白衣を着た赤い髪の青年は、片手で眼鏡を合わせながらもう片方の手で紙にサラサラとペンを走らせた。
「異常なし」
つまらなそうにそう言って、ペンを机の上に投げ出した。ざくざくとまばらに切った肩に届かない程度に長めの髪を掻き揚げる。
「もう少し面白いことを書かせて下さいませんか、旦那様?」
「それは無理な話だ」
負けず劣らずつまらなそうに、長い黒髪を首の後ろで束ねたこの屋敷の主が答えると、赤毛の青年は大きく伸びをした。
「じゃあ、病気でもなんでもない旦那様の診察はこれでお終いにして奥様の方に行って来ますかね。今日はまだ挨拶もしていませんし」
「ザディル」
“奥様”という単語が出た途端、屋敷の主フェザーナートは表情を険しくした。
「何ですか?」
ザディルと呼ばれた青年はにこやかに笑う。
「お前の挨拶とやらは……いい加減、変えたんだろうな?」
「いいえ?」
その悪びれた様子もない返答に思わずフェザーナートは声を荒げた。
「口説いて部屋に連れこもうとするのの何処が挨拶だ?!」
「人間関係を円滑にしたいだけですよ、わたくしは」
「お前は一体私の妻とどういう人間関係を築きたいと言うんだ!」
「そう怒鳴らないで方がいいのではないですか?ご病気のはずの旦那様はそんな大声は出さないはずでしょう?」
ザディルの眼鏡越しの灰色の瞳は冷たく光っている。
「生まれつき病弱で病気のせいで日光すら体に毒である。住み込みの主治医が毎日診察をしている……。公ではそうなっているのですから自らそれを嘘だと言うような真似は差し控えるべきでは?」
嘲笑うような主治医にフェザーナートは憮然とした態度で
「誰が怒鳴らせていると思っているんだ」
そう言ったが、ザディルは聞く耳を持たず、紙束をまとめると、白衣のポケットから赤い液体の入った小瓶を取り出し机に置いた。
「今日の分の食事ですよ」
「……ありがとう」
少しだけ、表情を和らげてフェザーナートが礼を言うと、ザディルは面倒臭そうに言葉を続ける。
「飲むならすぐ飲んで下さいよ?死人の血は毒……ということは生きた人間の血でも取り出して時間がたってしまえば毒になりえますからね」
そこまで言うと、何か言いかけたフェザーナートを待たずに席を立った。
部屋の戸に手をかけ、思い出したように振り返る。
「そうそう。旦那様から説得してくれませんか?奥様がわたくしの処方する薬を飲んで下さらないのです」
「何だと?」
フェザーナートの顔色が変わったのをザディルは面白そうに見て
「どうやら、わたくしは嫌われたようですよ」
薄い笑みを浮かべたまま部屋から出て行った。
妻が体調を崩したのは結婚して一年ほど経った頃だった。
頭痛、腹痛、目眩、吐き気。最初は風邪かと思ったが、徐々に食が細くなり、今は食事を取ってもすぐに嘔吐してしまう。それでも早く元気になりたいと、むせながらも食事を取る姿は見るだけで痛々しい。その彼女の努力も虚しく、症状は重くなるばかりで、口には出さないが満足に歩くことも辛いようだ。屋敷に来た当初はそんな小さな体のどこにと思うほど元気の塊だった彼女は、今は自室のベッドから起き上がることの方が稀になっていた。
軽くノックを二回。中からの返事を待つ。
「おはよう、フェザ。入って」
可憐な声だと思う。すぐに返事が返ってきたことと、声の調子から考えて今日はどうやら体調が良さそうだ。
「メイファ。俺はまだ名乗っていないぞ?」
言いながら扉を開け、中へ入る。窓際のベッドで、上半身だけ身を起こしてメイレンファナは笑顔で出迎えた。
ふわふわした淡い金髪はウェーブを描きながら腰まで伸びて、夕陽色の瞳が穏やかに微笑んでいる。それだけは、出会った時から変わらないが、元々華奢な体躯はなお細くなり、バラ色の頬と唇はその色を失ってしまった。
「毎日同じ時間に来るんだから、誰だってフェザだってわかるわ」
くすくす笑うその姿は、仕草のせいか、その笑顔のせいか、歳相応の、十六歳の若々しさを感じさせる。こんなにやつれてしまっているというのに十二分に魅力的だ。
「そこは自分だからわかる、と言って欲しかったがな」
言いながら近づき、ベッドの側の椅子に腰を下ろす。
「あは。私はフェザほど気障じゃないの」
「そうか?メイファの口説き文句は凄かったと思うが」
フェザーナートはそう言いながら、ベッドの横のサイドテーブルに無造作に置かれたショールを手に取ると、立ち上がって寝巻きだけしか身に纏っていないメイレンファナの肩にかけた。
嬉しそうに羽織らされたショールを片手で掴みながら、
「プロポーズしてきたのはフェザじゃない。私何か言った?」
「“一生離れてあげない”はプロポーズも同然だと思うぞ」
「それもそうかも」
椅子に戻ろうとするフェザーナートの手をメイレンファナは引き止めるように握り締める。
「……どうした?」
その手を握り返しながら、屈んで顔を覗き込むように視線の高さを合わせた。
「夜だけじゃなくて、朝も昼も一緒にいられたらいいのに」
少しだけ声を低くして言ったメイレンファナを、フェザーナートはゆっくりと抱締める。
「寂しかった?」
腕の中で、メイレンファナはこくりと頷いた。
「毎日会ってるのに、変ね」
言いながら、メイレンファナもフェザーナートの背に腕を回した。
「いや、君にそんなにも想われているのなら俺は幸せ者だよ」
「ほんっと気障」
抱き合いながら二人で笑いあう。
メイレンファナが病気になる前はメイレンファナもフェザーナートの部屋で寝起きしていた。だが、病気になってしまっては、メイドに世話を任せるしかない。吸血鬼であるフェザーナートには日光のある朝や昼にメイレンファナの看病は出来ないのだ。そうなると、メイレンファナには自室で過ごしてもらうより他なくなる。フェザーナートが、館の、ここの土地の主が吸血鬼だということは、当人以外には二人を除いて誰も知らないし、知られてはいけないのだ。
神の意に反する存在を認めることはそれ自体が罪なのだから。
「メイファ」
「なぁに?」
「食後の薬は……どこだ?」
いつもなら、サイドテーブルに水と薬があるはずだった。水しか姿が見えない。
彼女の顔も困ったような不安げな表情になる。
「あの……あのねっ」
咎めるように目をやると、戸惑いながらも言葉を吐き出した。
「今日は、気分が良くて、それで、戻したりもしなかったし、だから……」
「それでまた体調を崩したらどうするんだ?」
「~…意地悪。フェザは、あの人どう思う?」
違う話題でさらに疑問形で返されて一瞬面食らう。
「ザディルか? 態度はともかく、先代の時から世話になっている医者だしな。まぁ、その息子か。腕は信用しているが……。まさか、あいつに何かされたのか?!」
「そうじゃ、ないけど……」
慌てて言うと、苦笑いで否定された。
「私ね、あの人怖い」
「怖い……?」
確かに軽薄で嫌味たらしいが、怖いとは違う気がする。何より、先代が信用した、吸血鬼の秘密を知っている人物の息子だった。
「私らしくないって思うかな。自分でもなんでだろうって思う。でも、怖いの」
弱気な彼女は本当に脅えているように見えた。
「だが……。メイドが高熱を出したときも、君が脚を折った時も、治ったのはザディルあってのはずだ」
言いながら、少女を少しだけ抱き寄せる。
「心配させないでくれ……」
少女もまた、コツンと頭を胸に寄せてきた。
「ごめんなさい。何でもないの……」
幸せな時間が続くと思っていた。
妻の病気は治るし、また二人で笑いあえる。屋敷の皆と統べる臣民と、笑い合える。
子を作り成長を見守ろう。いつか子供が、この土地を治められるようになったら、自分は姿をくらまそう。静かに老いていく妻と同じ時間を過ごせたらそれでいい。
起こり得ないと思っていたのだ。
頭の片隅でその場面を想像しても、起こり得ないと思っていたのだ。
その望みが手折られる瞬間など。