「ファイア!」
少年の声が開いた氷壁の向こう、敷き詰められた白い化粧石が雲への道を真っ直ぐに示す。
明らかに心臓破りであろう前途を目の当たりにし、金と濃紫それぞれの前髪の下の眼がげんなりと伏せられた。
「これを登って行くのか……」
「あら、らしくもねぇ。するってぇと俺ァ、とっとと登れェつーて槍ブン回す役かい?」
などと景気良く返しはするが、エッジの足とて動く気配は全く見られない。
フードの作る僅かな影に視線を埋めたカインは、ふぅ、と気の抜けた声を足下に投げる。
足場のおぼつかない砂地での戦闘は、予想以上の疲労を体に残した。ギルバートと別れ、登山道入り口までの草地を歩む分に支障は僅かと思えたが、固い地面に立った途端、足首に鉄球を結わえ付けられた囚人の如しだ。
元より強行軍を覚悟はしていたが、いかんせん、これでは体が保たない。もっと行程に余裕を見ても良かったのではないか。無謀な拙速を強いた己の不手際を痛感する。
先へ先へと追い立てるのは焦りという名の魔物。追われるまま冷静さを失い、その顎に挑んだが最後、歴戦の勇士ですら一撃の元に葬り去るほどの力を秘めた、強大な魔物である。哀れその顎に沈んだ犠牲者の名は、歴史書の中に幾つも見つける事ができるだろう。
我が名をその名簿には連ねまい――カインは鼓動を鎮め、魔物の顎と慎重に距離を取った。
幸いにも、自分には肩を掴み押しとどめてくれる仲間がいる。こんな自分を旗頭として文句の一つ…… 二つ三つ四つ五つ、とにかく、共に歩んでくれる仲間の、なんと有り難く代え難いことか。この仲間を死地に導いてしまうような愚は断じて避けなければならない。
などと、深々自省に耽ってしまうほどに、今はとにかく動きたくないのだ――吹き下ろしの風に髪を梳かれ、カインは相棒の様子を窺う。直立姿勢を保ってはいるが、依然として歩き出す気配は無い。かといって、その場に座り込むような様子も無い。
かくなる上は根比べだ。カインは腹を据える。どちらか先に、動いた方が敗北者の三文字を――
「~~~もーっ! 何してんだよニィちゃんたち!」
遂に堪りかねたパロムは声を上げた。
障壁を壊したにも関わらず、平地を名残惜しみ一向に動かない二対の棒を邪魔と押し退け、幼い姉弟はガシガシと山道を踏む。
「うぉー待ってくれ~、お前ら足早過ぎんぞ~」
白い石畳に体重を刻んで歩く二つの背中に、保護者その1がようよう追いすがった。双子は足を止め、年寄り二人の遅々とした行進を見下ろす。
「なー、パロ、すっげ言いづらいんだけどさ、荷物一コ持っ――」
「やだ!」
食糧入りの小さな肩掛け鞄を突き出す腕に、膨れ面が叩き返された。いくら何でも子供に頼るな……カインの諫言が喉まで上がる暇さえも無く。
「そんな事言わねぇでさぁパーロムぅ~」
「だって、なぁ? ポロ!」
へにゃりと眉を曲げるエッジを横目に、パロムは姉と目を合わせる。弟からの目配せを受け、ポロムはぐわっと胸を張った。
「私たちをお荷物扱いした報い、ですわっっ!!」
少女の背から鮮やかに抜き払われた杖が五拍子を描く。すわお仕置きかと打撃に備えた青年二人の足から、重力の鎖が幾条か千切れて落ちた。靴底が地面を僅か離れ、同時に足裏をすっぽりと覆っていた疲労が鈍る。
「今度オイラ達を追いてけぼりしたら、Wメテオだかんなっ!」
「よーっく、覚えておいてくださいませ!」
ぷんぷんと似た顔二つそっぽ向けた双子の前で、魔導の慈悲を授かった青年二人は神妙に頷いた。
ホブス山。
ファブールモンクの修行場として有名なこの山は、この世界で最も空を近く望む場所である。
浮遊魔法によりもたらされた、毛足の長い絨毯を踏むにも似た感触を楽しみながら、カインは道傍を彩る植物に目を向けた。空の青と敷石の白の中間を取り持ち、種々多様な緑に身を包む命は、薄い大気と温もりの中で確かに根付き、生きている。
試練の山に居を構えるカインにとっていわば馴染みの環境であり、幼い白魔導師による補助をも授かった今、登攀速度に不安は無い。
「エッジ。」
カインは、斜め後ろを歩む者に手を突き出した。
「ぁによ?」
「一つ貸せ、持とう。」
言って、緩やかに続く上り坂に辟易顔の前で指をひらつかせる。
手空きを分かり易く示された男は、珍しく無言で相棒の好意に甘んじた。
「どう思う?」
食糧満載の鞄を一つ、体力に秀でた騎士に任せた忍者は、彼の言葉に視線を巡らせる。緑の映える瞳に、やや前を歩く二対の若草が両に伸ばした瑞々しい葉を靡かせた。
「そーぉだなァ、行進曲でも歌ってやったらいいんじゃねぇ?」
「そうじゃない……」
荷一つ分増えた重量をフードの陰に落とし、カインは半ば諦めがちな突っ込みを入れる。投げる会話に主語が無い旨を以前指摘されはしたが、かく言う彼に限って会話の主語を拾い損ねるような盆暗ではない。――つまり、言わんとする事を分かった上で、エッジは話を逸らしているのだ。
「お荷物だよな、そりゃあな。」
会話を早々に諦め観光気分に戻りつつあったカインの意識を、不意の掛け糸が絡め取った。
「小っせぇわ重てぇわ、ミシディアに戻ったらほっぽり出しちまうのが上策ってもんだ。」
上空を過ぎる駆け足雲のつま先が、エッジの声を浚ってゆく。
「「一つの炎は燃える、恐れを燃やして、光灯し戦う暗い暗い闇の中♪」」
甘勾配とは言え確実に削られる呼吸の下、ミシディアに伝わる童歌を無邪気に歌う声。魔道の初歩である、リズムと魔法の関わりを学ぶための教育歌なのだそうだ。
「しかしまァ、あの悪ガキ共が大人しく言うこと聞くたァ思えねぇな。」
二つの闇は隠す、灯りを隠して、涙かき消し流れる流れる水の中……子供達の旋律につられ口が動く。のどかな三重奏に拍子を合わせ、エッジは爪先を高らかに上げた。
「なるようにしかならねぇさ。」
遙か目下に地平の広がる絶景を楽しむ一方、清浄に過ぎる高所の空気に少々肺を苦しめられながらも、一行は順調に合を重ねた。猛禽類や、その他山に居を構える獣との遭遇を予想していたのだが、肩透かしを食わされた気分だ。
「にしても、ちーと静か過ぎらぁな。」
童歌も絶えた今、一行の供をするのは、頭上を吹きすぎる風の声と計四対の足音のみ。カインの頭にあった朧な懸念が、斜め後ろで現実の声となった。
「……この山はモンク僧の修行地だ。敵性動物との棲み分けが完全なのかもしらん。」
「登山道歩ってる限りは安全ってことかい?」
エッジはやや歩を早め、長身と肩を並べる。
「折り返し地点を過ぎたんなら、そりゃまぁな。ご近所の庭掃除まで勝手にしちまうモンかねぇ?」
「しないとも限らない。」
霞の空を写した瞳がちらりと隣に振れた。
「ダムシアンとファブールは永年友好同盟を結んでいる。国境こそ頂上に設けられてはいるが、ダムシアン側からこの山に人員を派遣する気は無いだろう。」
「だからったって、よそ様の庭に土足で上がりこんで良いってな理屈にゃならねぇだろ。」
「それはそうだが……」
言葉の続きを頭に置き、ずれた荷を背負い直す。標高を増すにつれ丈の低くなる植物は、今や地に這いつくばり、黙々と前後運動を繰り返す旅人の靴底をじっと見上げているかのようだ。
深刻顔で黙り込む相棒の姿に、エッジから若干の苦みを含めた笑いが洩れた。
「いやなに、頂上着いたら休憩しようぜって言いたかったワケだ。」
「それならそうと言ってくれ、紛らわしい。」
疲れたのならば疲れたとはっきり口にすれば良いものを――額からフードを剥がし、カインは唇端を曲げる。回りくどい言い方をするものだから、てっきり彼独自の、『ニンジャー力』とでも呼ぶべき何かで以て、確かな災いの萌芽を捉えたのかと穿ってしまった。
しかし確かに、ここまでは幸運が背中を預かっていてくれたとはいえ、今後もそうとは限らない。頂上に長居をするつもりではなかったが、予定を後へずらすことになっても、可能な限り体力の回復をすべきだろう――そこまで考え、カインはハッと息を呑んだ。
今の会話は、自分の心の内にある焦りを気取ってのものだったのではないか?
もし、エッジがただ疲れを理由に休憩を提案していれば、自分はなんと答えていただろう? 「甘えるな」――そう斬り捨ててしまったのではないだろうか。登山道の入り口ではあれほど長々自省したにも拘わらず、日を越えぬ内からもう腰を掛ける暇すら惜しんでしまっていたとは。
――やれやれ……。
覆布に込めた嘆息がほの白い指を頬に伸ばす。
自分は何故これほどまでに、先を先をと急いでしまうのか。故国の異変という心配の種を抱えていることに加え、元々急かし屋な気質を持っていたのかもしれない。
そう考えてみると、思い当たる節があった。子供の頃から、セシルやローザと外出すれば、決まって彼らに「待ってよカイン」を最低でも二回は言われていたような覚えがある――薄く滲んだ記憶の中に、息せき切らせ駆けてくる幼馴染み二人の姿が浮かぶ。年齢を経て気質が改善されたわけではなく、同音異口語をあまりに聞き慣れ過ぎたため、感覚が麻痺してしまっていたのだろう。
今日、改めて指摘され、自覚を新たにしたからには、以降気を入れて戒めねばならない――早速、カインは歩みを緩める。どれほど気が急いても、一度立ち止まり状況を冷静に把握できる者にこそ、統率と仰がれる資格があるのだ。
「もうすぐ頂上だな。」
額に滲む汗を拭うがてら、エッジは庇を作り歩みの先を測った。真白く続く石の道は緩やかな円に収束し、昇り坂の終焉を示している。
「てっぺんでご飯食べよ! オイラお腹ぺこぺこだよ!」
道中で空にした水筒を振り振り、パロムが提案する。カインはさっと一同の顔を回覧した。誰にも異存は無いようだ。
「ああ、そうしよう。荷物も減らせるな。」
「やったー! パロム様が一番乗りーっ!」
旅行程管理人からの許可を得た少年は喜び勇んで駆け出した。
「あっ、こらパロム!」
目の前に好物をぶら下げられた獣よろしく駆けだした少年を、双子の姉の握り拳が追いかける。
「おーお、元気元気~」
ごく短い距離とはいえ、急な斜面を駆け切るほどの体力が、その小さな体のどこに残されていたのやら。
子供たちより遅れることしばらく、昇り坂の最後の一歩を踏み越えたカインの目前が急激に開けた。強烈な明度を伴う開放感は、地を蹴り空に四肢を放つ瞬間とよく似ている。背嚢を足下に下ろしたカインは、目前に輝く天の灯に胸を張った。肺を限界まで膨らませ、内部の空気をそっくり入れ換える。
頂上にたどり着いた旅人と肩を並べる里程標を越えれば、その先からはファブール領だ。踵を半歩前へとずらすだけでファブール入国を完全に果たしたカインは、空と大地の境に置かれた一点に立ち、周囲を遍く包む全天を見渡した。眩ゆい黄白から深い蒼へと落ち、また淡水の青に霞む見事な色階調の腕環が、陽射しを遮るため翳した手首を飾る。
真上から視線を戻したカインは、右踵を軸に景色を回転させ、これまで歩んで来た方向に定めた。麓の草地に縁取られ、日差しを受けて細波成す黄金の敷布、ダムシアン。その向こうに、ミスト山脈が寝椅子に寛ぐ淑女のたおやかな稜線を描き、その背後には――空がただ静かに白く霞んでいる。思えば、大変な速度で三つもの国を行き過ぎてきた。
「ニィちゃん、ニィちゃん、オイラも!」
声に引かれ視線を落とすと、無邪気な笑顔がこちらを見上げ、その両手をぴょこぴょこと突き出していた。口端に滲む笑みを快く感じながら、カインは少年の脇に手を入れ軽い体を肩の高さまで持ち上げてやる。
視界の隅に映る自分の両足と、靴底の下に見える混雑とした大地の色までの壮大な距離感を全身で捉えた少年の口が、ぽかっと円く開かれた。
「うひゃぁわぁぁーーー……」
空洞となった喉から、巨鳥のそれに似た鳴き声が辛うじて絞り出される。両脇を支える腕だけが自分と地上を繋ぐ全て。腋下にある手の温もりを意識した瞬間から、上身が強張り、下肢が面白いほど震え出す。
「にににニィちゃんもういいよっ、もういいよーーー!」
地面との堅実な繋がりを求め、少年は悲鳴を上げた。危なげなく地面へと移送されたパロムは、全速力で岩棚の中央まで引き返す。
「おーおー、怖かったなパロ~? よしよし。」
「ち、違うってば! ぜんぜん怖くなんかないぜ、で、でもっ、ちょっとすごく、うんと高かったぜ!」
うひゃひゃと朗笑う保護者の拡げた両腕に体を収め、パロムは人心地ついた。
「食事にしようか。」
少年の後を追うように、眺望台から引き返したカインが昼食の開始を告げる。里程標を背に円座を組んだ一行は、それぞれ手にする食糧鞄の口を開けた。
干し肉と共に呑み込まれた雲が、舌を冷やして喉に沁みる。簡素な食事を皆に先んじて終えたカインは、空になった鞄を背嚢にしまい込んだ。
「カインさん、果物はいかがですか?」
ポロムが膝に乗せていた小さな器を差し出す。風の流れに見立てた木目に散らされた花柄の上で、二切れの淡藤色が肩を寄せ合い揺れた。
「もーらいっ!」
「サンキュー!」
ありがとう、と伸ばした指先が空の器の底を摘む。果実の肌から落ちた水に指先を濡らされ、カインは浅く溜息を吐いた。
どうもパロムは、悪いところから優先的にエッジと似てきている。
「カインさんの分でしたのに!!」
食後の甘味を堪能した泥棒二人が、少女の鉄拳制裁をひらりと避けた拍子に互いの頭をぶつけ呻く姿を横目に、カインは先ほど見ていた眺望台と正対なす縁へと寄った。
ファブール管理下の山相は、ダムシアン管理のそれと比べて遙かに人工的な様相を呈している。標準的な野営幕が二つは余裕を持って設えられる程の、広く平らな天面を備えた灰褐色岩と、白い化粧石敷きの登山道。それらが互い違いの模様をなして、遠く麓まで続いている。
頂から眺めるその光景は、自軍と敵軍に分かれて駒を進める模擬戦遊技の盤面を思い起こさせた。幼い頃、父と幾度か手合わせしてついぞ勝てなかったものだ。
そういえば、ミシディアに模擬戦遊技はあるのだろうか? 巨大な盤面を眺めるカインの頭を、ふとした思い付きが掠める。もしあるのならばミシディアの物を、無ければバロンから駒と盤面を取り寄せて、パロムやポロムに教えるのは良い考えかもしれない。普段魔導書に親しんでいる彼らならば、遊技の決め事を覚えるのは造作もないだろう。
晴れの日は外で遊ぶに忙しかろうが、雨の日などには良い暇つぶしになる――胸の奥を暖めた笑みに、我が事ながらカインは驚かされた。どうやら自分は、子ども達を重荷にばかり感じているわけではないようだ。
「ねねね、何か見える? 高い?」
食前の一件で相当肝を冷やしたらしいパロムは、縁から充分な距離を保ち声を掛けてくる。
「そうだな、随分高い……下りはゆっくり進もう。」
岩棚一段は、目算五メートル弱といったところか。麓から岩の階段を辿り上ってきたカインの目が、己の爪先を置く板の二段手前に吸い付けられた。
「あれは……?」
疑問が口を突き言葉となる。張り出した岩に遮られ通らない視界に苛立ち、カインは縁に這い身を乗り出した。
やはり、目の錯覚ではない。頂上を数えて麓へ向かい三段目に当たる棚の上、幾つかの動く影が確かに見える。植物のものではないことは、その動きが風に沿っていないことから明らかだ。
鳥瞰する限りでは、岩縁間際に拳大の赤い沼、それを中心に散った水滴のような球体が六個。そして、その球体と対峙する――あれは人間だろうか。
「違ぇねぇ、ファブールのモンク僧だ。」
軽身の忍者がもうやや身を乗り出し、人影の詳細を補う。
「相手ァ赤くて丸っこい……分かるか?」
「ボムとマザーボム……いや――」
まず口を突いたのは、この山に最も数多く棲息する敵性生物の名。だが、カインは自らそれを打ち消す。
こうして窺っている間にも、緋色の腰帯を靡かせた僧の一人が鮮やかな正拳突きを放ち、ボムの体の上半分ほども削り取った。中枢神経を潰されたボムは浮遊能力を失い、地面に落ちる。だが、僧は戦闘姿勢を解かない。しばらくもせず、削れたボムの体表が煮えたぎる湯のように泡立ち、元の球形を取り戻した。
そもそも普通のボムが相手ならば、日々の修行に鍛えられたモンク僧が苦戦を強いられなどすまい。カインは眼を絞り、より精密な敵の姿を脳に送る。
再び浮き上がったボムの腹に取り付く、卵胞様の忌まわしき赤い瘤。元より赤の体色を持つボムだが、それは橙に近く、今僧兵たちの目の前にいる個体の沈んだ紅とは似ても似つかない。新たなボムの種である可能性を考えるのはただの手間取りだ。取り憑いたものの体色を血の色に変え、同時に恐るべき再生能力を宿主に与える――最早すっかり目に馴染みとなってしまった『変異体』――
「……ステュクス。」
「こいつらまでかよ……。」
うげぇ、とエッジが吐き捨てる。
「拙いな。」
カインもまた眉を顰めた。寄生ボムは、格闘戦を得手とする僧兵にとって厄介極まる存在だろう。弾性に富んだ身体を持つボム類は、元より高い対衝撃耐性を備えている。そこに再生能力まで加わっては、今まさに眼下で展開されている通り、不利な持久戦を強いられるのが必定だ。
出来れば即座に戦線を収拾し、何らかの火器の支援が得られる場所まで撤退誘導するのが最良なのだが、この場所で会戦しているからにはその用意は無いと見るべきだ。伝令をこれから走らせる、あるいは既に走らせていたとしても、時間が掛かり過ぎる。
「よう大将、加勢しにゃヤバイんじゃねえ?」
「いや、もうしばらくは保つ。策を立てよう。」
言いつつ、カインの脳裏には既に明確な策が一つ形作られてはいた。
ステュクスの再生能力が、腐食性の毒に抗し得ないことは分かっている。だが、高い空間機動性を誇り、数でも勝る敵を相手に、黒魔導師一人で毒を回しきるのはあまりに非現実的だ。
「しかし――」
不幸中の幸いと言えるだろうか。
ボム類はある特殊な性質を備えている。それは、彼らの種族名が爆発の擬音と同じ”ボム”たる所以――溶岩より生じたと言われるその体は、蝋燭と同じかそれより高い温度の火に触れると、強烈な化学反応を起こし爆発するのだ。変異しているとはいえボムである以上、その特性が失われてはいないだろう。彼らを一所に集め、自爆の連鎖反応を起こさせれば、再生能力は問題にならない。
ボムに関して持てる知識を掻い摘んだ後、カインはより迅速な思考の回転のために口を噤む。
「よーするに、全部一気に爆発させちゃえばいいんだろっ?」
「私がエアロガで壁を作りますわ!」
作戦参謀が言い淀んだ先を聡い双子が繋いだ。カインは唇を解かぬまま発言者の顔を眼に映す。
魔導師二人の言う通り、全てのボムを一所に集め誘爆させるのが、今の自分に持てる上策だ。
しかし、その作戦を採案するということはつまり、幼い彼らに大労を強いることになる。特に、盾を形成維持する白魔導師の負担は計り知れない。風の防壁を張ることが出来るのは、この面子に於いて彼女一人なのだ。
こうして黙っている僅かな間にも、杖を硬く握り任せてくれといわんばかりに力強く頷いてみせる彼女は、幼いが故の純粋さから許容を越える無理をその身に負いかねない。
「ふたりがけしてエアロガすればへっちゃらだって!」
姉と無邪気な顔を寄せ合い、黒魔導師はえいっと拳を突き出してみせた。
そして、皆の覚悟が自分の元に集まる。カインは固く貼り付いていた上下唇を引き剥がした。
「……いや、壁は二枚必要だ。」
拳を胸元に引き下げた少年の顔からあどけなさが褪せる。
「聞いてくれ。」
一同の注目を指先に集めたカインは、地面に簡略な展開図を描き上げた。ボム群を示す凸とモンクを示す凹のちょうど中央に、一行の現在地である頂を示す曲線の内から線が引かれる。
「まず、エッジがパロムをこの地点まで移送。パロムはここから狙える間近なボムにファイア、必要最低限の火力で良い。その後、この位置へ移動して待機。」
エッジとパロムを示す点が、さっと凹の直前に移動した。
「パロム。俺が『やれ』と言ったら、ファイガでもフレアでも何でもいい、魔法をぶつけてボムを吹き飛ばすんだ。任せたぞ。」
点から魔法による爆発の方向を示す直線が伸び、凸の先端を潰して押し流す。務めて早口に言い切ったカインは、次に、作戦の要を担う少女に目を向けた。
「ポロム、後にはパロムが控えている、大丈夫だ。魔力が保ちそうになかったら、切れる前に『駄目だ』と言ってくれ。言えなければ俺を蹴るんだ。いいな?」
「「さくせん、了解っ!」」
大役を任された姉弟は、その重さを知ってか知らずか、それぞれに元気なポーズを見せる。
そして――
最後に視線を投げた先で、元より承知とその目が笑う。ポロム、パロムの後に控える三枚目の壁は、言葉にするまでもない。
「っしゃ、行くぜ! 気張れやパロム!」
「がってーん!」
エッジの腕を腰掛けと据えた導火線が陽気な火花を噴く。相棒が少女を抱き上げたを機に、崖の縁に立ったエッジは肺に取り入れた呼気を鬨の声に変え放った。
「助太刀するぜ!」
靴底がほぼ垂直に切り立った岩面を削る。
「合図で子ボムをマザーに向けて放て! ファイアと同時に道へ退避!」
先行の立てた砂煙を竜騎士の言葉が払った。
明瞭な作戦指示に応え、モンク一行の統括らしき弁髪の男が素早く掌を打ち合わせる。陣形変更の合図なのだろう――Vの字に戦線を維持していたモンク僧は、徐々にその両翼の幅を狭め、方形に近い陣を構える。
同じくして、一段下の岩棚を駆け切ったエッジの後ろ背がその縁に消えた。心で指折りきっかり三拍、カインは身中に貯めた空気を音に変える。
「今だ!」
作戦参謀が空に身を翻すと同時に、モンクの頭領から順繰りに波の打つごとく放たれた仰ぎの蹴りが、六体のボムを突き放した。
紅の残像が六本の線を描き、生み出されたものが母の胎内へと退いてゆく。
屈伸に滑落の速度を喰わせたエッジは、拓けた最前列へ躍り出る。
「よっく狙え!」
「おうっ!」
砲台に全身を預け、少年は意識を一点に集中させる。
「ファイア!」
極小に絞られた火の魔力が、今まさに胎へ還らんとしていたボム一体の正中に吸われた。
火炎魔法の詠唱が完成する直前に中段を蹴ったカインが、エッジと入れ代わり舞台の中央に降り立つ。騎士に抱えられ舞い降りた少女の杖は、空に変拍子を叩き付けた。
「エアロ――」
詠唱と共に杖の振りが凍る。束の間にさえ全身総毛立つ程の魔力の凝縮を感じ、その来るべき解放の時に備え、カインは地にしっかりと両足を張った。
それは、蕾の綻ぶ程の微かな破擦音。ボムの腹中に植えられた火種が芽吹き、全身に根を伸ばす。
「――ガ!」
光熱の花が大輪と咲いた刹那、振り抜く杖の先に蟠っていた魔力が解放された。うっすらと白い靄を巻き、不可視の壁が聳え立つ。
摺り硝子めいて波打つ景色の中央で、音もなく虚赤の花火が弾けた。煮え爆ぜたボムから拡散した火は、見る間に周囲のボムへ飛び、マザーボムを取り囲む灼熱の帯を形成する。
「おお……!」
モンクの誰かが発したのだろう、感嘆の声が背後で上がった。確かに、ここまでは計算通りだ――しかし。
ボムが弾けるたびに、腕にかかる圧力がじわりじわりと増す。カインは唇を噛み付けた。
ボム一体あたりの爆発時間が予想以上に長い。ステュクスの忌まわしき再生能力が、宿主の崩壊を阻んでいるのか。損壊部分を補うためになされる再生が更なる爆発を生み、爆風同士の干渉が最大出力の古代呪すらをも押し返す威力を生む。
しかも――現段階では未だマザーボムに引火していないのだ。
これから起こる爆発の規模を推測し、カインは祈りにも似た覚悟を決める。風の守護が去るその時、幼い命を抱いて地に伏せるという、たったそれだけが出来れば良い。
小さな体を支える両腕に力を込めたその瞬間、高熱に晒されてなお持ちこたえていた巨体の一部がついに弾けた。初段の爆風が竜騎士の両足をずるりと大きく下がらせる。
「くっ……ぅ、」
風盾をその場に留めんと、持てる魔力の全てを注ぎ込む少女の唇から呻きが漏れた。前方にかざした杖を保持する両手がびりびりと震えている。体の各所で爆発を起こすマザーボムが完全にその形を失うまで、果たして保つだろうか。
地面を削り後退った距離を測り、見切りを付けたカインが最早と後続に指示を投げんとしたその矢先。
「いかん!」
モンク僧を統べる男から鋭い叫びが上がった。
「金剛壁陣!」
「応!」
号令一下、モンクの大合声が轟く。
「見よ、我ら鋼の肉体! 吩哈!」
異変に一瞬気を取られたカインは、同じく意を逸らされたポロムを胸に寄せ即座に踵を返した。術者の集中が途切れた瞬間に魔法壁が失われ、温い空気が背中を炙る。子供を抱え込み地面に伏したカインは、しかし、鼓膜を揺るがす爆音を裏切る五体の無事に、恐る恐る顔を上げた。
――これは一体、如何に形容すべき光景だろうか。
背後で一列に並んだ肉体の壁が、ボムの炎上から巻き起こる猛烈な熱風を弾き返している。分厚く鍛え上げられた、文字通り鋼の胸板で――
括りから外れた髪の一房が額を力無く撫でる。
すっかり脱力したカインの腕を抜け、その光景を目にした少女もまた、あんぐりと口を開けたまま固まった。
「ちょっと待て……いくら鋼の肉体っつったってオイ……」
腕から呆面の少年を垂らしたエッジが唖然と立ち尽くす。呼吸を収めながら立ち上がったカインは、忍者の肩を静かに叩いた。
「諦めろ。」
「いや何を諦めんだよちょっと待てオイ、」
こんな不条理があるか――エッジの声は薄れゆく熱風と共に消散した。