神様に乾杯 4話 - 3/7

少し風が強い。でも御者台から馬車の中へ入ろうと言う気持ちはあまり起きない。
横目に見える景色は赤みを帯び始めた光を受けて少し緑の色を変え始める。葉を揺らす風の通りすぎる音と、馬の蹄の音だけを随分長い間聞いていた。
クアラルのいた町を出発してから既に二日が過ぎていた。エリクがクアラルを訪ねてきた時点で裁判まで一週間。今日の夜、王都につくとして、帰りの日数を引けばもう一日しかない。
「つくの夜になっちゃうねー」
となりでずっと馬の手綱を握っているエリクに声をかける。
「そうだねー。でも、ま、門が開いているうちにつけるよ」
眠る時と食事以外はほぼ休みなしで御者をしているというのに疲れているように見えない。もしかしたらやせ我慢かもしれないが、そうだとしても中々に元気な男だ。
男女の二人旅というのに抵抗がなかったわけではないが、エリクの「俺は神父よ?神に誓って何もしないって」という言葉に押されて、現在こうなっている。
「王都について、フェザーナートのとっている宿に荷物置いたら、しばらく俺、別行動だから。その間は二人でいてね」
「うーんと、そのフェザーナートって人、私が生まれる前に王都にいて、噂話とかを聞いてたってことは社交界に出てたってことでしょ?当時十六歳以上よね。今三十二歳以上でしょー?何してる人なの?ダメ貴族?」
クアラルの物言いにエリクは思わず吹き出した。
「あはははっ。本当、フェザーナートが聞いたらなんて言うかなあ」
「何て言うと思うの?」
「うーん」
少しだけ考えてから、迫力のある大声で、
「馬鹿を言うな!貴様、私を何だと思っている!!……って言うと思う。あ、でも多分女性に甘そうだからクアラルちゃんには言わないかなー」
後半はいつものほにゃららとした調子で笑った。
「女好きなの?」
「ていうか、男に厳しいだけかね」
「ふぅん」
あまり、「女の子には親切に」といった扱いをされたことのないクアラルは、その三十二歳以上の貴族の姿を想像できずにいた。
考え込んでいるクアラルを見て、エリクはニヤニヤしながら、
「絵にも描けないような美青年だよ」
「でも私、自分の倍の年齢の人には興味ないわ」
言ったがそっけなく彼女が言い捨てる。
「あ、俺なら範囲内?」
「……あなた神父でしょ……」
「あのね、きっとフェザーナートならメロメロにしてくれると思うよ」
「別にされたいと思わないけど……」
不安を覚えるほど、エリクは楽しそうだ。
強い風が吹いて、木々が大きく揺れた。クアラルは自分の肩を抱いて震える体を落ち着ける。
「中、入るね」
「ん。俺の上着取ってくれる?」
「うん」
赤みを帯びた空の反対から、夜が近づいていた。
ロの中だけで、エリクは小さく呟く。
「夜じゃないと、会わせられないもんねぇ」
何となく、輝き始めた月に自分たちの成功を祈り、それから神に祈りを捧げた。

クアラルはエリクの自分を呼ぶ声で目を覚ました。
「クアラルちゃん、起きて。ついたよ」
「え?!あ、やだ、私寝ちゃってたの?」
慌てて起き上がる。
王都に入ったことも、馬車が止まったことにも気づかなかった。
エリクが馬車から降りる。クアラルも自分の荷物を持って後に続いた。空は、もう真っ暗だ。
「ごめんなさい」
「何で謝るのさ?謝ることじゃないよ。疲れてるんだよ。魔女狩りに対するストレスとか、これからのプレッシャー、それに、慣れない旅となれば尚更ね」
優しく笑って、エリクが言う。そして、すぐ前にある建物に向かって歩いていく。そこが相棒のいるという宿らしい。
プレッシャーや旅の疲れに関しては彼も同様だろう。クアラルは心の中でもう一度謝った。
ふと辺りを見渡して気づく。暗くてよくわからないが街並みから見て、この通りは街の中心の大通りではないだろう。なのに、彼女が立っている足元には舗装された石畳が広がっている。
これだけで、クアラルは「王都」というものを思い知った気がした。朝になったら辺りを観察しなくては、と決意しながらエリクの後を追って宿に足を向ける。
中に入ると、エリクが広いロビーで従業員と二、三こと言葉を交わして、クアラルに手招きした。
宿は綺麗な内装で、柱の細工からしても高貴な雰囲気がある。「高いんだろうな」そんなことを思いながら早足でエリクに続く。階段を上がり、廊下を少し歩くと扉の前でエリクが立ち止まった。
「ここがフェザーナートの部屋。クアラルちゃんの部屋はこの隣ね」
すぐ側の扉を指し、その後に左隣の扉を指してエリクが教えてくれた。
いよいよ、その絵にも描けないほどの美育年とやらとの対面なわけだ。
エリクが扉を軽く二回叩く。
「誰だ?」
楽器の音色のような声が聞こえた。エリクはふざけた調子で
「お・れ☆会いたかったわマイダーリン☆」
「どなたですか!」
怒声と一緒に乱暴に扉が聞かれた。
瞬間――こんな男がいるのかと思った。
神話から抜け出たような、端正な容貌。束ねられることなく腰まで伸びた黒い髪はまるで夜空を流したようだ。かなりの長身で、背の低いクアラルの頭は彼の肩にも届かない。どう見ても二十歳くらいに見えた。
「酷い!同棲中の情夫の顔も忘れたの?!」
横でエリクが何かとんでもないことを言っている。フェザーナートはエリクの胸倉を掴み、
「殺してやろうかクソ坊主」
「冗談もう少し通じようよ。人生明るくなるよー?」
「お前の冗談は大嫌いだ」
エリクを押しのけるようにして手を離した。エリクは少しバランスを崩したようだったが、
「クアラルちゃん、この人がフェザーナート」
絶世の美男子をクアラルに紹介する。
言われてフェザーナートは紫水晶みたいな瞳を優しく細めて軽く会釈した。名工の彫像が動いたような気すらした。
「あ、あの、私はクアラルといいます。よろしくお願いします」
どもりながらクアラルも会釈した。
ニヤニヤ笑いながらエリクがクアラルを見ている。彼女はエリクの耳を引っ張って
「あんまり綺麗な人だったから、ちょっと驚いただけじゃないっ」
小声で抗議した。エリクは少し肩をすくめて、
「部屋に荷物置いといで。すぐにフェザーナートと出かけてもらうから」
「あ、はい」
急いで部屋に向かうクアラルの姿が、フェザーナートには何だか小動物じみて見えた。
「……少し、似てるかな……」
「? 誰に?」
部屋に消えた少女の方を見ながら呟いたフェザーナートに、エリクが不思議に思って聞くが、
「なんでもない」
としか言わなかった。エリクは少し不満そうだったが、すぐに話題を変えた。
「何か使えそうな話あった?」
「おおっぴらじゃないけどな、結構凄い話があったぞ」
「公然の秘密って奴?」
「いや、本当にごく一部しか知らないことだ。婚約が決まったばかりの王子が、国王暗殺を予定しているそうだ」
小声でフェザーナートが答える。聞いてエリクは口笛を吹いた。
「わぁお。何か大変な時に重なっちゃったね。なんにせよ、利用させてもらいましょ」
何故か楽しそうなエリクを横目で不思議そうに見ながらフェザーナートは部屋の机の上から数枚の紙をとって、エリクに押しつけた。
「こんなものでいいのか?」
「うん、バッチリ」
その紙に目を通しながらエリクは頷く。
「……役に立つかどうかわからないぞ。面倒が増えるだけにならなきゃ良いが……」
「大丈夫だって」
そんなことを話していると、クアラルが戻ってきた。
「どこ行くんですか?」
「君のドレスを買いにだ」
フェザーナートが答える。彼が「君」と言ったのを聞いて、エリクは顔が笑いそうになるのを必死に堪えた。「やっぱりだ」エリクに対しては「お前」か「貴様」としか言わないのに。
「お城に入る時のためのドレスですね」
「そうだよ。祭好きの国王は明日の夜舞踏会を開く。その時用だ」
言いながら、「時間が惜しい」と少女の背を軽く押して歩き出す。彼女とエリクも彼に続いて歩き出した。
少女がフェザーナートの横に並んだ時、首筋が目に付いた。茶色い髪を一本に編んでいるせいで、彼女の白く細い首筋はあらわになっている。
一瞬、理性が消失する。
変人神父に会ってからというもの、動物の血しか欲んでいないのだ。人間の血が飲みたいと渇望していた。
その首に触れたい。噛みついてしまいたい。あふれ出る血は、どんな味がするだろう?
「どうしました?」
我に返ると、明るい茶色の大きな瞳が彼を見上げていた。
「あ、いや、その」
伸ばしかけていた手を慌てて下ろし、口篭もる。
「駄目だよー欲情しちゃあ」
十字架を持ったエリクがすぐ耳元で囁いた。
「誤解を招く言い方をするな。私は、ただ……」
「ただ、何?」
食欲も性欲も、この場合あまり違いはないような気がする。
[……私が悪かった。これでいいか?」
「上出来」
満足げにフェザーナートの肩をぽんと叩く。不思議そうに彼らを見上げているクアラルの視線がフェザーナートには居心地悪い。
彼らはそのまま外に出た。宿の前に止めたままだった馬車に乗り込みながらそれを見ている二人にエリクが声をかける。
「じゃ、仲良くね。後で会おう」
走り出す馬車を見送ると、二人は歩き出した。
おずおずと、クアラルがフェザーナートに質問する。
「あの……。買いに行くって言っても、この時間、お店ってやってんですか?」
丁寧に話そうとしているが、しっかり地が出ている話し方だ。
眠ってしまったから確かな時間はわからないが、もう結構遅い時間だろう。城下町を囲う城壁の門が閉まる前に馬車は中に入れたとはいえ、人通りの少なくなる物騒な夜に、ドレスなんて高価なものを置いている店が開いているとは思えない。開いている店と言えば仕事帰りの客を待ち構える酒場くらいなものだろう。
そう思って尋ねたのだが、フェザーナート曰く、
「貴族は我侭だからな。店を閉めた後でも予め行くと伝えておけば問題はない。店の方としては貴族の言うことを聞かずに大事な客がいなくなる方が問題なんだ」
だそうだ。日が暮れるとすぐに店まで全力で走ってぎりぎりで間に合った話はしない。
「舞踏会の時にお城に入るって……招持状もなしに入れるものなんですか?私、このままの格好では王様に会えないからドレスを買うとしか聞いてないんですけど」
首を傾げて、疑問に思っていたことをクアラルはまた質問した。
「……あの馬鹿、ろくな説明しなかったんだな」
「あんまりよくわかりませんでした」
呆れたようなフェザーナートに、クアラルは申し訳ないような気持ちで答える。
フェザーナートは「悪いのはあの馬鹿だよ」と溜息をついた。
「……王様には会わせろと言ったところですぐに会えるものでもないし、忍び込もうにも警備兵はいっぱいだ。いったん堂々と中に入ってから王様のところに行こうってわけさ。招待状は入手しておいた。君は、私の連れということで入れるよ」
「え、でも招待状だけじゃあ……身分が高いって証明できなきゃ入れないんでしょ?」
「そうでもないよ。大概は招待状だけで十分だ。それに、私は爵位を剥奪された覚えはない。一応は、貴族の位だ」
言われてやっとクアラルは横を歩く男が貴族なのだと思い出した。この男は、クアラルが勝手に考えている貴族のイメージ――高慢で我侭で馬鹿――には一致しないので忘れていた。今更嫌うのも馬鹿らしいので「まあいいか」と気にしないことにする。
やがてフェザーナートが足を止める。その服屋についたようだ。
「暗いですね」
「そうだな」
窓から全く光の漏れていない建物の戸を、フェザーナートは気にすることなくノックする。
少し間を置いて扉が細く開かれた。光が隙間からこぼれ出す。
彼は中へ入りクアラルに手招きした。彼女も慌てて後に続く。
「……わぁ」
華やかなドレスが人型に着せられて並んでいる。その奥には壁に掛けられて整然と。そのきらびやかさに、彼女は圧倒された。こんなに綺麗なものなのか、貴婦人の着るドレスというものは。細やかな刺繍も、袖や裾を彩るレースも、全てが彼女の目を奪う。
「気に入ったものを言ってくれ」
さらりとフェザーナートが言うが、クアラルはそれどころではない。こんな見慣れない物を並べられて、どれが良いだとか悪いだとかなんてどうすれば言えるのだ。
弱り果ててフェザーナートを見上げて、
「どんなのがいいんでしょう……?」
すがるように声を出す。フェザーナートは少し驚いたようだったが、すぐに納得してロを開いた。
「私が見立てようか?」
渡りに船。クアラルは首をこくこくと縦に振る。
「お願いします」
「好きな色は?」
「緑です」
「なるほど、似合いそうだ」
言って微笑んだ優しい笑顔を見て、クアラルは確かにエリクの言った通りメロメロにされたようだった。