6話・常識のものさし
「エリク?いないのか?」
普段、起きるのと同時ぐらいか、それより早く彼のところにやってきているエリクが地下に下りて来ないので、フェザーナートは不思議に思いながら一階に上った。
返事はない。
「出かけたのか」
納得して、食事用の動物でも捕らえに外に出ようとした時、
「うっわあああああ!!」
エリクの絶叫が響き渡った。
「どうした?!」
慌ててフェザーナートは声のした方、エリクの寝室の方へ走り出す。
扉を開けると、
「……? エリク?」
エリクはベッドの上で上半身を起こし肩で荒い息をしていた。今まで眠っていたのだろう寝巻き姿で、髪は乱れて汗をびっしょりかいていた。
「はーっ。あー夢で良かった……。熱ある時に夢なんか見たらそりゃあ悪夢だろうよ」
そう言った声はかすれて弱く、随分喉を痛めているようだ。
彼は手近に置いていたタオルを取って、ざっと汗を拭くと再びぱたりと横たわる。
「熱があるのか?医者にはみせたのか?」
心配になってフェザーナートが近寄ると、ぐったりしたままエリクは答えた。
「あー……うー。何百頭という象が俺に向かって突っ込んで来るんだよー……。俺もう死んだと思ったね本当」
「それは嫌な夢だな。……で、薬はあるのか?」
象とはどんな生き物だろうとちょっと考える。
「あのねー……朝起きたらこんなんでさー。森抜けて医者に行く気力なんてないし……薬もないんだよぅ」
目が虚ろだ。
フェザーナートは小さく息を吐くと
「私が町に行って薬を買って来よう。他に欲しいものはあるか?」
エリクはしばし考えて、
「…………美人な看護婦さん」
「お前このまま死んでしまえ」
即座に枕もとが足蹴にされた。
「病人なのに……。じゃあ、りんご食べたい」
それだけ言うとエリクは目を閉じた。
「うあーなんか目ぇ回る……」
「りんごだな?わかった。買って来よう」
フェザーナートはエリクに背を向ける。
「兎じゃあるまいし、寂しくて死ぬとか言うなよ」
「……熱ある時は心細くなるものじゃない?」
冗談のつもりで言ったのに、憐れっぽい声が返ってきたので
「そういうのは子供や女性が言うから可愛いんだ」
とりあえず軽口を言いながらなるべく急いで行って来てやることにした。
夜の町はひっそりとしていた。
急いで来たからまだある程度の人通りはあるが、店はもうほとんど閉まっている。明かりのついている店は仕事の終わった男たちが疲れをとるために入る酒場くらいだ。
その前をフェザーナートは歩いていた。
彼は薬屋を目指している。医者を呼ぶのは躊躇われた。何故ならあの教会にはエリクー人が住んでいることになっているからだ。
「……本来の営業時間は過ぎているが、多めに金を払えば文句は言えないだろう」
あまり気の進むやり方ではないのだがしょうがない。彼は日が沈んでからしか町に来られないのだから。
歩いていると不意にわき道から人が出てきた。夜目の利くフェザーナートは足を止めて道を譲る。暗いため、出て来た男はフェザーナートに気付かず行きすぎた、ように思えたのだが
「母さん?!」
そう言って振り返ると彼はフェザーナートに抱きついた。
「会いたかったよ母さん!」
フェザーナートは無言のまま、
ゴスッ。
抱きついてきた男の頭を殴った。
男は衝撃を受けてずるりと落ちる。その落ちる過程で自分から男の体が離れた瞬間に、男の腹部をやはり無言のまま膝で蹴り上げた。宙に浮かんだ男の体を、今度は回し蹴りで地面に叩きつける。
男はびくんびくんと痙攣している。
「酷い……」
「ほう。まだ意識があるのか……なら聞くが」
うめいている傍に立ち、静かに言った。フェザーナートの声は低く、間違っても女性の声ではない。
「お前の母というのはこんな長身の大女なのか?」
「……いえ…………俺より小さいです……」
くぐもった声で答える男はどう見てもフェザーナートより小さかった。
「なら人違いだ。わかったな?」
「はい……」
かすかな声での返事を聞いて、フェザーナートは満足げに頷く。
彼は男色家が大嫌いだった。というのも、少年時代に中年に迫られたからだ。その時には相手に全治三ケ月の重傷を負わせて危機を脱したのだが(この場合相手の生命の危機かもわからないが)それ以来相手に下心があろうとなかろうと必要以上に触れてくる男は問答無用で叩きのめしている。
フェザーナートは軽く埃を払うと、何事もなかったかのように倒れている男に背を向けて歩き出した。そのまま立ち去ろうとしたのだが、
「……母さん聞いて……。今日は母さんにとても良く似た人に会ったよ……。でもその人酷いんだ……。俺何もしてないのに、酷い暴力を振るって……俺もう動けそうにない……。母さん、俺ここで死ぬのかな……ううう死にたくない……痛いよう痛いよう……」
啜り泣きが彼の足を止めた。
立ち止まって、首だけ動かして男の方を見る。
「ああなんて酷い人だろう……。こんなに酷いことしておいてそのままどこへ行ってしまうんだ……。酷いよね、俺動けそうもないのに……」
「それだけ話せるなら平気だろう!」
フェザーナートが思わず振り返ると、男はほんの少しだけちらりと彼のほうを目だけで見て、
「痛いよう酷いよう……。せめて医者に運んでくれればいいのに……痛い痛い……。家まで運んでくれるとかさ………何もしてくれないなんて、何て酷い人だろう……」
「黙れ!」
そう叫んで彼はつかつかと男の傍へ歩み寄り、むんずと男の手を掴むと
「医者か?!家か?!どっちだ?!連れて行けばいいんだろう連れて行けば!」
ズルズルと引きずり始めた。
「ひいー~どお~~いいいいい~……」
全身を地面に擦り付けられながら、土がロに入るも構わず男は聞き取りにくい悲鳴を上げた。
最終的に、男をおんぶする羽目に陥ったことにフェザーナートは疑問を感じていた。
「で?次はどっちだ?」
「あー……右ッス……」
T宇路で立ち止まったフェザーナートの問いに、男が弱々しく答える。
二択問題で男は自宅を選んだためフェザーナートは男の家を目指している。
「ったく、何でこんなことに……」
心の中でぼやいたため、自分のせいだろうというツッコミはどこからも来ない。
「だいたい、この男どう見たって二十歳すぎているのに、どうして俺を母親と間違えるんだ?」
謎である。見た目ではフェザーナートのほうが若い。
「当たり屋の一種かな……」
だとすると、随分奇妙な当たり風だ。どんな手口で金を取るのか見当もつかないし、そうだとすると最悪な相手に当たってしまったものだ。
「……おい、お前の家はこんな外れにあるのか?」
気がつくと、随分町外れまで来ていた。この町は多くの町同様、町を囲む塀がないため町外れというのはつまり森の中だ。
「はい……もう少し行ったとこッス……」
当たり屋説は正解かもしれない。のこのこ言う通りに進んだ所で、大勢が待ち構えているとか。
「私は薬屋に用があるんだ。用を済ませてとっとと帰りたいのだが」
何人来ようと負けるつもりはないが、そんなことに時間を使っている場合でもない。不機嫌に言い捨てる。
「何のー……薬がーいるんスかー……?」
ひょっとしたらもともとこういう間延びした話し方なのだろうか。そんな疑問が頭をかすめた。
「風邪薬だ。……そういえば、りんごも頼まれていたな」
「ウチに買い置きがあるッス……。いりますかー……?」
「本当か?貰えるものなら貰いたいが」
町に戻ってそれから買うよりも、この男に貰った方が時間の短縮になる。
「りんごもー……確かあったと思うし……」
「いいのか?いや、いくらなんでもそれは悪い。金は払う。売ってくれ」
妙に好意的な男に戸惑いながら、フェザーナートは提案した。どうにも嫌な感じだ。よほどこの男の母親と自分の顔の作りが似ているのだろうか?
「じゃあ、そうッスねー……。そうしましょー……」
やはり弱々しい声で、男は提案を受け入れた。
もうしばらく進んで、
「気をつけてください……」
男が囁いた時、フェザーナートは来たか、と思った。
「この辺、出るんスよー……」
「賊が、か?」
「いえ……」
男が予想を否定する。「え?」と言ったか言わないか、突然大きな足音が聞こえた。
草を踏みつけ、それはどすんどすんと近づいてくる。
その大きな足音を、フェザーナートは今まで聞いたことがなかった。気味悪くなりながら音の方に顔を向けると、木の間からその巨体が見えた。
ずんぐりとした動物だ。毛がなく表面はつるっとしている。大きな長い牙を持ち、その巨体で勢いをつけて突進でもしたらさぞ立派な破壊力を生むだろう。だが何よりも気になったのは、それの足元まで垂れた奇妙に長い鼻だ。ぷらぶらと揺らして気味が悪い。
「象ッス」
男は冷静にそれの名前を告げた。
「何でこんなところにいるんだ?!」
あまりのことにフェザーナートは声を上げた。
「名前くらいしか知らないが、確かもっと南の方にいるはずだろう?!」
「いやー……でも現にいますし」
「だから何でと聞いているんだ?!」
「大丈夫ッスよー。草食ッスからー……アイツ」
混乱するフェザーナートに、男はマイペースに答える。
「だからー。先、進みましょー……」
「っー…………。わかった」
一刻も早くこの男を家に届けて、一刻も早くこの場から離れたかった。「確かに何百頭ものあんなのに追いかけられたら死んだと思うだろう」少しだけエリクの気持ちがわかる。
足を踏み出しかけた彼に、
「あー……ちょっと止まって……下さい」
男が声をかけたその途端、
ドドドドドドドドドドドドドドド……
鳥の大群が目の前を駆け抜ける。
「何だあれは?!」
首と足がやけに長く、随分と大きな鳥だ。フェザーナートより頭一つ分以上高い。羽は小さく、飛ぶことは出来なそうだ。走る速度は謎のように速い。
「ダチョウッス」
冷静な男の声。
「さて、進みましょー……」
男が言う。
フェザーナートは動けずにいた。
「何だここは。何なんだ。違う国に来てしまったのか?!あの教会から十kmと離れていないこの空間はどこだ?!この狭い空間に俺の常識を崩すわけのわからんものが二種類も存在するのは何故だ?!俺が今まで信じてきた常識とは何だったんだ?!これが現実なのか?!いや幻だ幻以外の何だってんだ!」
口調が乱れています。
「何でもいーじゃないスかー……。実際にいるんスからー……」
「いてたまるかぁあ!!」
叫びながら、フェザーナートは男の家があると思われる方向へ走り出した。早くこの幻だか夢だかから抜け出したい一心で。
景色はもう目に入らない。入っていたら彼はもっと混乱することになっただろう。
森は姿を変えていた。
密林である。
よくわからない植物の蔓が見たこともない木の枝から垂れ下がり、その木の根元には信じられないほど大きな集を待った植物が生えていた。どこからかおかしな動物の奇声が聞こえてくる。今が夜か昼かもわからない不思議な暗さで、妙に熱く、湿度が高い。
彼はがむしゃらに走った。
途中、男が声をかける。
「あー……そこ行くと危ないッスよー……」
気がつくと池があった。極彩色のカエルが泳いでいる。
また途中、男が声をかける。
「あー……そっち行ったら臭うッスー。やめましょー……」
遠くに馬鹿でかい毒々しい色の花らしきものが見えた。
「……あれは何だ?」
「食虫花ッス」
またまた途中、男が声をかける。
「あー……それ……」
「もういい!何も言わないでくれ!!行くべき方向だけ言ってくれ頼むから!!」
何だか泣きたくなってきた。
「それもそうッスねー……」
後ろの男が楽しんでいるような気がするのは気のせいだろうか?
突然、殺気を感じた。
フェザーナートは男を下ろして剣を抜く。
「……今度は何だ?」
できることならこれ以上変なものが出てこないようにと願いながら呟くと、
ザアッ
草を分けて大きな影が飛び出した。
人間と同じくらいの大きさだろうその生き物は、頭には触角を持ち、三対の、計六本の足を持っている。一番前の一組の足は鎌のような形だ。
「カマキリッスね」
「こんなデカイ虫がいるかぁああ!!」
叫ばずにはいられなかった。ひょっとしたら泣いていたかもしれない。
「気をつけないとー……。奴は肉食ッスよー……」
男が気楽そうに言った時、カマキリ(仮定)が飛びかかってきた。
振り下ろされる鎌をかわし、その前足を切り落とそうと剣を振る。が、
「……ちっ。外骨格め……」
刃は鎧のような表面に弾かれた。
カマキリ(仮定)が今度こそはと再び前足を上げる。フェザーナートはその瞬間に、
「鎧みたいなら、鎧相手の戦い方をするまでだ!」
カマキリ(仮定)の頭部と胸部の繋ぎめに剣を刺し、横に払って剣を抜いた。
しかし頭が半分敢れているのに関わらず、カマキリ(仮定)は鎌を振り下ろす。
「あああっ!はしご状神経が憎いっ」
言いながら攻撃をよけ、今度はその前足の節を切り裂いた。続けてもう一方の鎌も切り落とす。
カマキリ(仮定)がバランスを崩したところでフェザーナートは跳躍し、トドメとばかりに胸部と腹部の間に剣を突き刺した。
カマキリ(仮定)がもがき、やがて動かなくなる。
フェザーナートは溜息をついて、それから剣を抜くと、その刀身についたどろどろの内臓を見て閉口した。特記するまでもないだろうが、気持ち悪い。
「あのー……」
呼びかけられて、男の方を振り向く。男は近くに生えている葉の大きい草を指して、
「これで拭いて、そのどろどろの取ってから布で拭いた方がいいんじゃないですかねー……」
「……そうだな。そうしよう」
剣を拭く布は一応いつも持ち歩いている。が、それでこのまま拭くのは躊躇われたので男の言う通りにした。
手にした草は、フェザーナートの知っているどの草より葉が厚く、硬く、大きかった。
そろそろ常識のものさしを違うものに変換した方がいいのかもしれない。幻と呼んでいたあの頃が懐かしい。
フェザーナートはあえて何も考えないようにしながら男をおぶって、歩き出した。
はたして男を家に送り届けた後、無事に帰れるのだろうか。それより先に、男の家にたどり着けるのだろうか。
「ついたッスー……」
「……ってー…………は?」
目の前に家がある。ごく普通の、中流以下の家庭の住居だ。
男は彼の背から下り、ふらつきながらも扉の前に行くと鍵を開ける。
「どうそー……上がってくださいー……」
フェザーナートも疲れていたので少し休ませてもらうことにした。
中に入ると居間に案内され、椅子に座る。
男はふらふらしながら薬とりんごを取りに行った。その後姿を見ながら、「動ける程度には回復したんだな……。……はぁ、しかし、送るのは医者にしておけばよかったな……」心から思ってしまう。
やがて、男が籠を下げて戻ってきた。
「ありがとう。いくらだ?」
尋ねながら、籠の中を覗く。薬の入っている小瓶。りんごが数個。そして……
「ひっ?!」
丸く見開かれた、目玉。
「何だこれは?!」
目が合った。慌ててそらす。
それはりんごに見えた。形はりんごだ。色も大きさもりんごだ。ただ、一つの大きな目がついている。
「りんごッス」
「嘘をつくなぁ!!」
フェザーナートが叫ぶと男は瞳を潤ませて
「何を言うんだ!昔はバリバリと食べていたじゃないかこれはりんごだと言って!そうだろう母さん!」
「…………は?」
フェザーナートの目が点になる。
「貴方は二十年前に死んだ母さんの生まれ変わりだ!一目見ただけでわかった!俺がずっとずっと探していた母だと言うことが!!さあ母さん!この禁断の果実を食べて大いなる力と記憶を取り戻すんだ!!」
「もっとわけのわかることを言えぇぇえ!!」
怒声とともに、彼は男の頭をカー杯殴りつけた。
「俺はは三十二だ!二十年前に死んだ誰の生まれ変わりだって?!人違いだと言っただろうが!まだのたまいくさるかこの阿呆!!」
「だ、だって、貴方の背後から立ち上るオーラは母のものと同じ……」
「勝手に人の背後に妖しげなもの見ぃ出すな!!」
叫んでフェザーナートは籠から目玉つきりんごもどきを掴むと男に投げつけ、机に相場より多めに金を置くと龍を持って出口に向かう。
「じゃあな!寝言は寝てから言えよ!」
男は彼に駆け寄り
「待って母さ……」
「誰が貴様の母親だぁああ!!」
フェザーナートの放った見事な後ろ回し蹴りをくらう。
男は「助けてベルルチカぁあああ」などと意味不明なことを言いながら床に叩きつけられ、どうやら昏倒したらしい。
フェザーナートは汗をぬぐい、外に出た。
「………何だ……?」
そこは普通の森だった。
あまり遠くない位置に町が見えている。
「…………………………………………あ?」
彼の持つ常識の範囲に余裕で収まっている光景だ。
彼は少し考えて、
「……帰ろう」
結論はすんなりと出た。
エリクの部屋の戸を軽く叩いて、中に声をかける。
「起きてるか?」
「……フェザーナート?うん、起きてるよ……」
返事を聞いて、フェザーナートが扉を開け中に入ると、エリクが不思議そうに彼に尋ねた。
「ずいぶん早かったね?」
「…………早かった?」
思わず眉を寄せて聞き返す。遅かったと言われるならわかるが、それはどう言うことだ。
「え?だって出てってからそんなにたってないよ。薬屋さんの文句聞いて説得しての時間考えたら全然早いよ?」
おかしい。絶対に時間は余計にかかっているはずだ。やはり幻だったのだろうか?
首を傾げながら彼は薬を取り出してエリクに渡す。
「ありがとー」
フェザーナートはりんごの皮を剥いてやろうかと、りんごを一つ掴んで
「うわっ?!」
目玉と目が再び合った。確かに取り除いたはずなのに何故入っていたのか。
動揺して彼はそれを放り投げてしまう。それをエリクが受け止めて、
「うっわ何これ何このりんご?!サイッコー!!かっこいー!ねぇねぇ、これってどこで買ったの?!」
歓声を上げた。
フェザーナートは何だか気が遠くなるのを感じつつ、
「……お前と気の合いそうな奴から買ったんだ……]
この二人がそろったらどうなるだろうと、一瞬だけ考えてすぐに止めた。
その目玉りんごを食べたエリクは「美味しかった」と笑顔で言って、翌朝、風邪は完治していたことを明記しておこう。