雨が降り始めた。
屋敷の火が雲を呼んだのだろうか。
フェザナートは東屋にいた。傍らにはメイレンファナが寝息を立てている。
あの後フェザーナートはメイレンファナを抱えたままワイン蔵の通風孔に飛び込んだ。
普段は自分だけ脱出などしないといって、行き方さえ知らない城主専用の抜け道に繋がっていたのは奇跡と言っていい。
屋敷と町から少し離れた東屋。メイレンファナは少しの火傷と髪の先が焦げ、フェザーナートは髪の先が少し灰になった。二人とも煤まみれで、ちらりと見ただけでは伯爵と伯爵夫人だとはとてもわからないだろう。
わからなくとも追手は来る。
火が消えれば、そこに死体がないことに気付いたザディルが通風孔を見つけるだろう。
そうすれば、自分たちと同じルートで繰るとは限らない。ザディルは狡猾だ。どこに繋がっているかを調べ、人を連れてここを囲むだろう。
そうなる前に。
そもそもの元凶が自分なのに自分だけ逃げるわけには行かないのだ。
「行ってくるよ」
フェザーナートは自分の上着を眠っているメイレンファナにかけ、来た地下道を戻り始めた。
あの時門にいたリーダー格は首謀者ではない。
フェザーナートが吸血鬼であると予め知っていて、その話を徐々に広め屋敷を焼くように煽動できる人物、ザディルだ。
――何故、今更。
彼の親の代から、彼らが使えている相手は吸血鬼だと知っていたはずだ。今更になって何故暴動を起こす?
答えを聞くため、騒ぎを静めるため、必要であれば自分の命を差し出すため、フェザーナートは焼け跡に足を踏み入れた。
地上には上がれない。雨が地面を流れていては、穢れた身の自分はそれを渡れないからだ。ワイン蔵の焼け跡は崩れもせず、雨漏りもなく、ただこげた匂いがする。煙はまだ残っているようだった。
大勢が待ち構えている気配はここにも階段を上った先にもしない。
「意外だな」
「そうですか?」
返事はすぐ傍からした。焼け焦げたワイン樽の影だ。
「わたくしと話をする為に戻って来られたのでしょう?」
「確かにそうだが、お前は私と話すことなどないだろうと思った」
言うとザディルはくすくすと笑う。
「ええ、そうですね。しかし私以外の屋敷の者たちが皆旦那様の味方をするものでね。不利になる前に先手を打っておこうと思いました」
不穏な響きを含む物言いに、思わず眉根を寄せる。
相変わらずザディルは余裕そうだ。
「私は元々貴方も先代も嫌いでした。理由は言わなくてもわかりますね?」
「ああ。それが当たり前のことだともわかっている」
「けれどね、領主としては優秀だと認めざるをえません。民衆も、使用人たちからも支持が厚い。それになにより」
ザディルは一度言葉を切って、つとフェザーナートに目線を合わせた。
「貴方たち自身が自らを憎み消えたがっていた」
思わず言葉に詰まる。そんな事に気付かれていたとは思いもしなかった。
「それならば別にいいんですよ。私が手を下すまでもない。……そう思っていたんです」
思い当たる。
何故ザディルが今手を下したのか。フェザーナートが生きていこうと思い始めてしまったのは何故か。
口を開く前にザディルが言葉を続けた。
「私は貴方が消えればそれでいい。大人しく死刑になってください。抵抗するなら何も知らない屋敷の使用人を全員仲間として殺します」
「なんだとっ?!」
「使用人たちが無事逃げのびたとお思いでしたか?重要参考人として皆捕らえていますよ」
背筋が寒くなる。
「すぐに解放してくれ。私には抵抗する意思がない」
にっこりとザディルが微笑む。
「助かります」
「駄目よッ!」
通風孔から、人影が転がり出てきた。
「フェザは何も悪くないもの!悪いことなんて何もしてないもの!」
フェザーナートを背にして、ザディルの前に立ちはだかる、夕陽色の瞳の少女。
「なのに死んでいいはずなんてない!」
メイレンファナを見て、ザディルが溜め息をついた。
「化け物が生を望むこと自体が馬鹿げていると何故わからないのでしょうねぇ」
ザディルは困ったように肩をすくめた。
「メイファ」
「フェザ……」
メイレンファナに声をかけると心配そうな顔で振り向いた。
「君といられて楽しかったよ。だがここまでだ」
トンと、その小さな背中を押す。
「元気で」
その傾いた体をザディルが支えた。
「嫌よ諦めないで!皆も、フェザも助からなきゃ駄目なの!」
暴れる少女の体をザディルは離さない。
「こうする予定は最初から?」
「着いてきてるのがわかった時からな。保護してくれ」
言って、泣きそうな少女から目を逸らす。
これでいい。元々が自分さえいなければ起こらなかった事態だ。自分の死でけりがつくのならこれ以上のことはない。
「お断りします」
「?」
ザディルが薄い笑みを浮かべたままきっぱりと言った。
「奥様は貴方の生を望み、貴方にもそれを望ませた。消えるべきは貴方一人ではありません。貴方と彼女の二人です」
フェザーナートの目に動揺が走る。
「メイファは関係ないだろう!」
メイレンファナを掴まれているせいで剣を抜くこともできないまま叫んだ。
「関係ありますよ。彼女は堕落を呼ぶ魔女。貴方は吸血鬼。どちらも死刑だ」
「だからね?!だから変な薬っ…!」
掴むザディルの手を離そうともがきながらメイレンファナが言う。
「カンが良い女性は嫌いではありませんよ。死期を早めただけでしたがね」
「メイファの病気もお前が…?!」
怒りに任せて拳を握った。
ザディルは微笑んで頷く。
「奥様が亡くなれば旦那様の考えは変わると思ってましたから。奥様に勘付かれたのでこういった形になりましたが、できるなら正面から化け物と敵対するなどしたくなかったのですよ」
わざとらしく「恐ろしい」と身震いした。
「さて旦那様?一緒に歩きましょうか?こうしていれば従うしかないでしょう?従ったところで、二人とも死ぬしかないと知っていてもね」
ザディルがメイレンファナの体を片手で抱え、ナイフを彼女の首に突きつけながら言った。
「だめよ、フェザ…」
それでもメイレンファナは自由になろうともがく。白い首筋に切り傷がついた。
「やめてくれ。言う通りにする。メイファを放してくれ。どうしたら彼女を殺さないでいてくれる?何でもする。メイファは関係ないんだ」
剣を放り、フェザーナートは懇願する。
自分と会ったせいで彼女が死ぬなど。自分のせいで彼女が死ぬなど、起こってはいけない。そんなのはただの巻き添えだ。
「そう言われましてもねぇ」
ザディルは困ったように肩をすくめた。ふと、思いついたように笑えない冗談を言う。
「こういうのはどうです?奥様が自ら命を絶てば、私は殺さなくてすみます。私が旦那様に殺されますけどね」
「ふざけるな、そんな事を言っているんじゃない!」
冗談だとわかっていても、拳が震える。
「わかってますよ。奥様のことだから本当にしかねない。ナイフを渡したりしませんとも」
そこまで言って、黙っているメイレンファナに目が行く。
「おや、静かになりましたね」
「ねえ、フェザ、覚えてる?」
ザディルを気にもせず、顔を上げて、メイレンファナはフェザーナートを見つめた。
「フェザが心配させるなって言ったから、私、今も持ってるの」
「メイファ…?」
言ってる意味を掴みかねて、フェザーナートは眉をよせる。不安に肌があわ立った。
「皆を助けてね。私、足手まといにはならないから」
手にしたのは大量の薬。
それは、致死量の毒薬。
「やめるんだっ!やめろ!!」
一瞬だけ微笑んで、メイレンファナは小瓶の中身を飲み干した。
「そんな、本気で…?!」
既に人質の役に立たなくなった少女の体を、ザディルは驚きながらも突き放す。
その一瞬で。
すぐ傍まで詰め寄ったフェザーナートの手刀が、ザディルの片腕を切り裂いた。
「うわああああああああああああああああ!」
悲鳴をあげてうずくまる男に目もくれず、フェザーナートはメイレンファナの体を抱き起こす。
「メイファ、メイファ、メイファ……!目を開けてくれ」
体をゆするが、メイレンファナの顔色はどんどん悪くなっていく。血に濡れた片手から、ずるり、と少女の半身が滑り落ちた。
「は、はははははは。とんだ喜劇だ!」
地面に転がり、切り裂かれた腕を抱えながら、ザディルは笑った。
「美しい悲恋の結末。これが笑わずにいられますか。魔女と、吸血鬼が、相手を想うあまり自ら命を絶つなどと!」
出血死してもおかしくない量の血を流しながら、笑う男の胸倉を、フェザーナートは掴み起こした。
「解毒剤は?!持っているんだろう?!」
しかしザディルは小馬鹿にするように笑う。
「はっ。死んでもどこにあるかなんて言いません……よ……せいぜい、泣き叫……」
そこで、かくんと力が抜ける。気を失ったようだ。助からないだろう。
もう一度、メイレンファナに向き直る。倒れた体を、もう一度抱き抱える。
メイレンファナの体は動かない。
「メイファ」
呼び掛けに応える声なく。
「謝ることも…」
自分のせいでこんな目に。
「礼を言うことさえ、させてくれないのか」
ついて来てくれて、嬉しかったのに。
「意地悪なのは、君の方だ……」
全ての言葉が、こんなに傍にいる彼女に届かない。
“意地悪ね”そう言ってよく彼女は笑っていた。
笑い声が今はもう思い出せなかった。