9話.雨の夜に
雨が降っている。
水滴が屋根を叩く音。風に吹かれた水滴が雨戸に当たる音。それらが伝わって地面に落ちる音。木の葉に水滴がぶつかる音。草がそれを受ける音。
それらの雨音をぼんやりと、フェザーナートは聞いていた。足を組んで椅子に座り、机に頬杖をついた姿勢はお世辞にも行儀が良いとは言えないが、それでもその姿が様になるのは彼の整った容姿のせいか、彼がこの世の者ではないからなのか。
外が見えるわけでもない雨戸の方を眺めているフェザーナートにエリクが声をかけた。
「ごめんねー。雨の日に君が外出れないの忘れてたよ。まだ日のある内に何か生き物捕まえてくればよかったね」
「いや気にするな。一日血を飲まないくらいで死ぬわけじゃない」
声の方に振り返れば、エリクは盆に一人分の食事とティーセットを一式乗せていた。それを慣れた手付きでフェザーナートの前に並べる。
「お久しぶりに普通の食事でもどう?」
フェザーナートは一瞬驚いてから、礼を言おうと口を開きかけたが漂う甘い香りに眉をひそめた。
「…………どういう嫌がらせだ?」
「あ。気付いた?凄い肉に見えるように焼いたのに」
目の前には焼かれたステーキが湯気を上げているように見えるが、どうにもそれからは肉の香りはしない。よくよく見てみると、パイ生地に見えなくもない。付け合せの茹でた芋に見えるのは薄く延ばした小麦を練った皮をつけたメレンゲだ。アスパラガスに見える物も、すり潰したほうれん草を入れて色を付けたゼリーだそうだ。
「凄くない?まるで本物でしょ?」
「そこで威張るなぁあああああ!!」
得意げなエリクにフェザーナートは思わず怒声を上げた。
「こんな所に凝る腕があるなら何故私の苦手な甘い物ばかり作るんだ?!」
「……苦手だからかな」
「真剣に答える所じゃないだろうそこは!お前自身はいつもこんな物ばかり食っているわけじゃないのだろう?!」
言いながら席を立って胸倉を掴んだがエリクは気にもせずに
「当たり前じゃん。そんなだったらとっくに病気になってるか死んでるよ」
何を当然、といった顔で答えた。
フェザーナートは諦めたように手を離し、俯いてさめざめと呟いた。
「その当たり前を私にも当て嵌めてくれ……」
言いながら椅子に座りなおすと、エリクがティーポットからカップに紅茶を注ぐ。
「紅茶は甘くないよー」
「……頂こう」
溜め息と共にカップに手を伸ばすと、向かいにエリクが座った。
「水は聖なる物だから吸血鬼は入れないってか……」
先ほどまでとは表情を変えて、考え込むような顔をしている。
「川も柩に入ってなきゃ越えられないし、海も駄目なんだっけ?そういや入浴はどうしてんの?」
聞かれて紅茶を一口飲んで答える。
「流れる水を越えられないだけだから、水を浴びることは可能だ」
「あれ?じゃあ雨も平気なんじゃないの?」
不思議そうに訊くエリクに、フェザーナートは自嘲気味に笑った。
「小雨ならな。これくらい本降りになれば地面は全て流れる水に含まれるわけだ」
エリクはわざとおどけた調子で頭を掻いた。
「そりゃ大変だ」
その軽いおどけた調子に乗っかるように、フェザーナートも笑って言った。
「ああ、大変だぞ?お前もなってみるか?」
しかし、訪れたのは沈黙。雨音だけが響く。
間を置いて、エリクは苦笑した。
「遠慮しておくよ」
「……悪い。冗談で言うものではなかったな」
フェザーナートもまた苦笑しようとしたが、それは口元を引きつらせただけで笑みの形にはならなかった。
「あー。こっちこそゴメン。冗談でしか言えないんだからのっときゃ良かったね」
そんなフェザーナートを見て、エリクは困ったように眉を寄せた。
暫らくの間を置いて、フェザーナートが戸惑いがちに口を開いた。
「……何故、冗談でしか言えないと思うんだ?」
「だって君、自分が嫌いでしょ?」
質問で返されて、言葉に詰まる。
「フェザーナート自身が嫌いって言うか……吸血鬼って言う存在の自分が嫌いでしょ?」
辛そうに表情を曇らせてから、かすかに頷いた。それを見てつまらなそうにエリクが言う。
「そんな君が、自分と同じ存在を増やそうとするわけないから」
言われて、俯いてからフェザーナートはかぶりを振った。
「私がそこまで生真面目だと思うか?」
表情の見えない相手に、少しだけ驚いたようにエリクが聞き返す。
「思ってるけど?」
「買い被りだ……。仲間が欲しいと、ある人を本気で仲間にしようと、そう思ったことがあるんだぞ?」
その声は、泣いているのか笑っているのか、少しだけ震えている。
「思っただけでしょ?実際に仲間を増やしたって言うならその人が君の傍にいるはずだ」
少し強い調子で言ったエリクの言葉は
「その人が自ら命を絶ったとしたら?」
返したどうしようもなく悲しい声音に凍りついた。
再び沈黙が辺りを支配する。聞こえるのはただただ雨の音だけ。
雨音を、耳障りだとふと思った。何故だろう、思い出すからだろうか。
沈黙に耐えかねたのか、感情のないような声で、ただ静かにエリクが口を開いた。
「……その人って、奥さん?」
顔を少し上げて、目を合わせる。
「……そうだ」
「聞いても良いかな?」
答えると、エリクは声の調子は変えずに、でも優しげな瞳で質問してきた。
「フェザーナートは、過去に何があったの?」
「昔話だ。長くなるぞ?」
溜め息混じりに聞き返すと、エリクは少しだけ笑った。
「いいよ。気になってたんだ。……王様と君との会話とか、エルクインが少しだけ話してくれた君の奥さんの話とか」
興味がある、のは確かなのかもしれない。しかし、それよりも興味があるから質問しているように見せかけているのだと、フェザーナートにはわかった。
さっきのは沈黙に耐えかねたのではない。エリクは神父だ。話すことによってフェザーナートの気持ちを穏やかにさせようと、神に許してもらえる様にしようとしているのだろう。そういう時のエリクの眼はいつだって子供をあやすような優しげな眼をしている。
自分を、人間として接してくれる彼に心の中で感謝をしながらフェザーナートは話し始めた。
「もう、五年も前の話になる……」
そうだ、きっと自分は、誰かにこれを話したかったのかもしれない。