神様に乾杯 10話 - 2/6

「では、夕飯の用意ができたらお呼びしますわ。その時には旦那様もいらっしゃいますよ。それまで休んでいてください」
そう言ってセリアは部屋から出て行ってしまった。
「旦那様のこと聞きたかったんだけどなー」
まぁ、すぐに会える訳で特に問題はない。あるとすれば、時間を持て余してしまっていることだ。確かに疲れてはいるが、まさか寝るわけにもいかない。
「……よしっ」
腰掛けていたベッドから立ち上がると寝室から繋ぎ部屋に行き、そして廊下への扉に手をかけた。
「私の家になるかもしれないところだもの。探検したって問題ないわよね」
そんなこんなでメイレンファナは屋敷の中をうろつきまわり始めた。
大雑把な構造はどこの屋敷もあまり変わらないが細部が違って面白い階段を上ると天窓。扉を開ければテラスが。「素敵ねー」そんな感想を漏らしながら色々見て回っていると、窓一つない暗い一画に来てしまった。
「ここだけ別世界のようだわ…」
何となく気味の悪さを覚えつつも進むと、突然横の戸が内側から開いた。漏れて来るのは蝋燭の明かりと、人影。
「……おや」
メイレンファナを見て片眉を上げた明かりを持った男は白衣を着ていた。
赤い髪の背の高い美貌の青年だ。二十代の後半あたりだろうか?長めの髪をざくざくとまばらに切っているがだらしのない印象はなく似合っている。けれど、眼鏡越しのグレイの瞳はとても冷たい印象を与えた。
「えっと、あのっ」
メイレンファナがもしやここは来てはいけない場所だったのかと思い何を言おうか考えていると
「お美しいお嬢さん」
男はそれはそれは優雅に一礼すると、メイレンファナの手を取り
「私はザディル・ハワードと申します。ぜひあなたのお名前をお聞かせ願いたい。ああ、こんな所で立ち話もなんですから私の部屋にでも……」
早口で言いながらメイレンファナをどこか――この場合彼の部屋か――へ連れて行こうとする。
「え?ちょっまっ」
「その手を離せ変態ドクター」
ドクターと呼ばれた青年の後ろからもう一人の男が現われた。
「変態とは失礼な。私はただ挨拶を」
「部屋に誘うのが挨拶か?」
不機嫌極まりない声で後から出てきた男が言って、メイレンファナの手を掴んでいたザディルの手を放させる。
そこで、初めて男の顔が見えた。男からも、彼女の顔が見えたのは今この時だろう。
「君が…」
神話から抜け出たような二十歳そこそこの、それはそれは美しい美青年だ。この容貌を見てはさっきの男の姿も霞む。腰まである黒髪を首の後ろで束ねて、きちんとした身なりの男。
「私はフェザーナート・アムシエル。この屋敷の主だ。君は、メイレンファナ嬢だな…?」
「はい、そうです。……あの、初めまして。お会いできて嬉しいです」
あまりの唐突な登場に戸惑いつつ答え、気を取り直して飛び切りの笑顔で挨拶をする。
「それは良かった」
対して返事はそっけなかった。
表情一つ変える事なくそれだけ言うと、まるでメイレンファナなど目に入らないかのようにすたすたと歩き去ってしまう。
――……それだけ?
怒りも悲しみも悔しさも、何も追いつかなかった。ただ、ただ驚いた。
「あーれー?旦那様……?」
ザディルも驚いたらしく、不思議そうにフェザーナートの消えた方向とメイレンファナを交互に見やる。
「お嬢さんは旦那様の婚約者……ですよね」
「……そうよー……?」
ぼうっともう居なくなってしまったフェザーナートの方を見たまま、呟いた。
「……妙ですねぇ。絶対、気の遠くなるようなとんでもなく甘い台詞を言うと思ったのに。……そろそろ食事の時間でしょう。ご案内しますよ」
前半は独り言のように、後半はメイレンファナの背を軽く押しながらザディルが言う。
「うん、ありがと…」
まだぼんやりと答え、ザディルに促されるままにメイレンファナは歩き出した。

何か、甘い言葉を期待していたわけではない。朗らかな笑顔を期待していたわけでもない。
「でも、何かもうちょっとあるでしょう?!」
言いながらメイレンファナはクッションを放り投げた。
「何なのよあのヒトー!!」
部屋の中心に向かって浮かんだクッションに部屋の角から軽く助走をつけて走り出すと軽やかに飛び上がり鮮やかな飛び蹴りを決め、そのままクッションとともにベッドにぼふんと着地する。
「……運動、お得意なんですね」
脅えたような呆れたような声が後ろから聞こえた。
「えっ?!あ、居たのセリア?!」
慌てて振り返るとメイレンファナは取ってつけたような笑顔を向ける。
「居りましたよさっきから……。どうなさったんですか?セクハラ医者にでも会いました?」
「そーじゃなくて、あのヒト!旦那様!」
「あぁ、お優しい方でしょう」
夢見るようにうっとりと言ったセリアを見て、思わずメイファは声を上げた。
「はぁ?!」
「素敵な方ですよねー。夕食の時は何を話されました?」
「…………何も?」
「はぁ?」
会話がかみ合わない。
「だって夕食の時、あの人何も話さなかったわよ?!私が話し掛けても何も言わないで。私なんか居ないみたいに過ごすんだからっ!」
「そ、そんなの旦那様じゃありませんっ!旦那様は私のような一介のメイドにも声をかけ気遣ってくださるお優しい方です!」
「それこそ誰よ!」
声を張り上げてから、メイレンファナは唇を尖らせたまま
「……ごめんなさい。セリアに怒ったって仕方ないのに……」
謝るとセリアも慌てて、
「いえ、私もその場にいたわけでもないのに勝手なことを言ってしまって……」
申し訳なさそうに謝る。
メイレンファナは愛らしい顔に不満を浮かべたまま
「……要するに、旦那様は普段は良い人なのね?」
そう尋ねると
「はい、とっても」
セリアはこっくりと頷いた。
「メイファ様に対しては違うわけですか?」
「とっても嫌な人よ」
メイレンファナはぷーっと頬を膨らませて
「無愛想で必要最低限以下のことしか言わないのー。でねっ態度からいちいち『帰れ』って言ってるみたいなギスギスが伝わってくるのようーっ」
まるで小さな子供のようにじたばたと手足を動かしながらセリアに訴える。
「うー…ん、私やっぱり信じられないんですけど……」
「えーっ!ひどーい、本当なのに」
「いえ、メイファ様を疑うのではなくて…」
困ったように、セリアが首をかしげる。
「想像もできないんですよ。そんな旦那様…」
心底解せないらしいセリアを見ながら、メイレンファナも心底納得行かない気持ちで溜め息をついた。

あてがわれた部屋はなかなか居心地が良い。日当たりもよく、風の通りも爽やかだ。
「セリアは良いこだし執事さんは良い人だし。あの人さえ話通りの人ならなぁー」
昨晩、セリアに頼んで何人ものメイドや執事に旦那様とやらの話を聞いて回った。
「少し短気ですが良い方ですよ」
「身分に関係なく自分に落ち度があれば謝れる方です」
「ちっとも偉そうにしないんですよ」
「誰にでも敬意を払って接してくださいます」
悪い話は聞かない。
「旦那様?あんな優男より私の方が…」
「セクハラ医者は黙っていてください」
ザディルとかいう住み込みの医者の話はついて回ってくれたセリアに遮られた。
「…………セクハラなの?」
「失敬な。いいですかお嬢さん、私は…」
「若いメイドで触られたことのない人はいませんよ」
「……恥知らず」
今のは完璧に余談だが。
そんなわけで、メイレンファナと同様の感想を持つものは誰一人としていないことはわかった。
「じゃあ、その良い人の面をなんとしても見てやろうじゃない。それまで帰ってやるもんですか」
固い決意で拳を握り、メイレンファナは朝食を済ますと立ち上がった。
旦那様とやら――……標的が動くのは夜。日のある内は彼のほうから出てこないどころか、こっちから部屋に訪ねることも許されないらしい。
ならば、日のあるうちは、要するに暇である。
「これどこに持っていくの?」
とりあえず、使った食器を両手に持って近くのメイドに尋ねると
「そ、そんな事なさらないでいいんですよ!置いておいてくだされば……!」
「いいじゃない、やりたいんだから」
慌てて止められたがツンと反論して
「えーっと、洗い場は確かあっち……よね?じゃ、行きましょ」
食事を持ってきたカートにてきぱきと食器を載せてカートを押して歩き出す。
「メイファ様?!」
慌てるメイドたちを気にすることなく
「ねぇ一つお願いがあるんだけど」
「な、なんですか?」
「皆いつもいつ起きていつ朝ご飯食べてるの?私も早起きするから皆と一緒に食べたいな。昼は一緒に食べてもいい?」
「え、……あ、え?」
「寂しいんだもん、いいでしょ?」
にっこり笑って頼むとメイドは返答に困って曖昧に笑うだけだった。

食器洗いやら洗濯やら、午前中の仕事を手伝い、労働した仲間たちと昼食を取った後、午後も手伝おうといったのだがやんわりと断られてしまった。
「何よねー。別にこんなこと何でもないのに……」
金欠の彼女の家は召使が少ない。だから彼女は日ごろからよく手伝いをやっているのだ。水仕事で荒れた手では社交界に出たときにみっともないと両親からは止められているのだが。
仕方なくメイレンファナは庭をうろついている。季節は初夏。木々は淡い緑がずいぶん濃くなって木漏れ日が心地良いし、花壇では手入れの行き届いた色彩鮮やかな花々が咲いている。見ているだけで少し嬉しくなっていく。
花壇をじっと見ていると、庭師の男が声をかけてきた。
「気に入りましたか?」
「ええ、とても。素敵な庭ですね」
「はは。有難うございます。でも、私が一人でやっているわけじゃないんですがね」
「ああ、他の庭師さんもいらっしゃるのね」
「いえ、庭師は私一人ですよ」
「え?じゃあ誰が……?」
驚いて目を丸くすると、もっと驚きの答えが返ってきた。
「旦那様ですよ」
「…………え?」
「前にですね、花が病気になったことがありまして、薬を買ってきたんですが雨が降っていてその日は諦めたんです。でも夜には晴れてまして……朝起きてみれば、病気の花にはみんな薬が蒔かれてました」
「でも、それって他の人がやったかも……」
何となく反論すると、庭師はニコニコ笑って
「嵐の晩に、強風で枝が折れないように縄で固定しに行った時に同じ目的で雨の中に外に出てきた旦那様に会いましたよ。その時に花の薬のことを聞いたら照れたのか言いふらすなと口止めだけなさいました。他にも色々なさってくれています。お屋敷の中で一番この庭を愛している方ですよ」
メイレンファナの意見を消してしまった。
「……」
心惹かれる庭を見ながら、自分を無視するあの男と皆の話に出てくる旦那様を思い浮かべ比較してみる。
一致しない。
「まるで別人のようだわ」
メイレンファナは眉をよせて嘆息した。