※この時点で既に山沿いに移動して何日か経ってる計算↓の行に二章最後の洞窟からは既に移動していること、パロムの訓練で何日か経過している
恵みと言うには強すぎる雨足が大地を叩き、濡れた土の温もりを匂わせる。眠りと覚醒の境界線を綱渡りする少年は、掛布を頭まで引き上げた。
雨音に紛れ、頭上から低い会話が降り注ぐ。
「お姉ちゃんと、仲良くね。」
どこか虚ろに響く声。
「守ってやるんだぞ。」
大きな温もりが頭を撫でる。
「お前は男の子なんだから。」
夢は唐突に意識を解放した。掛布を除け上体を起こした少年は、隣に眠る少女の顔を見つめ、唇をきつく結ぶ。思い思いにばらけて休む他のメンバーに気付かれぬよう、少年は息を潜めて洞窟を後にした。
昼下がりの太陽が、水面に眩しく照り返る。滝から少し歩いた場所に手頃な場所を見つけたパロムは、枯れ枝を拾い、まだ若い樫の木と向き合った。
脳裏に隊長と慕う男が見せた構えを思い描く。
「確か……こーやって……」
横半身にした体の前面に刃を立てる独特の基本型。そこから変幻自在な流水の如き斬撃が繰り出される。深く腰を落としたパロムは、前に置いた右足親指に力を込めた。
「たぁーーーっ!」
勇ましい気合いと共に枯れ枝を振り下ろす。敵に喩えられた木の幹から高く乾いた音が返った。振り抜いた枯れ枝に利き手を添え、今度は袈裟に切り上げる。固い幹はやはり嘲笑うかのように、非力な斬撃を跳ね返した。
魔法が使用できない局面に際した場合、今のままでは確実に荷物となってしまう。地下旧水路の戦いで嫌と言うほど痛感させられた事実。
いきなり強くなれるわけは無かろうが、少しずつでも練習を重ねれば、きっとカインやエッジのように信頼に足る男になれる。ならなければいけない。強い男になって姉を守ると約束したのだから。
腕を大きく回し、痺れを振り払う。渋色の幹に巨大な敵意を描くパロムは、得物を振りかぶった。
「たぁーーーっ!」
「何やってんだ、パロ……。」
突然背後から掛けられた声。秘密の特訓を見られた少年は、ドキドキと踊り出す鼓動を抑え振り向く。そこには、訓練教本と決めた男の姿があった。
「た、隊長……おはよ。」
咄嗟に枯れ枝を背に隠し、パロムは引きつり笑いを浮かべる。あまり適当でない挨拶に片手を上げて返したエッジは、欠伸しいしい寝癖だか何だか判別し難い髪をがしゃがしゃと掻いた。
「珍しいじゃねーの? お前が一番に起きるなんざよ。」
寝坊常習犯二号は一号の顔をしげしげと覗き込む。視線に追われ顔を俯けたパロムは、ふと思い直し顔を上げた。見よう見まねでやるより、本人に教えを請うた方が余程効率的ではないか。
「あのさ隊長っ、オイラにニンジュツ教えてくれよ!」
手にした枯れ枝を突き出し、指導を請う。相当に意表を突かれたらしいエッジは不審顔を真横に傾げた。
「はぁ? ったってお前、黒魔導師じゃねぇか……」
「オイラ、強くなりたいんだ。魔法が使えなくっても困らないように。」
渋るエッジの服の裾を引き、真剣に学ぶ意志を伝える。
「それに、魔導師なんて地味じゃん。やっぱ隊長とかニィちゃんみたいに前に立って戦う方がかっこいい!」
「……地味かぁ? ま、いいけどよ。なら――」
困惑顔のエッジは、溜め息一つで足下から小石を二つ拾い上げると、やや大きい方を木に向け投げた。無造作に放った小石は細枝を震わせ、数枚の葉が振るい落とされる。
次の瞬間、風を裂く音と同時に、散っていた葉が全て木の幹に叩きつけられた。
「これが出来るようになったら、忍術を教えてやるよ。」
簡単には言うものの、狙い通りの的に当てる投擲技術はもとより、風の向くままに散る木の葉全ての動きを掌握する洞察眼も必要とする難度の高い技術だ。
「す……すげー! かっこいい!」
忍者の持つ戦闘能力の一端を垣間見たパロムの口から素直な感嘆が漏れた。早速小さな手に石を握り、闇雲に放り出す。少年の意気込みとは裏腹に、放物線を描いた小石は的を大きく外れて草むらに落ちた。
「うー、うまく出来ないや……。」
「はは、いきなり出来ちまったら俺の面目丸つぶれだろが。」
「訓練あるのみ、だね! オイラ頑張るからさ、これが出来るようになったら絶対ニンジュツ教えてくれよな!」
何の疑いもなく約束を求める少年の姿に、少々胸が痛む。だが、これくらいの難関を設けた方が早い内に諦めもつくだろう。
「おうよ。男に二言はねぇやな。」
少年に石の持ち方だけを教え、エッジは踵を返した。
特訓場から少し歩いたところで、食事の材料らしき雑多な荷を抱えた竜騎士と出会う。
「意地の悪いことをするな。」
すれ違いざま、冷めた声に肩を掴まれた。エッジは首だけ捻り、さも意外だと言わんばかりに瞳を丸める。
「なにがよ?」
「茶化すな。あのままでは何年掛かってもパロムがあれを出来るようになるとは思えん。」
青菜と野鳥を抱えて仁王立ちするカインは、叱責の色を含んだきつい瞳で戯け面を一蹴した。お説教に移行しそうな雰囲気を読み、エッジは苦笑する。
この竜騎士ときたら、己に関することは何一つ神経を払わぬそのくせ、仲間のことに関しては全能に近しいほどの観察眼を発揮するのだから堪らない。※さすが竜騎士、索敵員だけあって、地上で起こる何事も見逃さない
「お前本っ当いろいろ見えてんのなぁ……ただ石っころ投げるだけだぜ?」
眉を顰めたエッジは、振り付きで如何にそれが容易なことかを示してみせる。だが、それで丸め込まれるカインではない。
「嘘だな。お前が二度目に投げたのは石じゃない、何か妙な道具を使ったろう。」
糾弾者の手が袖に伸びる。エッジは素早く腕を引き、肩を竦めてみせた。妙技の種明かしを諦めたカインは、飄々と追求をかわす道化に冷えた視線を向ける。
「きちんと剣を教えてやればどうだ。せっかくお前を慕って教えを請うたのに、これではパロムが傷付くぞ。」
生真面目な、いかにも騎士らしい言葉。厳然と口を開ける深い溝に、エッジはふと笑みを漏らした。
「……そこら辺が違いなんだよなぁ。」
「何?」
音に込められた真意を測り損ね、カインは問い返す。しかし、エッジは全く何事もなかったように、カインに背を向けひらひらと手を振った。
「忍術は一子相伝、門外不出って事さ。基本はお前が教えてやりねェ。」
「おい、エッジ!」
流水の如き忍者が本気ではぐらかす心算でいるなら、弁の立たない自分の追求など微風ほどにも結論を揺らしはすまい。溜め息一つで理解を諦めたカインは、薪となる枯れ枝を拾うため森に足を向けた。
天頂をやや過ぎた日が、僅かな緋を帯びた衣を纏う。皆が揃ったところで時間外れの昼食を取った一行は、ミスト村に向かい出発した。次に待つ砂漠越えを鑑み、子供達の足に無理がかからぬようゆっくりと歩を進める。そうしてミスト山脈を貫く洞窟を越えると、既に日は西に傾いていた。
鮮やかな朱に染まった大気の中に、ぽつりぽつりと生活の灯が点る。雑多な料理の匂いに迎えられ、一行は村でただ一軒の簡易宿に足を向けた。
特別な観光地でもないこの村の宿は、ほとんど民家と見分けが付かない。扉の脇に掲げられた『ミストINN』の木札と、よく言えば趣のある、悪く言えば今にも崩れそうな二階建てを見比べたカインは、意を決して扉を開けた。
「誰かいないか。」
よもや民家に踏み込んでしまったのではなかろうか――。そんな不安に苛まされながらも、玄関に据えられたカウンターを信じて待つこと暫し。
「おやまあ、珍しい。」
ふくよかな体躯をエプロンに包んだ女主人が、サンダルを音高く鳴らして台所から現れた。
「こんなさびれた村にあんたがたみたいなお若い旅人さんが来るなんてねぇ。」
ぼろぼろの宿帳と固まりかけたインク壺とをカウンターの下から取り出し、女主人はひっきりなしに喋りかける。
「二階の空いてる部屋を好きに使っておくれ。どうせ他にお客は来ないからね、ゆっくりしていくといいよ。」
「ありがとうございます、おばさま。」
ポロムはぺこりと頭を下げた。愛らしい少女の物言いに、女主人は朗らかに笑う。
「まあまあ、おばさまなんて言われたのは初めてだよ。あんたの子供だろ? 本当に可愛いねえ。」
女主人の視線を辿り、カインは思わず吹き出した。突然二児の父にされたエッジは目を白黒させる。
「おいおい、俺ぁまだ独身だぜ!」
「おお、おお、そりゃあ大変だわねえ。お嬢ちゃん達がしっかり助けてあげないとね。」
「だぁから違うっての――」
「ねぇねぇ父ちゃん、腹減ったあ!」
必死の弁明をパロムがたった一言で不意にする。口をへしゃ曲げたエッジは、似た顔並べて笑う双子を両脇に抱え込んだ。
「こぉーのお子様ども!!」
「わー! 痛いよ父ちゃんっ」
「きゃあ! 止めて下さいお父様っ」
和やかにふざけ合う三人を背に宿帳を書き終えたカインは、少し余分に宿代を手渡した。
「夕食も頼みたいんだが、これで足りるか?」
「あれあれ、こんなに頂いちゃ腕によりを掛けないわけにはいかないね。荷物を置いたら降りておいで。すぐに用意するからね。」
「ありがとう。」
袖をまくり上げた女主人は勇んで台所に戻って行く。生活を背負う女主人のたくましい背を見送ったカインは、双子を抱えるエッジの荷を持ち二階へ登った。
豪華過ぎる夕食の後、必要最小限の旅行道具を買い揃えた一行は早々とベッドに潜り込んだ。砂漠をただ歩くだけでもかなりの体力を消耗する上、砂虫をはじめとして砂の大海に巣喰う凶悪な怪物に襲われる可能性もある。いざという時遅れをとらぬよう、前衛に立つ二人はもとより、特に子供達の体力は温存しておかなければならない。
「お休み、父ちゃん!」
広いベッドで大の字になったパロムは、向かいのベッドでくつろぐエッジに揶揄まじりの挨拶を投げる。
「っかー、まだ言うかこいつ! とっとと寝やがれ!」
「あははっ、お休み隊長、お休みニィちゃん!」
布団に押し込もうとする腕をするり抜け、少年はころころと笑いながら布団に逃げ込んだ。
「お休みなさい、カインさん、エッジさん。」
備え付けの寝着に着替えたポロムは、一礼してから布団に潜り込む。買い出してきた水や防暑具を詰めた背嚢を枕元に置き、カインも横になった。
「お前も早く休めよ。」
「はいはい、分ァってるよ。」
どこまでもお節介な若年寄に二つ返事を返し、エッジはベッドに倒れ込む。明かりを落としてしばらくもせぬ内に、室内は静寂に包まれた。
半月の吐息が視界を青く染め上げる。存分に頃合いを測り起きあがったエッジは、十八番ともいえる忍び足を駆使して隣のベッドに歩み寄った。
風を動かさぬよう細心の注意を払って、眠るカインの口元に掌を寄せる。穏やかな寝息が皮膚をくすぐった。
「……よし。」
この様子ならば当分目覚めはしないだろう。念のため、布団の中に枕を潜らせ簡単なカモフラージュを施したエッジは、そろそろと宿を抜け出した。
大体が、今日は昼過ぎまで寝ていたのだ。大の大人が酒も無しに寝付ける方がおかしいではないか。――頭の中で言い訳を垂れつつ軽やかな足取りで盛り場へ向かったエッジは、予想だにしなかった大惨事に見舞われた。
「おぉい?!」
酒場の扉で”閉店”の二文字が嘲笑う。酒場独特の余熱らしきものすら感じられないところからして、随分前に閉まったようだ。
「っまだ一時だぞおい!」
ノブを掴み乱暴に回してみるが、もちろん開かない。それでもまだ信じられずに明かりの落ちた店内を覗き見、ついでに店を一周回ってみたエッジは、とうとう途方に暮れて頭を抱えた。
「……畜生、カインの野郎いやにあっさり寝たと思えばこういう事か……」
そこまで悪どい人間では無いと分かってはいるのだが、毒づかずにはいられない。
「は~~~……帰って寝るかぁ……」
やりきれない気持ちでふと村の入り口に目を向けたエッジは、そこで在るはずのないものを目にした。
驚きのあまり呼吸が詰まる。
闇の中で一際鮮やかに燃える、深く澄んだ緑。ほっそりと伸びた四肢に風を纏い、静かな夜を歩く娘。
目を疑うより先に体が動いた。通路に放置された酒樽と木箱の間をすり抜け、今しも村を去ろうとしていた娘の肩を掴む。
「リディア!」
伸ばした手に確かな感触が返った。萌える緑が緩やかに軌跡を描く。
「エッジ?」
今、確かにその体に触れている。ということは、幻ではない。
今、確かに”エッジ”と名を呼んだ。ということは、良く似た別人ではない。
一々確認したエッジは、ようやく鼓動を取り戻した。――あと一秒遅かったら彼岸を見るところだった。
「お前……幻獣界にいたんじゃ……?」
再会の喜びと同時に疑問が浮かぶ。先に口をついたのは後者だった。
「……出来れば、会いたくなかった、な……。」
憂い顔で告げるリディアに、エッジは盛大な溜め息を吐き下ろした。
「おいお~い、ご挨拶じゃねぇの。俺様はこーんなにお前のこと思ってやってんのによぉ。」
変わらない軽口に、リディアは儚い笑みを浮かべる。あからさまにおかしいその原因を問う寸前で、少女は口を開いた。
「少し歩こ。」
「あ? ……ああ……。」
言われるままに、並んで木造の簡素な門を抜ける。歩調を合わせて草を踏みながら、エッジは幾度も隣を窺った。
確かに、いる。この娘が幻だというのなら、周囲を取り巻く世界の全てを疑わなければならない。
当分会えないと思っていた愛しい娘と月夜の下を歩く。まるで夢のようだ。――最も、リディアがこんな調子では寝覚めの悪いことこの上無いが。
会話のないまま時間が進む。村を少し離れたところで、リディアは立ち止まった。夜風に鳴く木立にもたれ、風上に瞳を向ける。大地の恵みを宿す瞳に遠い月影が光った。
「で、ここにいる理由は?」
見えない気配に怯えるかのような娘を引き戻すため、ぶっきらぼうに直球を投げる。
「この村の空気に触れたくて。……そういうエッジこそ、どうして?」
「俺は野暮用だな。カインの野郎がどうしてもっつーからヤツにくっついて来てやったんだけどよ。」
「じゃあ、カインもここにいるの? セシルお兄ちゃんは? ローザお姉ちゃんは?」
「カインはそこの宿で寝てんぜ。セシルはバロンでふんぞり返ってやがるし、ローザはトロイアにいるみてぇ。なあ、せっかく来たんなら会ってきゃどうだ?」
矢継ぎ早に仲間の所在を聞くリディアに、半ば安心し半ば不満を抱きつつ、エッジは順を追って問いに答えた。
「うん……。でも時間がないから……。」
「何だよ、また帰っちまうのか。」
そんな気はしていたが、はっきり言葉で示されるとやはり寂しい。つれない娘は両手を背で組み上体を折る。緩やかな曲線を描く長い緑髪が滝となって表情を隠した。
「あのね……幻獣界が、一度こっちの世界との接続を切ることになったの。……避難するために。」
「避難?」
難儀な言葉にエッジは眉を顰める。丸々一つの世界が避難とは、また何とも壮大に過ぎる話だ。
「”眠り星の災禍”が幻獣に負の影響を及ぼしてるの。魔力の低い者たちの中には、既に理性を失い凶暴化してしまった者もいる。」
伝え覚えた文句を口にする少女は、おそるおそるといった風に柔らかく土を踏み歩く。
「ネムリホシノサイカ? 何だそりゃ……」
「アスラ様が言うには、予定されていた必然であるそうよ。」
問いに返される言葉は分厚いヴェールに包まれており、まるで要領を得ない。
「さっぱり分かんねぇ……」
エッジは呻き、人差し指をこめかみに押し当てた。与えられた情報を砕いて整理し、もう一度言葉に直す。
「とりあえずつまり、そのサイカとやらがどうにかなるまで、お前がこっちに来れなくなると。そういうこったな?」
「うん……あたしに流れるお母さんの血が、災禍への抵抗力を弱めているの……。エッジ、あのね、だから……」
窺うような視線をわざと外したエッジは、大きく胸を反らした。
「ま、サイカだろーが必然だろーが俺様の手にかかりゃイチコロよ! だから、安心して――」
青白い闇の中で深淵の緑が揺らめく。彼女が立っているその場所だけ、重力から解き放たれたかのように。
人知の遠く及ばぬ存在――胸の奥に滲んだ畏れを、しかしエッジは握りつぶした。彼女の体を構成する物質は、確かに自分たちと異なるかも知れない。だが、彼女を彼女たらしめている本質は。
「安心して行って来な、リディア!」
一歩、足を踏み出す。ただそれだけで、リディアの周囲を取り巻いていた風は失せる。
依然目を伏せたままのリディアは、輪郭に張り付く緑髪を梳き流した。
「エッジ……」
「あンなぁ、ここ笑うトコ、笑えっての。な、自分で選んだ道だろ? 辛ぇなんつって逃げんじゃねえぞ!」
日向に微睡む猫のように目を細めたエッジは、陶磁にも似たリディアの白い額を指で弾く。ぺち、という軽い音とともに憂いを弾かれた少女は、額を押さえ、男をにらみ返した。
「っ、そんなことしないもん! あんたじゃないんだからっ――」
強気な瞳からこぼれた涙が、丸い顎の先でわだかまる。薄れゆくその姿に向かい、エッジは二本指で虚空を打つおきまりのサインを投げた。
「また、な。」
再会を祈る言葉は果たして届いただろうか。一時の夢から覚醒した夜は、ただ涼やかな色を増すばかりだ。
「てっきり行っちゃヤダとか言い出すのかと思っていたが。」
渺茫たる余韻は無愛想な一言で微塵に砕かれた。振り向いた先に、色恋沙汰など全く無縁げな仏頂面がある。
「カイン、てめーーー……」
無粋極まる盗み聞きに鼻白んだエッジは、ふと下から袖を引かれた。
「エッジさん……好きな人と一緒にいたいと思うのは、悪いことなんですか?」
真摯な瞳で問いかける幼子にまで怒りをぶつけるわけにもいかない。エッジは溜め息一つで腰を落とし、少女と目線を合わせた。
「悪ぃってぇワケじゃねえよ。ただなあ、何かを後悔して心ここに在らずじゃ、近くに居ても傍にいねぇのと変わりねぇってこった。」
「よく……分かりません。」
「ちっと難しいか――そうだなぁ、」
右手で衝立を作ったエッジは、ポロムの耳に小声を滑らせる。
「例えば、あのヘッポコ竜騎士と同じ形しててもよ、人形より本物の方が面白ぇよな? ジャンプしたり減らず口叩いたりする本物の方がよ。」
言って、何故か枕を手に提げたカインを指で示す。少女はこっくり頷いた。
「はい。」
「要はそういうこった。俺はリディアの人形が欲しいわけじゃねぇ。」
「……難しいですわ……。」
寝着の裾を風にたなびかせるポロムは、複雑怪奇な大人の世界に小さな頭を悩ませる。一方、おかしな手荷物をぶら下げたカインも、恒例の苦悩病を発症していた。
「眠り星の災禍……一体何だろうな……。」
幻獣に最も近しい娘が残した不気味な言葉。先のバロン戦役ですらほぼ傍観に近しい立場をとった幻獣界が、こちらの世界との接続を切らねばならぬほどの大事であるらしい事は分かる。
――一体この星に何が起こっているというのか。
「何であれ何とかなんだろ。今うだうだ考えてみたところでどうせ分かんねぇよ。」
生真面目竜騎士の趣味を一笑に付し、宿に戻ろうと一歩踏み出したところで、
「じっちゃんに聞けば分かるかも!」
カインの背後から顔を出したパロムがエッジの行く手を阻んだ。切ない離別を、よりによって衆人環視の中繰り広げていたことを知ったエッジは頭を抱える。
「うげぇ……みんなして見てたんかよ……。」
「へっへー、”安心して行って来な、リディア!”」
パロムは得意げに鼻の下を擦り上げ、最後の台詞を振り付きで真似た。エッジはイタズラ小僧の頭を脇に抱え込み、ぐりぐりと拳を押しつける。お仕置きを受けたパロムはきゃっきゃと歓声を上げて逃げ出した。時間も考えず騒ぐ弟を、しっかり者の姉が追う。子供達の後から宿へ引き返す道中、エッジはカインに声を掛けた。
「なぁ、何でお前枕持ってんの。」
「! そうだ、こんなもので誤魔化しやがって、この馬鹿者が!」
言わなければ良かった――慌てて駆け出す背中に重い羽枕がクリティカルヒットした。地面に落ちた枕を拾い、エッジは頬をふくらませる。
「あーあー、枕投げちゃいーけないんだー。ローザに言いつけてやるー。」
「やかましい! 子供かキサマ!」
途轍もない脱力感に見舞われたカインは、宵闇を仰ぎ嘆息した。冥い運命を報され、愛しい娘と別れたばかりだというのに、あの脳天気さは何処から生じるのだろう。
雷鳴のように響く獣の遠吠えが、深みを増す夜空に波紋を広げる。
遠い世界へ戻った娘との再会を願い、エッジは視界を閉じた。
等間隔を保って灯された蝋燭が、玉座までの道を描く。夜半も過ぎた今、外廊下より零れる音も無く、謁見の間にはただ無機な空虚が拡がるばかりだ。微かな風の流れに晒される灯火がゆらめき、様々な物影をまるで呼吸するかのように伸縮させる。
ほの明かりにたゆたう夜の鼓動に深く身を沈めた玉座の主は、扉の開く音に目を上げた。
「失礼します。」
入室を告げる声が蝋燭の舌先を竦ませる。静かな空気を揺らして歩を進めた青年は、絨毯に膝を付き恭しく頭を垂れた。
「ご報告致します。昨夜未明に脱獄を図ったハイウィンド卿ら一行ですが、捜索は難航しております。」
肘掛けに体を凭れた王は、傾ぐ視線を御用聞きの上に投げ遣る。
「一日探索して足取り掴めずか。……もうこの国にはいないということだろうね。」
「は、恐らく。」
同意を承け、王は何事か心得たように頷いた。
「ご苦労さま。兵を引き上げて、君も休んでくれ。無駄足を踏ませて悪かったね。」
「は。」
どうにも過去の語り口が治らない風の若き王に、簡素な御意を返して立ち上がる。過去とはいえ、一年にも満たぬ時間だ。それを責めるのは酷だろう。
近衛兵が扉の向こうに消えると同時に、王は頭を後ろへ逸らせた。王冠と背もたれがぶつかり、カンと乾いた音を立てる。まるで中身の無いその音に、何故か可笑しさが沸き上がった。くっくっと喉元にのめる声がぼんやりと反響する。
いつの間に、これほど一人になってしまったのだろう。
人間は元々一人だ、などと建前てみたところで答になろうはずはない。つい最近、技師にどやされた言葉を思い出す。王は国を背負うが、孤独を背負うべきでない、だったろうか。そんな按配ではなかった気もする。
自分が周囲に見捨てられているなど考えたことはない。今ですら、事情を全て打ち明けたなら、喜んで受け入れてくれるだろう。
だから、それができないのだ。
助力を求めることはいとも容易い。見返りなど求めないことも知っている。そうして罪過は心に積もっていくばかりだ。
瞼を下ろした視界に色濃く浮かぶ禍つ影。溜め息を吐き下ろし、静かに向き合う。
ここまで決意を固めたつもりでいながら、真実はどうだ。やはり自分は甘えている。剣を取る手が震えずいられるのは、続く道を歩む者がいるという確信があるからだ。
「参ったなあ……。」
瞑目の額に手を当て、自嘲の笑いに唇を委ねる。
王がその座を後にしたのは、明け方も間近い時刻であった。