた。
「はぁ?! いえあの、わざわざ付いて来なくても! 薬だけ売って下さいよ!」
「僕は武阿(むあ)義流羽人。よろしくね。」
「あたし梨泥亜~!」
 誇らしげに7才、と指で示す梨泥亜の姿を最後に、瀬知の意識はホワイトアウトした。