神様に乾杯 7話

7話・誰の目も届かない遠く

毎夜、私はこの酒場にやってきます。
今晩も例外はなく、私はランプが三つあるだけの、薄暗い酒場にやってきました。
開け放たれた窓からひんやりとした夜風が染み込むと、ランプで作られた影がゆらゆらと揺れました。影の主である数名の男たちは皆、ただ静かにお酒を飲んでいます。
私が毎夜この酒場に訪れるのは、この酒場がとても静かだからです。正直、わいわいと騒がしい酒場は少々苦手なのでした。
壁際の、窓の側の席に一人で座っている男性と目が合いました。長い黒髪の、影のような人。背が高くとても美しい顔をしています。彼は私に笑いかけ、軽く会釈をしてくれました。
その男性があんまり魅力的だったので、私は魅せられたように彼の向かいの席についてしまったのです。
彼は私のためにお酒を注文しました。「もう一杯……いや違う、グラスをもう一つ。それについでくれ」彼のグラスに注ごうとする店員に彼がそう言うと、店員は少し怪訝そうに私の分を持ってきました。
私が彼に好意を抱いたように、彼も私に好意を持ってくれたのでしょうか、彼は私に聞きました。
「こんな夜中に女性が一人で酒場に来るだなんて物騒な話だ。そうまでして酒を飲みたい理由とはなんだい?」
私は答えました。忘れたいことがあるからだと。すると彼はこうも言いました。
「そんなに思いつめる悩みがあるのなら話してみてはどうだろう。聞くことしか出来はしないが、それでも少しは楽になるはずだ」
彼の瞳があんまり優しいので、私は胸にためた悩みを見ず知らずのこの男性に話し始めたのです。
私には恋人がいました。とても気が合い、仲が良く、私達は結婚する予定でした。ですが私の家は遠縁とはいえ子爵の家系。全くの平民であるあの人との仲は反対されたのです。私達は駆け落ちを決意しました。誰の目も届かない遠くで、二人で暮らそうと決めたのです。
けれど決行当日、あの人は待ち合わせの場所に来ませんでした。何時間待っても、何日待っても、あの人は来ませんでした。
あの人が来なかった理由を考えてもわかりませんでした。何かあの人にあったのではないかと心配もしたし、私を嫌いになったのだと、恐怖したりもしました。
私はあの人の家へ行きました。あの人は酔っているようでした。お酒などあまり飲まない人だったので私は驚いたのですが、あの人は酔った勢いで言ったのです。私の親から大金を貰ったのだと。
あの人は私を裏切ったのです。あの人は私の親が払ったお金で、私を諦めたのです。あの人には私よりもそのお金の方が大切だったのです。
私は傷つき、嘆き、そして憎みました。そして私は、あの人をこの手で殺してしまったのです………。
私は今とても後悔しています。いくら憎いと思ったとはいえ、今でも私はあの人を愛しています。一時の感情で、あの人を殺してしまったことを今とても後悔しています。
だからでしょう、毎晩夢に見るのです。私があの人を殺すその瞬間を。両手で握ったナイフがあの人の首の肉に入りこむ感触も、勢い良く吹き出す血が全身にぐっしょりと降りかかるのも、全て現実のように毎晩夢に見るのです。
話し終わって、私は息をつきました。なるほど目の前の男性の言う通りだったかもしれません。話してみて少し楽になったような気がします。私の話を、彼はただ黙って聞いていました。
「そう、それで酒を飲んで忘れたいわけだ。けれど酒では貴方には役不足だったようだな。だからこそ、毎晩ここに来ているのだろう?出よう。貴方に酒は必要ない」
彼は自分のグラスを空けると、代金を置いて立ち上がりました。
「ご婦人を一人で帰らせるわけにはいかないな。家まで送ろう」
私は彼の後について店を出ました。彼と並んで歩いていると目の前に人影が現れました。
何故でしょう、どういうことでしょう、幻覚でも見ているのでしょうか、その人影はあの人でした。私が殺したあの人でした。
あの人の前に、横にいた男性が進み出て、何事かあの人に告げました。するとあの人は困惑したようです。「え……ここに彼女がいるのか?何も見えないぞ」「見なくとも、確かに彼女はここにいる。これ以上毎晩悪夢にうなされるのが嫌だと思うならきちんと説明してやってくれ」あの人は戸惑いながら、私の前に立ちました。
「聞いてくれ。僕は君を裏切ったんじゃない。僕は君を今でも確かに愛している。本当だ」
何を言っているのでしょう。貴方はお金を受け取ったのではないですか。約束の場所に来なかったではないですか。
「僕が約束の場所に行かなかったのは君の側にいたからだ。思い出してくれ」
私の側に?私は約束の場所に約束の時間にそこにいました。私の側にいたというなら貴方もその場所にいたはずです。
「君は家を出る時に、君の家の者に見つからないようにと慎重に行動していたために時間に遅れそうになったんだ」
そうです。だから私は急いでいました。急いで約束の場所に行きました。
「家から出て、君は走った。まわりも見ずに走った。無我夢中だったんだろうね。君は馬車の前に飛び出して、そして轢かれたんだ」
馬のいななきが、蹄の音が、きしむ車輪の音が、悲鳴が、回転する視界が、舞った血飛沫が、おかしな角度に見える自分の腕が、声も上げられないくらいの全身の痛みが、突然思い出されました。
「大きな騒ぎになった。だから僕は、話を聞きつけてすぐに君の側に走ったんだ」
駆け寄ってくる貴方の声を、私の名を叫ぶ声を、遠くに確かに聞きました。
「駆け寄って、抱き起こしたけれどもう遅かったみたいだった」
霞む人影は貴方だったのですか。肩を抱く暖かさは貴方だったのですか。
「君は死んだんだよ」
そうでした。そうなのでした。私は死んでしまったのでした。けれど認めたくなかったのです。幸せになれるはずだったのですから、認めたくなかったのです。
「君のご両親は、君を殺しだのは反対した自分たちだと、自分たちが殺したようなものだと、そう言って泣いていた。僕に謝って、お金をくれた。僕は要らないと言ったのだけど、どうか受けとって欲しいと懇願するから受け取ったんだ」
私の親がそんなことを?それは違います。殺したのは違います。私を殺したのは
「僕が君を殺したようなものなのに」
そうです。貴方なのです。
貴方と約束しなければ私は死ぬことはなかったのです。だから私は貴方を憎みました。だから私は貴方の家に毎晩毎晩行くのです。
「ごめんね。僕と会わなければ君はきっと幸せになれたのに。ごめんね」
何故貴方は泣くのですか。何故貴方は謝るのですか。止めてください。どうか、どうか。
「寂しいんだね。だから僕を連れに来るのだろう?毎晩、毎晩」
いいえ、違います。違うのです。私は貴方が憎いのです。貴方はそのまま私の敵であればいいのです。憎むべき相手でいれば、私は毎晩貴方に会いに行くのです。
「もう寂しくないよ」
止めてください。止めてください。
「おいっ!」
「僕が死ぬから」
あの人は両手で握ったナイフを首に突き刺しました。手が肉に入りこむまで強く突き刺しました。勢い良く吹き出す血が私の全身にぐっしょりと降りかかります。全て現実のように毎晩夢に見た通りでした。
側にいた男性も、私も止めようとしましたが間に合いませんでした。
あの人はくたりとその場に膝をついて、そして前に倒れました。
私は傷つき、嘆き、そして涙が出ました。あの人の体を見つめながらただただ泣きました。
辛そうな顔で、溜息をついた男性は私のほうを見て声をかけました。
「……もし寂しかったら、私達の所に…………いや」
言いかけた言葉を途中で止めます。
「その必要はないな……」
上空で、あの人が私に手を差し伸べています。私はあの人の手を掴みました。誰の目も届かない遠くで、二人で暮らそうと決めたのです。
一緒に夜空へ、昇って行きました。
「お幸せに」