2話・現状は上々
「くっ!」
上体をそらすと鼻先のすぐ上を鋭い爪が通り過ぎた。
人狼のもう一方の前足が彼の腹を裂こうと素早く近づくが、彼は後ろに飛び退き人狼と距離を取って剣を構え直す。
「おーい。圧されてるよー」
呑気な声が後ろから響いた。
「うるさい黙ってろ外野!!」
前を見たまま視線をそらさず吸血鬼は怒鳴る。確かに外野だろう。神父は吸血鬼と人狼のいる草原ではなく、かなり後方の林に隠れている。風上であることと、吸血鬼の聴覚が優れていることがなければ声は届かなかったかもしれない。
体格の良い全身を毛皮で覆った目の前の影は、こちらが次にどう仕掛けるかを窺っているようだ。少し屈んだ姿勢で後ろ足で立ち、前足の爪も、狼そのものの形をした頭部の牙も、ぎらりと光り隙はない。
風が吹きつけると、吸血鬼の腰まである黒髪が視野を狭め、彼は髪を束ねてこなかったことをかなり後悔した。整った顔をしかめながらも人狼を剣で牽制しているとまた後ろの神父の声がした。
「お布施かかってんだからねー!負けたら狼と一緒に燃やすよー!」
「それは遠慮したいな」
吸血鬼は苦笑しながら人狼に向かって切り掛かる。
鈍い音がして鮮血が飛び散った。人狼は剣を前足で受け、そのまま健と骨で絡め取る。
だが吸血鬼は大人しく手を剣から離し、切り掛かった勢いのまま人狼の横を駆け抜け、すれ違いざまに人狼の後ろ足を払った。
灰色の毛並みの巨体が転倒する。吸血鬼は剣を取ろうと振り返り駆け出すと、ぬかるみに足を取られて彼もまた転倒しそうになるのを何とか踏み止まった。
雨はこの数日降っていない。だとすればこの場所で戦えと言った神父が用意したものだ。このぬかるみは水ではない……。
人狼が吸血鬼に踊りかかり、ぬかるみに足を踏み入れる。反射的に迎え撃つ構えを取ろうとした時、先ほどの神父の声が頭をよぎった。
“狼と一緒に燃やすよ”
「油かっ?!」
ぬかるみと人狼から逃れようと後ろに下がりながら吸血鬼が声を上げた時、意外に近くまで来ていた神父がニコニコ笑いながらぬかるみに向かって何かを投げつけた。
夜空に閃いたそれは、火炎瓶である。
吸血鬼の悲鳴は爆音にかき消された。
「完全復活おめでとう!!」
五日ぶりに柩の蓋を持ち上げると、金の髪の神父がシャンパンを浴びせてきた。
「…………何の真似だクソ坊主」
塗れた服と髪が肌に貼り付き不快感をあらわにしながら吸血鬼は長い髪を掻き揚げた。
「あれ?君の回復を祝ってあげたのに気に入らない?」
「見てわかるだろう!いやそれよりもだ!!」
彼は神父に噛み付くような勢いで
「お前は一体何を考えている?!仕事を手伝えば私を消さないと言っていただろう!」
怒鳴ったのだが神父は天使のように微笑んで、
「だって俺仕事熱心だから」
「お前の人生の終止符を飾ってやろう」
「あ、待って首なんて絞めたら苦しいって。灰になりかけた君をちゃんと用意してた馬車の中の柩に入れてここまで運んであげたでしょ。これで本当に俺が君を消そうとしてたって思うわけ?」
すねたように唇を尖らす神父を見て、吸血鬼は神父の首から手を離し諦めたように溜め息をついた。
「お前は性格がねじれ過ぎだ」
半眼で吸血鬼が言う。くすくす笑いながら神父は自分の後ろに置いていた籠から白い紙の包みを取り出し、吸血鬼に投げるように渡した。
吸血鬼は不思議そうな顔をしながら包みを開き、目を丸くして神父に尋ねる。
「お前が焼いたのか?」
「うん、そう。ラズベリーパイ。君は食事を取る必要はなくても味を楽しむことはできるでしょ?お詫びと、お礼さ」
吸血鬼は手に持った、食べ易い大きさに切られた甘い香りの物体と目の前の金髪の青年を見比べる。
その視線に神父は少し困ったように笑う。
「毒なんて入ってないって。信用してよ。俺は君を信用してるんだからさ」
不意に脳裏に懐かしい少女の声が響いた。
“信用してるのよ?”
思わず、吸血鬼は空いている手で額を抑えた。
「……どうかしてる」
「えー?それって俺のこと?」
神父は不服そうな声を上げる。その様子を見ながらパイを口元に運ぶ吸血鬼が、
「両方」
浮かべた表情を神父は少し驚いて見て、
「何それ。俺と君ってこと?」
そして笑った。
彼の笑顔を見るのは、例えそれが苦笑であれ、これが初めてだったからだ。
「……それもあったか」
自分にとっては甘すぎるパイの味に少し顔をしかめながら吸血鬼は呟いた。